(19)

 幼少期に身につけたすべが終生影響を及ぼすとするならば、なるほど幼いうちから作法や学問を叩きこむのは理に適っている。


 たとえばララタのなにかにつけ調べ物をして勉学に励むといった特徴も、そうと言えばそうなのだろう。ララタはなにかを新しく学ぶことについては苦にも思わない。思わないが、しかし緊張はする。


 たとえばそう、ありがたくも指導してくれる相手がお后様であった場合だとか。


 ララタは異世界人ということを差し引いても礼儀作法など身につけていなかった。年齢的には致し方のないことであろうが、王室を後ろ盾とすることが決まってからは、歳なぞ関係ない。王室のドラゴンの紋章に泥を塗るようなマネは許されなかった。


 そういうわけでララタはお后様から礼儀作法やらなんやらをひと通り習ったわけである。なにせ「あの」お后様が教師役を務めたのだ。一切のぬかりはなく、ララタはいっぱしの淑女らしい所作を身につけることができた。


 しかしまあ、思い返すにお后様は厳しかった。ララタがこれまでに知っていたどんな教師よりも厳しかった。


 幸いだったのは、ララタが学ぶことに対して怠惰ではなかったこと、そして勉強だけは得意であったことだろうか。


 だがいずれにせよ、この教育を経ているからこそ、あの扇をパチリと閉じる動作は今聞いても緊張する。


 お后様が出席されるパーティーに参加するたびに、ララタはなんとなく彼女の視線を意識してしまう。抜き打ちテストでも受けるような気分で、ララタは必死に身につけた作法を過不足なく披露する――。ララタにとって、パーティーとはそんな感じのものだった。


 飲んで食べて踊って――と書けば実に楽しげであるし、実際に心から楽しんでいる人間もいるのだろう。けれどもララタにはその「飲んで食べて踊って」に楽しさを見出すことはできない。


 飲む――つまり酒を飲む――ことは別に好きというほどではないし、食べるのもまたしかり。踊るのは本当にもう、イヤだ。衆人環視の中で異性とくるくる踊るということなど、年頃らしく自意識過剰で素直ではないララタには苦痛でしかなかった。


 しかしもちろんイヤだイヤだと言っているわけにもいかないのが「魔女様」である。異世界人というただでさえ怪しい素姓の人間であるのだ。パーティーにお呼ばれすればニコニコ顔で参加して、愛想を振りまいておくのがのちのちのため、自分のためというものだ。


 だからイヤだイヤだと思いつつも、ある程度はルーチーン化して慣れてしまうというのが、備えもった順応性というもの。そうして慣れればある程度の苦痛は和らぐ。……それでもまあ、イヤなものが突然好きになることはないのだが。


 苦痛ではないのだが、懸案事項はいくつもある。たとえばアルフレッドと踊るときなどがそうだ。


 このときほどララタはこの世に手袋というものが開発されていて、それが異世界にもあることに喜びを覚えないことはない。アルフレッドと長時間――それが些細な範囲だとしても――触れあって、踊るなんてこと考えると、どうしても手汗をかいてしまう。乙女としてそれは重大な懸案事項だった。


 そしてもし化粧をしていなければ頬が赤くなることもすぐにバレただろう。そう思うとララタは女という生き物が化粧をする習慣を持つことに少しだけ感謝をする気になる。いつもは本当にもう、面倒くさいとしか思わないのに、だ。


 至近距離で見上げるアルフレッドは、いつもと違って見える。それは彼が単なる幼馴染のアルフレッドではなく、王子然としているからだろう。


 そういうときララタはちょっと得した気分になるものの、普通の人間がいつも見ているのはこの王子然としたアルフレッドだ。普通の人にとって、「レア度」は逆なのだなと考えると、これまたララタは不思議で得した気分になる。


 こういうときばかりは、ご令嬢方の冷たい視線もへっちゃらだ。それどころか夢見心地の気分になれる。アルフレッドといっしょにいるときだけは、興味のないパーティーも途端に華やいだものに感じられるのは、現金と言えば現金だ。しかしまあ、それが乙女心ってやつなのだろう。


