あめのよる
凛
第1話
あいしてる、と囁きが耳に届いて、わたしはふと微睡みから覚めた。閉じていた目蓋をゆっくりと開く。
ぱちぱち、何度か瞬きを繰り返すと、薄ぼんやりとしていた意識が少し覚醒してきた。顔を上げ、前に向ける。
助手席のフロントガラスから見える外は相変わらず雨に濡れていて、てらてらと光るアスファルトをしばらく無心で眺めた。
隣を見やれば、運転席の
互いに言葉はない。それはもう当たり前のこととなり始めていたが、不思議とそれを苦と思ったことはなかった。
南雲部長はともかくわたしなど大概お喋りな方で、常日頃から彼が黙っていてもお構いなしに、思ったことをふと口にするくらいの頻度で一人喋り続けるのだけれど。
……そう、普段なら。普段のわたしなら、そうだった。
時折ハンドルから片手を離し眼鏡をくっと上げ、信号待ちの時には疲れたようにぐるりと首を回す。そうしてぎゅっと強く目を閉じ、また開く。意外と長い睫毛が、眼鏡の奥でふさり、と揺れているのが分かる。
そんな南雲部長の横顔を眺めながら、わたしは彼が昔言っていたことを思い出していた。
雨の夜に運転するのは、好きではないと。
いわく、濡れたアスファルトは黒光りしてただでさえ見づらいところなのに、周りのライトが当たって乱反射すると白線の色が飛んでしまい、とにかくひどく見づらいらしい。
目を凝らしてないと事故っちまう、とぼやいていたのがなんだか拗ねているみたいで、可愛かったのを覚えている。
一回り以上年上の上司を捕まえて、可愛いだなんて頭が狂っているにも程がある、と友人には呆れられてしまったけど。
それだけなら、まだ良かったのかもしれない。
そこまでで踏み込むのをやめておけば、今頃こんなに苦しい想いはせずにすんだだろうか。――いや、そんなの考えたところで後の祭りなのは分かっていても、それでも。
だってわたしは、知っている。彼が雨の夜を嫌う理由は、それだけじゃないってことを。
分かっているからこそ、わたしは雨の夜になると、途端に彼へ話しかけることを躊躇ってしまう。
普段は呆れられるほどお喋りなはずの口は鉛のように重く動かなくなり、声は喉の奥に何かを詰まらせたように出せなくて。そして話題には困らず次々と浮かぶはずの言葉さえも、脳の中を強制的にシャットアウトされたかの如く、何も出てこなくなる。
南雲部長はもともと物静かだから、沈黙を苦に思う事はない。
ただ、わたしが苦しいだけ。
勝手に気まずくて、辛くて、苦しいだけなのだ。
◆◆◆
南雲部長のことは、以前から気になってはいた。
社内で実績を挙げているかというと決してそうではないのだけれど、とにかく知識が豊富で立ち回りが上手い。部署内の仕事を円滑に回すために一役、いやそれ以上買ってくれるようなタイプだ。
実力主義な社員からは煙たがられている――あくまで本人いわく、の話だから本当のところどうなのかは知らない――けれど、そんな彼を慕う人は周りにたくさんいたし、会社に必要不可欠な人だった。
わたしは入社してからずっと南雲部長率いる部署で仕事をしているので、直属の上司にあたる彼にはずっとお世話になっている。ちなみにうちの会社は他部署への異動が活発で、大体の社員は入社して一年もすれば別部署に異動することが多いため、わたしみたいに入社してからずっと同じ部署なのは意外と珍しかったりする。……と、そんな話はさておき。
わたしはもともと南雲部長を尊敬していたし、懐いてもいたので、社員の中ではそれなりに仲のいい方だったと思う。それこそ、気を抜くと半分近く敬語が抜けるくらいには……いや、これ冷静に考えるとさすがに失礼だな。そろそろ直さないと。
とにかくそんな感じで、わたしが南雲部長を自分の中で、もともと特別な位置に置いていたのは確かだった。
曖昧な関係の始まりは、ほんの偶然で。
それでもわたしにとってあの日は、人生が変わったと言っても過言ではないほどに特別で。今でも、そしてこれからも、一生忘れることはないだろう瞬間であり、それほどの出来事だった。
あれは、およそ一年前だっただろうか。
地方の支社に用事があって、日帰りの出張へ行くことになった。確か南雲部長の車に乗って、朝早く向かい、夜は遅かったのでそのまま直帰という流れだったと思う。
その日は一日天気がぐずついていて、帰る頃には雨が降っていた。
雨の音だけが響く、静かな暗い道を、南雲部長はどこか険しい顔で運転していた。ほとんど自分から喋る人ではないけれど、話しかければなんだかんだ聞いてくれて、どこかのタイミングで気まぐれにわたしの言ったことに答えてくれるような人だ。現に朝はそうだった。
けれどその時は、なんだかいつもと雰囲気が違う気がして。こんなことは、わたしが知っている限り初めてのことだった。
『あのこと』を知ったばかりだったから、というのもあったかもしれない。
いつも南雲部長が黙っていようが、むしろ仕事中で忙しそうにしていようがお構いなしに喋り続けるはずの口は、動くことを躊躇ってしまって。
話しかけるな、と南雲部長が直接わたしに言ったわけではなかった――そもそも、そんなことを言うような人ではない――けれども、わたしは何となく何も言葉にできないまま、ただ助手席で縮こまっていた。
家の前に着いた頃、そろそろと車から降りる支度を始めたわたしに、ようやく南雲部長が口を開いた。
『……
『はいっ』
突然話しかけられたことに驚いて声が裏返ったわたしに、『なにその声』とようやくうっすら笑みを見せた南雲部長は。
泣きそうな、でもどこかほっとしたような、やっと母親を見つけた迷子みたいな顔でわたしを見ていた。
『お前、いつも通勤は電車だったよな』
『はい、無免なので』
『……帰り、さ』
『はい?』
『もし、雨だったら』
そこで彼は、一瞬言葉を止めて。
幾度か視線を彷徨わせた南雲部長は、ふ、と震える息を吐き出し、意を決したように。
『これから、俺に家まで送らせてくれないか?』
多分、雨の夜に一人きりなのが不安だったのだと思う。
わたしにそう懇願したのは、微かで頼りない、震えるような声だった。
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