花嫁の島 3
カウンセリング用の小さな応接間、その来客用の椅子にちょこんと座った少女――ノワリー伯爵令嬢アンナは、脱いだ帽子を落ち着かない様子で遊ばせながら、きょろきょろと視線を泳がせていた。話題の人の思わぬ来訪に目を輝かせたルネも今は、アンナの道案内をしてきたトマと共に部屋の外だ。社交に長けた彼がいてくれた方が、アンナのような少女はきっと話しやすいのだろうけれど、こればかりは「決まり事」なので仕方がない。
アンナの前に温かなハーブティーと素朴なバタークッキーを並べ、テーブルの向かいに腰掛けたジョゼは、ふと首を傾げる。
「お一人でいらしたんですか?」
「あ、その……ええ。こちらで香水を作っていただく際は、マダムと一対一でお話しすることが礼儀だと伺いましたから。ですが、道に迷ってしまって」
「人、多いですものね……」
「はい……、今年は特に多いと聞きました。わたくしを一目見に来たのだとかで」
困ったように笑う顔は嫋やかで慎ましく、なるほど、町の大人が噂していた「アンナ姫」そのものである。けれど、侍女や護衛の目を掻い潜ってお忍びで城下へやって来るお姫様は、思っていたより気弱ではないのかもしれない。ジョゼは頭の中にそう注釈を書きつけて、ハーブティーをこくりと飲み込む彼女の姿を、そうっと覗き見た。
髪は輝くブロンドではなく、しっとりとしたブルネット。頭の後ろで丸く編まれた黒髪はよく手入れされていて、異国の漆器のようにつやつやと輝いている。緊張にほんのりと色づいた頬から顎へと柔らかな曲線が続き、それらがすんなりと細い首に支えられていた。小動物のような愛くるしさはあるものの、島の外の人々がそうと期待しているような、華やかな美女というわけではない。どちらかと言えば島民が想像してきたとおり控えめで、賑やかな夜会や遊戯より、ひっそり咲いた庭の花を愛でることや刺繍の類を好みそうな令嬢であった。
唯一目を惹くものと言えば、ぱっちりとまあるい二つの目である。髪と同じ色の睫毛に囲まれた碧眼は、驚くほどに鮮やかな海の青。「王国の娘」とも呼ばれるヴィエルジェ島になぞらえて、乙女のフリルだとか、或いはそのままヴィエルジェ・ブルーと呼ばれる独特な色合いを、そのまま映したような色をしていた。
思わず見入ってしまったジョゼに気づいたのか、アンナはくすくすと笑ってまた眉を垂れる。「ごめんなさい」と慌てて謝罪すれば、ゆるりと首を振ってこう言った。
「構いませんわ。わたくしの顔、マダムは初めてご覧になったでしょう? 会ったことのある方以外は皆そうなのです。それに、この目のせいで、いつも肖像画家が匙を投げてしまうの。その色は悪魔に魂でも売らなければ描けない、と。いまどき、病気だって祈祷に頼ったりしないのに。おかしな話だわ」
「……え、ええ。……そう、ですね」
ぎくりと顔を強張らせたジョゼに、アンナはふんわりと微笑んだまま言う。
「そうでしょう? そもそも、そんなに忠実に再現なさらなくても構わないのに、と思うのだけれど。芸術家の方にとってはそうではないのでしょうね。……マダムには、お分かりになりますか?」
「あ、あたしですか? ……どうでしょう? 香水は絵画とは違って、お客様が『使う』ものですから……でも、どうしても作りたい香りを再現できなかったら、きっと悔しいとは思いますよ」
幸いと言うべきか、見習いの時分に似たような歯がゆさを感じたことはあるにしろ、未だ「どうしようもない」と匙を投げるほどの壁にぶち当たったことはない。香水とは身につけてこそ真価を発揮するものであり、観賞用の作品として扱うことには意味も価値もない、というのが先代の口癖でもあった。だから、極端な事を言うならば、ジョゼの手元で「完璧」なものになるか否かはどうだっていいのである。依頼人が身につけた際、本人の香りと混ざり合うことでようやく香水は意味のあるものになるのだ。全く同じように作ったものでも、使う季節や付ける人によって香りが少しずつ異なっていくということもまた、香水の面白いところだとジョゼは思っている。
それに、「ルール・ブルーの香水」に関してのみ言うならば、おそらく今後とも表現の限界に直面するということはないだろう。そのことは、ジョゼの胸の内に秘めておくべき話だけれど。それもまた、「決まり事」の一つなのだから。
