第五話 わたし、なんにもなくなる


 真夜中だった。

 智子は祠の前で膝を折り、地面に額を付けていた。

「ごめんなさい……」


 電池式のランタンが祠と智子だけを狭く照らす。

 ランタンの周囲には無数の小さな蛾が飛び交う。遠く近く、地虫たちが甲高い輪唱を上げている。


「ごめんなさい……」

 悔しさと情けなさと惨めさと、あらゆるものが綯い混じった涙が地を濡らす。「ごめんなさい……」


 わたしが、悪いものをもたらした。


 全部……わたしのせいだ……

 痛切に智子は思った。

 わたしが余計なことをしたばっかりに、村のみんなにも迷惑をかけて、高田さんにも迷惑をかけて、まだちゃんと神社でご奉仕もしてないから、挙句の果てには神さまにも、ご先祖さまにも、宗教違うけど仏さまにも、そうしてついにはお国にまで迷惑をかけた。


 もう、どうしようもない。


「ごめんなさい……」


 ただ、それでも神さまを棄てるわけにはいかない。

 それだけは智子のまごころが許さなかった。


 いずれ祠を作り直すことを念頭に、智子は、しばらくの間、実家の智子の部屋に御神体を匿おうとしていた。そのために、智子はこの日、真夜中にこっそりと一人で山に登っていたのだ。


 祠の扉を開ける。

 智子は殿舎の内側、一メートル四方ほどの床板の隅にランタンを置く。次いで彼女は上半身を伸ばして殿舎の奥へと差し入れた。そうしてそこに鎮座まします御神体の箱を、遠い先祖の骨壷もさながらに、そっと胸に抱いた。

「……さあ、行こう……神さま……」虚ろな声で智子はつぶやく。


 そのときだった。

 長年に渡る雨風と日照りにさらされ、傷んで朽ちていたのだろう。不意に智子の上体が乗っている殿舎の床板の一部が割れる感触がした。


「ひぇっ!」バランスを崩し、智子は思わず悲鳴を上げてのけぞろうとする。

 しかし暴れたことが災いし、今度は床板全体が割れてゆく。それに伴い、智子の上体はさらに斜めに沈んでいった。

 足が宙を浮き、智子はジタバタとさらにもがく。弾みで智子の頭が祠の床下にすっぽりと埋まった。

 割れた床の間から床下が覗く。それを目の当たりにするや智子は思わず目を剥いた。

「なにこれ!?」

 祠の床下は石の土台が縁をぐるりと囲っているだけで、真下が地面の下まで続く深い空洞になっていたのだ。

 しかしそれを確認する間もなく、バキリ、と一際大きな音が響き。ついに床板全体が真っ二つに折れた。智子の身体がすっぽりと祠に呑み込まれてゆく。


「ちょっと! 誰か! 神さま! 神さまぁ!」

 甲高い声で叫びながら、智子は祠の真下へと真っ逆さまに落ちていった。



                   *



「痛った~。……なんだよ、もぉ」

 人一人がやっと通れるくらいのゆるい傾斜のついた坂。その中を智子はころころと転がり落ちていったのだった。

 暗闇に閉ざされた中、それでも平坦と思しき場所に転げ出る。腰を打った衝撃で智子は少しの間、身動きが取れなかった。

 数十秒を経て、ようやく顔をしかめながら上体を起こし、片手で腰をさする。

「なにさ! わたしはおむすびじゃないんだよ!」

 ぼやいた途端、智子の後を追うようにランタンが転がり落ちて来た。

 智子は立ち上がり、ランタンを手に取ってかざした。

「なんだろ……ここ……」

 そこは智子の知るあらゆる場所とも違う、まったく異質な空間だった。

 十畳程の広さのある、コンクリートで固められたかまぼこ型の部屋。古びたコンクリートには細かい亀裂が入っており、地面の湿気を吸ったのだろう、そこかしこに暗緑色の苔がまだらにはびこっている。

 壁面の随所には、先ほど智子が転がり落ちてきたのと同様の細長い穴がいくつも穿たれており、どうやらそれらはすべてどこかに通じているようだった。

 智子はランタンを動かして部屋をくまなく見回した。

 部屋の奥には木箱がいくつか並んでいる。そのうちの一つの上には、白くホコリをかぶっているものの、きっちりと畳まれた詰め襟のような服と、公務員が被るような帽子が置いてあった。

