ヴィエルジェ・ブルー 2
「ええと、鍵は……あった。……あら? あれって……」
「ジョゼ! おはよう!」
「……リーズ!? お、おはよう! もう平気なの……?」
戸締りをして、いざ出かけようと――と言っても、「悪魔の鏡」のある自宅へ戻るだけなのだが――店を出たジョゼは、声の方に振り返って目を丸くした。つい最近まで、怯えて部屋から出ることすらできずにいたはずのリーズが、息を切らして駆け寄って来るのが見えたからだ。
驚いて固まってしまったジョゼに、リーズは走って来たせいで温もった手を突き出す。そして、そのままジョゼの両手をぎゅっと握ると、息を整えながらしっかりと頷いた。
「うん。犯人、捕まったんでしょう? ジョゼにお礼を言いたくて」
「お礼なんて……あたし、何もしてないのに」
「何言ってるの。ジョゼとルネが身体張ってくれたの、この町の人はみんな知ってるわよ。……そう言えば、ルネは? 奥にいるの?」
ちら、と扉の向こうを背伸びして見たリーズに、ジョゼはどきりと肩を跳ねさせて、首を振った。
「い、いるにはいるんだけど、何だか疲れたから寝てるって、それっきりよ。多分、しばらく起きないと思うわ」
「……そうなの? 残念だけど、起こしちゃ悪いわね。きっと毎日張りつめてて、疲れたでしょうし……本当に、二人ともお疲れ様」
微かにパンの香ばしい香りを漂わせるパン屋の娘は、そう言って微笑むと、ジョゼの瞳を真っ直ぐに覗き込んだ。
「ねえ、やっぱり言わせてね。みんなが動いてくれたのは、お姫様のためなのは分かってるけど……それでも、私もパパもママも、おかげでやっと前みたいに生活できるようになったの。ありがとう、ジョゼ」
「そんな……大げさよ。身体張ったのはルネだし、助けてくれたのはクロードさん……ええと、王都から来た軍人さん。あたしはオマケみたいなものだったわ」
首を振るジョゼに、リーズは「もう」と苦笑を零す。
「だったら、香水のお礼をさせて。あれは、ジョゼが私にくれたものでしょ?」
「あれは……まあ、そうね。本当なら、好きかどうかも分からない香りを押し付けるなんてしない方がいいと思ったんだけど……あたし、これしかできないから。気に入ってくれたみたいで良かったわ」
「ジョゼが私を励まそうとしてくれたことが嬉しいのよ。それに、気に入らないはずないじゃない! パパとママの蜂蜜パンの匂いによく似てたもの。私、あの香りが一番落ち着くの。毎日嗅いでるからかな?」
くすくすと笑うリーズの顔には、少々の疲れこそ残っているものの、もう不安げな色はない。外が危険と言われては思うように動くこともできず、恐ろしさで身が竦み、大好きな両親の焼くパンの匂いも途絶えがちになってしまった。そんなリーズの心境を推測し、敢えて選んだ変わり種の香り。香水のプレゼントなどただでさえ難しく、果たしてこんなもので少しでもリーズの心の負担が軽くなるのだろうかと、恐れる気持ちはあったけれど。思い切ってプレゼントしてみて、本当に良かったと思う。
つられて気分が上向いたジョゼは、唇をふわと綻ばせて言った。
「……元気になったみたいで、ホッとしたわ。おばさん、お店を開けてる間も、あなたのことずっと心配してたのよ。見てるこっちが、大丈夫かなって思うくらい」
「ママには……うん、心配かけたと思う。苦労もね。……パパったら、私にずっと付きっ切りだったんだもの。交代で出ようって言ってたはずなのに、表にいたの、ほとんどママだったでしょう?」
「それはまあ、おばさんよりもおじさんの傍にいた方が、あなたが安全だと思ったからじゃないかしら……?」
「それは分かってるの。でもね、ママが大変だったのは事実でしょ? だから、ママにもお礼をしたいのよ、私」
ふむ、とジョゼは片眉を上げる。話の方向がちょっとばかり変わって来たようだ。この場で「母への礼がしたい」となると、ジョゼにできることは一つだけ。
「……香りの希望はあるかしら?」
「あ、今じゃなくてもいいのよ。お店、今日はお休みなんでしょう? それにジョゼ、あなたどこか出かけるところだったんじゃない?」
「ええ、まあ。でも、せっかく来てくれたお客様のために、戸を開ける時間くらいはあるわよ。どうぞ」
閉めかけた扉をもう一度開けて、ジョゼは言う。
それに少しだけ迷った様子を見せたリーズは、ややあってから笑って頷くと、その榛色の人懐っこい目をきらりと輝かせた。
「ごめんね、ありがとう」
窓から入る陽射しにきらきらと輝く香水瓶を、順に二人で眺めて歩く。淡い桃色は、甘酸っぱい初恋の香り。ルネの瞳のような藤色の香水は、丸くて優しいフローラル。晴れやかなスカイブルーは、そのままズバリ、晴天の空を突き抜ける爽快な匂いがする。
「最後のは、どちらかと言えば男性的かもしれないわね。気に入ったものはある?」
「そうねえ……私は、ピンクのが好き。だけど、ママにはこっちの紫の方が似合うと思うの。どうかしら?」
「リーズがそう思うなら、それがきっと正解よ。……あたしも、おばさんには優しい香りが良く似合うと思うわ」
快活でありながらも優しく大らかで、包み込むような包容力のあるリーズの母。ふくよかな丸い頬を柔らかく持ち上げ笑う顔を思い出し、ジョゼはそう言った。それに頷いたリーズは、じゃあそれを、と藤色を選ぶ。
小さな瓶に詰め直し、それをまた小箱に入れて。するするとリボンで包装されていく包みを見つめていたリーズが、満足げに言う。
「ジョゼの見立てなら、間違いないわね」
「そうかしら? あたしは、希望があれば近い香りを提案することはできるけど、それだけよ。こういうのは本人か、身近な人の方がぴったりのものを選べると思うわ」
「だけど、私は香水のことには詳しくないもの。……ねえ、そう言えば、ジョゼ」
ジョゼから香水を受け取りながら、何か思い出したようにリーズは呟いた。
「ジョゼの好きな香りは、この店にあるの?」
「あたし? ……どれが自信作かって聞かれたら、全部ちゃんと胸張ってお勧めできる香水だと思うけど……」
「そういう意味じゃないわよ。ジョゼの、純粋な好みの香りってこと。自分がつけるなら、どんな香りがいいの?」
きょとんと目を丸くして、ジョゼは瞬きを繰り返す。
考えてみたこともなかったのだ。ジョゼにとっての香水は、いつだって「店に来るお客様のため」のもの。ほんの少し特別なおしゃれをしたい日の女性に、背伸びをしたい年頃の少女たちに、仄かな夢を見せてあげるためのものだった。調香の研究を続けるジョゼの視線の先にいたのは、いつだって他の誰かの姿。自分が使う時のことなど、想像すらしなかった。
こてんと首を傾げ、そう苦笑いしたジョゼに、リーズが困ったような笑みを返す。
「あなただって、『女の子』でしょう? ジョゼ・ルブラン。人一倍頑張り屋さんのあなたが、『自分』のために頑張れない人なのは、町のみんなが知ってるわ。だからね、私、思うのよ」
「……? 何を?」
「あなたがあなたのためには動けないなら、いつか出会う『運命』のために。たまには、調香師からただの女の子になったって、いいんじゃないかってね」
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