一つ、二つ、談笑すれば、互いに肩の力も抜けてくる。ティーセットを片付けて、ジョゼは姿勢を正した。つられて背筋を伸ばしたアンナに少しだけ微笑んでみせ、小瓶を五つ机に並べる。右から四つに貼られたラベルは春夏秋冬、中の液体も小瓶も全く同じ透明で、得られる情報は文字と匂いのみ。残りの一つはお決まりの珈琲豆だ。
青い瞳を僅か輝かせ、ぱちぱちと瞬いたアンナに、ジョゼは告げた。
「カウンセリングと言っても、特別なことは何もないんです。表に置いてあるものじゃなくて、オーダーメイド――『ルール・ブルーの香水』を希望される方には、幾つか確認しておかなきゃいけないことがあって。……うちの香水のことは、どのくらいご存知ですか?」
こう打ち明けると身構える客も多いのだけれど、伯爵令嬢ともなれば、オーダーメイドには慣れたものということか。アンナは落ち着いた様子のままゆっくりと頷いて、口を開く。
「噂されていることなら、概ね存じておりますわ。一滴で誰よりも魅力的にしてくれる、けれど、本人の他には絶対に使えない魔法の香りだとか」
「そんなに大げさなものではないですけど、そう、他の人には渡さないようにお願いします。それから、二つ目の購入は一つ目を使い切ってからお願いしています」
「はい。二つ目をお願いした時に、一つ目とは違う香りになるかもしれないことも、承知しておりますわ。分かるだけのことは調べてまいりましたの」
「ではハンカチもお持ちですか?」
「ええ、こちらに。『願い事を念じながらキスをしたハンカチ』でしたわね」
ちょっぴり身を乗り出したアンナは、頬を紅潮させてうふふと笑った。秘密のおまじないをしているようで楽しいのだと言う、穏やかで好ましい少女が抱えた「秘密」とやらは、一体どんな香りがするのだろう? ジョゼは机の上に置かれた絹のハンカチを受け取り、小箱へと丁寧にしまうと、再び顔を上げる。必要な質問はあと一つ、そうしたら四つの小瓶から好きな香りを選んでもらって終了だ。
「おまじない」にアンナが何を願うのか、ジョゼにも大方想像はついていた。問えば、ご存知でしょうけれどと言い置いて、苦笑交じりの答えが返る。
「わたくし、秋になったら王都へ行くのです。だから、きっと花祭りは今年が最後。殿下との結婚が嫌だとは思っていないのですけれど、やはり、生まれ育ったこの島を離れるのは寂しくて……それに、その、あがり症なものですから、見知らぬ土地でうまくやっていけるか自信がないの。だから、いつでもヴィエルジェを思い出せるような……、そんな香りを。……ぼんやりしたお願いでごめんなさい、可能でしょうか?」
「ええ、もちろん」
笑顔で頷けば、ホッとしたように息を吐く。気取ったところのないアンナの声色は心地良く、ジョゼの頭の中では早速様々な香りが候補として上がり始めていた。少女らしい柔らかさを持った、まぁるい香り。美しい黒髪にはオリエンタルなものも悪くはないが、バニラやアンバーより、もっと初々しい花の香りがよく似合う。ヴィエルジェと言えば美しい海、そして白い建物の並ぶ爽やかな景色だ。四季折々それぞれの良さがあるけれど、さて、アンナが選ぶ季節はどれになるだろう?
小瓶を開けて、珈琲豆の香りを挟みながら、ゆっくりと四つ分。
最後の一つをことりと置いて、アンナがジョゼに差し出したのは、右から二つ目の『夏』の香りだった。
「承りました。お受け取りは、花祭りの頃でよろしいですか?」
「はい。王家の花嫁として皆の前に立つ勇気を、わたくしにいただけますか?」
「ウィ、マダム。ご満足いただけるものをお約束します」
ほんの少しだけ特別な、けれど、魔法と呼ぶには事務的なやり取り。そこから生まれる香水が、本当に「不思議な」代物なのだとは、きっとアンナも思ってはいないだろう。
お任せください、と力強く頷くジョゼに、アンナははにかんで、それから言った。
「……実はわたくし、同じくらいの年頃の女の子と話す機会があまりなくて。きちんと話せるか不安だったのだけれど、マダムは不思議な方ね。……あの、初めて会うあなたにこんなこと言うのは失礼かとは思うのですけれど……お友達になれたら嬉しいわ。また、お話をしに来ても?」
「……あたしで良いんですか?」
急な申し出に目を丸くしたジョゼだったけれど、その頃にはジョゼもすっかりアンナを好きになっていて、断る理由もないと頷き握手を受け入れたのだった。
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