はちみつとトラバサミ 3
第三の事件が起きてから、どこへ行っても話題は事件のことばかりだった。
「やっぱりアンナ様が目的なのかねぇ」
「それなら、関係ない娘たちまで殺すことはないのに。可哀想にな」
「領主様は何もおっしゃらないのか?」
「ああ、まだ何もおふれは出ていないよ。下手に刺激しない方がいいと思ってらっしゃるんじゃないかね」
店の主がそう答えれば、この島には観光で訪れていたのだろう客の男が、「そんな悠長なこと」と顔を顰める。温かく穏やかな気候のヴィエルジェ島に住む者は、その気候と同じくのんびりとした者が多い。それはこんな事態にあってもそう変わらず、彼らは良くも悪くも従順に「伯爵様を信じて」、普段と変わり無い日々を送っていた。
けれど、それは事件とは直接かかわりのない者の話である。残る「花冠の乙女」のもう一人、リーズという少女を娘に持つパン屋の夫婦は、今日も気が気でないといった様子だった。
「……こんにちは。今日は、まだお店やってます?」
「あ、ああ……ジョゼちゃん。こんにちは、まだもう少しは開けているわよ」
いつだってサン・ローラン街の通りに長い行列を作っていた、焼き立て蜂蜜パンの芳醇な香りは残り香のみ。売れ残ったバゲットに野菜や魚のマリネを挟んだ軽食が幾つか並んでいるけれど、今日はこれ以上パンを焼く予定はないらしい。娘のリーズを心配して、両親のどちらかが常に付き添っている状態では、以前のように店を開けていることは難しいのだそうだ。
どことなく疲れの抜けない顔をしたパン屋の奥さんに、サーモンのサンドイッチを包んでもらいながら、ジョゼは問うた。
「リーズ、また落ち込んでたりしませんか?」
「ええ、まだ少しは。でも、前よりは少し笑うようになったわ。差し入れ、ありがとうね、ジョゼちゃん。……お代、本当に良かったの?」
店頭に並べている香水を、「リーズの気分転換にでもなれば」と持ってきたのは、先日のこと。仕方のないこととはいえ、死の恐怖におびえながらずっと部屋に軟禁されているような状態が続き、ずいぶんと参ってしまっていると聞いたからだ。
春から夏にかけて咲く花の香りは、一応避けておいた。花祭りを思い出せば、きっと恐ろしくなってしまうだろうから。選んだのは、甘い甘いスイーツの香りだ。焼き立てのパンケーキから立ち上る、とろけるバターと蜂蜜。どこか素朴でホッとするようなその香りに、少しでも傷ついた心を癒されてくれればいい。
申し訳なさそうに眉を垂れたリーズの母を見て、ジョゼは首を振り、それから答えた。
「いいんです、そんな。いつもお世話になってるのは、あたしの方ですし。あたしには、こんなことしかできませんけど……困った時はお互い様ですよ」
「……本当に、ありがとうねぇ……」
最近すっかり涙もろくなってしまった彼女も、やはりずっと不安に張りつめているのだろう。背中をさすってやりながら、ジョゼはそっと眉を垂れた。
こんな事件、こんな悪夢など、早く終わってしまえばいい。そうは言っても、何もできないのが現状である。クロードは日中、ジョゼの活動中はずっと傍にいて、何かしら考え事をしつつも見守ってくれている。そうしてジョゼが出勤する前と帰宅した後に、あちこち歩き回っては調査を続けているようだった。たまに、手の空いたジョゼにあれこれとヴィエルジェのことを尋ねたり、気になる場所があると言って共に向かったりすることもある。しかし、今のところはどれもこれも空振りで、何も掴めてはいなかった。
自警団や、城の兵士たちも同様だ。たまにクロードとも情報交換をするけれど、何一つ新しい情報はないらしい。連絡船での出入りに対する監視は強化されたというけれど、ここはヴィエルジェ島民たちの大らかな気質が悪い方へと働いた。次から次へと島に入って来る人々は、簡単な持ち物検査と「名前の登録」を経て、あっさりと市街へ解き放たれてしまっていたのだ。名乗った名前が本物かどうかすら、判断できる者はいないというのに。
敵は不気味な沈黙を保っている。こうする間にも、事態は水面下でどんどん悪化しているのかもしれない。……だが、困ったことに打つ手はない。リーズほどではないにしろ、同じく命の危険に晒されているルネもまた、このところぼんやりしていることが増えていた。クロードがジョゼを見ていてくれるだけ、一緒にいれば安心かもしれないからと、店には来てくれているけれど。客に声を掛けられても気づかない、なんてルネらしからぬ失態が、今日だけでも三回ほどあったのだ。
早く状況が打開できなければ、何か行動を起こされる前に、こちらの方がじわじわと弱って自滅してしまうのかもしれない。タイムリミットは花祭り当日。それまで手をこまねいていれば、もう後は城の兵士や自警団の武力に望みを賭けるしかないのだ。花祭りを中止するという決断がない限りは。
ものの見事に八方ふさがりである。そんなことを考え、そっと溜息を逃せば、パン屋の妻は鼻をすすりながら言う。
「……ねえジョゼちゃん、ルネ君の様子はどう?」
「ええ……一応、元気そうにはしてますよ。……けど、いつもよりはやっぱり少し」
「そう……。そうよね……」
どうして、こんなことになってしまったのかしらね。
ぽつりと零れてきたつぶやきは、また涙声になって震えていた。
落ちる沈黙は、どんよりと重い。
どちらかと言えばいつもにこやかで、はきはきとした女性だったリーズの母は、見慣れていたはずの姿よりも小さくなったような気がした。
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