 天井部にはもう点くことがないだろう電球が黒い傘の下に吊るされていた。その真下、部屋の中央部には質素な木の机と、それを挟むように二つの木椅子が置かれていた。


 突如、智子は身を震わせた。

 ひどく寒い。

 部屋全体が醸し出す暗い雰囲気に、さすがの智子も妙な気分になってきた。

 ……黄泉の国ってこういうところなんだろうか。

「あのよぉ、ここはどこかね。黄泉だけに」

 心細さをダジャレでごまかしつつ、智子は中央の机へと歩み寄る。


 机の上には黄ばんだ数枚の地図と、和綴じの本のようなものが置かれていた。

 地図を手に取って眺める。一枚目は岐阜県の地図、二枚目は、現在とは家屋の配置が異なっているものの、村と祠の山を中心にした周辺の地図だった。それぞれには地図のほかにルートのような線がいくつも引かれている。そして残りは――おそらく――この部屋を中心にした、この建造物と思しきものの地図だった。


 次いで智子は、和綴じの本を手に取る。表紙には『ツ號作戰要領』と書かれている。

 だが、表紙をめくった途端、びっしりと書き込まれた達筆の文体を目の当たりにし、智子は思わず顔をしかめた。


 ――夲據點ハ來タル夲土决戰ニ備ヘ、夛數殉忠ノ將士ノ責ヲ負ヒ、其ノ防衞ヲ敢行スルタメノ橋頭堡トシテ重要ナ役割ヲ果タシ――


 恐ろしく読みにくい文章ながらも、さすがは神道学科を卒業しただけはあり、智子はぱらぱらと紙をめくり、大雑把ながらも文意を汲み取ってゆく。

 ややもして本を読み終えると、智子は顔を上げ、ぽつりとつぶやいた。


「……ひみつきちだ……」


 本は作戦書だった。そしてここは、作戦のため、山中に建造された要塞だった。

 大東亜の大戦末期、劣勢に立たされた日本軍の一部は、本土決戦に備えて秘密裏に国内要所の山腹に穴を掘り、内部に要塞を設えた。要塞の内部は敵を迎え撃つための仕組みに特化しており、司令室や弾薬室、貯蔵庫などに分かれた無数の部屋と生活のための手段、そして山のあらゆる箇所に通じる通路を作っていた。


 誰かが、秘密裏に日本を――みんなを守ろうとしていたのだ。


 敵が来る。智子は拙いながらも想いを馳せる。敵が本土――お国を侵略してくる。もうどこにも逃げる場所なんてない。だからもし、そのような時が来ていたら、日本の軍人さんたちは、お国を守るため、ここを拠点に決死の覚悟で戦うことになったのだろう。


 ――決死の覚悟。


 智子の背筋がぶるっと震える。それは寒さから来たものではなかった。

 なにか見てはいけないものを目の当たりにしたかのように、智子は神妙な面持ちでそっと作戦書を机に置き、小さく嘆息した。そうしてふと背後を振り返るや、目を大きく瞠った。


 智子の落ちてきた跡に御神体の箱が転がっていた。

 落ちたときの衝撃だろうか、箱の蓋が外れている。


 ――封が――解かれていた。


「……神……さま……?」


 小走りに駆け寄ると、智子は地に膝を突き、両手でうやうやしく箱を掲げる。それから開いた箱の中をそっと覗き込んだ。

 そこにあったものは布地に巻かれた細長いものだった。

 巻かれた布地を智子はくるくると解いてゆく。

 布地と思われたものは日の丸――日本陸軍の軍旗。そしてそれに包まれていたものは、一振りの軍刀だった。

 智子は刀を膝に載せたまま、腕を開いて旗を広げる。

 実際に戦場で掲げられていたのだろう。軍旗は爆風に大きく裂け、手榴弾の破片と弾丸を浴びて無数の穴が空いている。色あせた褐色の染みは血か、泥か。

 そして、白地に収まる日章を中心に、軍旗には、放射状にたくさんの人々の名が連ねられていた。


 智子はしばしの間、そこに書かれた一人ひとりの名を食い入るように見つめていた。

 祈りが、そこには垣間見えたからだ。


 ――果たして、このうちの幾人が、生きて日本に帰ってこられたのだろうか。


 そうして一人ずつの名に目を移してゆくにつれ、やがて智子は旗に記されたある名前を見つけ、思わず声を上げた。

「おじいちゃん!」


 突然、智子の脳内で、これまでバラバラだったなにかがつながってきた。

 なぜ、この山が――祠があれほど人を寄せ付けなかったのか。なぜ、祖父があれほど智子を山から引き離そうとしたのか。なぜ、祠の真下が地下への入り口だったのか。


 ――この山は封じられていた。祠そのものが封印だったのだ。

 人を寄せ付けないように。

 日本を滅ぼそうとするものが来る、その日まで。

 わたしの、先祖によって――


 でも、と智子は軍旗と軍刀を胸に抱えたまま、その場に座り込み続ける。


 ――今や、その封印は、解かれた。


 智子の膝が小刻みに震え出す。

 智子は思い至った。

 神が――智子の、そして日本の先祖たちが、智子に何を願っているのかを。



 ――守らねばならない



                   *



 一体どれほどの時間が経ったのだろう。

 智子は地に膝を突き、刀と旗を抱いたまま、神の胎内で一人頭を垂れていた。

 寒さと怯えに智子の唇はとうに色を喪っている。

 智子は自らに課された耐えがたいほど重い責務に煩悶し続けていた。


 じきに村の再開発が始まる。いざ公共事業が始まれば、あとは美術館が完成するに至るまで、ブルドーザーのようにすべてが押し切られてしまうだろう。そうなってしまえばもう打つ手はない。村は観光地として、日本全国のみならず全世界から人を受け入れ、村の中央に据えられた美術館によって半永久的に日本を貶め続けることになってしまう。


 だが、智子は気づいた。唯一それを止める方法があることに。

 再開発事業のすべてを統括する責任者――県知事の大沢を消してしまえば、計画は白紙に戻る。

 今ならまだ間に合う。

 しかしそれは智子にとって、これまで考えたこともないほど恐ろしいことでもあった。


 ――わたしがやらなくちゃいけないの?


 自然と心が囁いてくる。抗うように腕の中の軍旗と軍刀に目を落とす。


 旗は、なにもできない。

 刀は、なにもできない。


 神は、罰を与えない。


 ――だったら、わたしがやるしかない。


 自分がこれから果たすであろう責務を想像し、智子の奥歯がガチガチと音を立てる。


 悪いものを呼んだのは、わたしの責任だ。

 わたしが、責務を果たさなくてはいけない。


「守らなくっちゃ……」


 智子は呻くように一人、つぶやく。

 万力で締め付けられるように胸が苦しい。

 言葉とは裏腹に、心がさらに激しく抗う。


 ――やだ! 恐いもん!


 逃げ出したい。ぜんぶ忘れて、どこか遠くに逃げ出したい。何もかも見なかったふりをしたい。

 再び心が囁くや、しかし途端に軍旗を、軍刀を越して先人たちが――智子の裡より激しく訴えかけてくる。


 ――守らねばならない


 怯懦に呑まれかけた己を再び取り直す。

 今のままでは神さまにも、ご先祖さまにも、お国にも悪いものが及んでくる。

 だから、わたしは、わたしに課された責務を果たさなくてはいけない。


 ――でも……どうして、わたしが……。


 必死の思いでさらなる声を絞り出す。苦悶とともに涙が滲む。


「……守らなくっちゃ……」


 葛藤と逡巡と決意がぐるぐると智子の内面を駆け巡る。

 智子は涙を交えつつ、さながら祈りの文句のように、同じ言葉を繰り返し続けていた。



                   *



 夜明けはまだ遠い頃、

 静謐に包まれた中、智子は果てしなき祈りを続けていた。

 しかし不意に打たれたようにその身を硬直させる。


 智子が――智子の魂が感じていた。

 朽ち果て、打ちのめされ、傷つけられ、嘲られ、貶められ、疎外され、昏き地の底で独り苦しみに喘いだことで、深々と無数に亀裂の入った、智子の魂を包む殻――これまで智子と世界を別け隔て、智子を智子たらしめんとしてきた矮小なる魂の殻――が自らの裡(うち)でパキリと音を立てて割れてゆくのを。



 ――時が、訪れた。



 割れた魂の殻の裡から、これまでに少しずつ少しずつ溜めてきた、智子の赤心が、まごころが、心が、祈りが、清冽なる信心が、とめどなく湧出してゆく。それはたちまちのうちに浩然の気に満ち満ちた天地と融け合い、智子にある一点を指し示す。


 智子は、観ていた。

 大きく目を刮き、あっけにとられ、ただひたすらに自らの裡を観つめていた。


 拓かれてゆく――

 智子の前に――

 ついに『道』が、拓かれてゆく――





 ――人が、神へと至る道が





 智子は微動だにせず、佇んでいた。

 知らず識(し)らずのうちに、その目から大粒の涙が滴ってゆく。



 ようやくわかった。



 人は、神に、祈り願う。

 そして神は、人々の祈りを、願いを聞き届け、叶える。

 懸命に。


 神は、ここにある。

 神は、ここにいる。


 神とは……神とは……



 ……ああ……。



 ――智子は、至った。



 ほかならぬ――

 このわたし自身だったのだ!


 袖口で涙を拭うや、智子は背筋を伸ばし、決然と胸を張る。


 ならば!

 わたしが守らねばならない。

 日本を。お国を。ご英霊を。我らが先祖の魂を。


 この命と引き換えに!



 智子は天を仰ぎ、絶叫した。

「わたし! 日本の! 神になる!」





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