 ……そしてそんな夢見心地も終われば、アルフレッドはいつものアルフレッドに戻る。


 お茶でも飲もうと半ば無理にアルフレッドの私室へ連れ込まれたララタは、彼に了承を取ってはしたなくも靴を脱いでソファに座っていた。こんなところをお后様に目撃されればコトである。女性の素足はみだりに男性に見せるものではないのだ。この世界ではそういうことになっている。


 けれどもララタは異世界人だったし、好いていると言っても幼馴染らしい気安さを抱くアルフレッドの前だ。白い素足を見せても別になにかが起こるわけでもないし、と一種ララタは高を括っていた。


 アルフレッドもアルフレッドで別に咎め立てはしないし……というのがララタの言い分である。アルフレッドが奇妙にララタの足元だけを見ないことに、彼女は気がつかない。


 淹れたてのハーブティーの香りを楽しんだあとは、ひたすらおしゃべりである。三分の一くらいは愚痴だ。だれそれがタバコくさくて仕方なかったとか、あの令嬢の視線の鋭さは本当にすごかったとか。他愛ないと言えば他愛なく、どうでもいい内容の感想で占められている。


 アルフレッドにとってパーティーは別に楽しくもなければ苦痛でもないと言う。感覚としては「仕事」とか「義務」とかなのだろうとララタは思っている。ララタの場合はそこまで割り切れていないので、やはりパーティーのあとは爽快感のない疲労がつきまとう。


「でもララタがいると楽だよ。いっしょにいれば早々ご令嬢は近寄れないみたいで」

「女避けに使わないでよね」

「女避けだとは思ってないよ。だっていっしょにいて楽しいのはララタくらいだもの」


 その発言は人間としてどうなんだろうとララタは思わなくもない。


 アルフレッドはララタより明らかに社交性があるというのに、同性の親友と呼べるような人間はいないらしい。


 高貴な身分なのだから、乳兄弟とかいるだろうと思えば、異性なのでがんぜない幼子の頃ならばともかくも、成長した今となっては疎遠らしい。そもそも、アルフレッドは病弱だったので遊ぶ機会もほとんどなかったそうだ。


 それでも共に遠乗りへ出かけるような相手はいるとアルフレッドは主張している。それがどこまで本当なのかはララタは知らない。


「親友ってたくさんいるようなものでもないでしょ」


 とはアルフレッドの言である。つまり、彼は親友と呼べるような相手はララタひとりで十分だと言いたいのだ。それくらいは、ララタにもわかる。


 そこの気恥ずかしさと同時に悶々とした感情を抱いていたのが、それまでのララタだ。それまでのララタはアルフレッドの本心を知らなかった。つまり、アルフレッドはララタのことを恋愛対象として好いているのだということを。


 ララタが親友以上になれないのだと勝手に思い込んでいるあいだにも、アルフレッドは彼女のことが好き好きと日記に書いていたのだ。


 それを冷静に考えるとララタは頭が爆発して死んでしまいそうになるので、できるだけ考えないようにしている。


 だから、進展はなにもない。


 ララタは素直じゃないのでアレコレと考えてしまってアルフレッドに本当の気持ちを伝えられないでいる。日記を偶然盗み見てしまったという後ろめたさもある。相手の気持ちを相手の意図していないところで知ってしまったというのは、なんとなくズルをしたときの気分に似ている。


 それでもガツガツと積極的にアルフレッドに向かって行けるとすれば、それはララタではない。別のだれかだ。ララタがララタであるからこそ、彼女は未だにアルフレッドと恋人ですらないのだ。


 それは他者からすれば奇妙に映るだろう。しかしララタからすればそこにはある程度の自然な流れに見えている。だからこそねじれた状況は一向に変わらないのである。




「おはようララタ」


 アルフレッドが鎧戸を開ける音がする。ララタはしばらく寝ぼけ眼を天蓋に向けたあと、それはすさまじい勢いで飛び起きた。


 記憶はランプひとつの薄暗い部屋でアルフレッドとおしゃべりしているところまで。それから――それからどうなったんだっけ? とララタは必死で思い出そうとしたが、どうしてもできなかった。


 ララタが起きた場所はアルフレッドのベッドだった。初めてアルフレッドと相対したときに彼が寝ていたベッドと同じものだ。豪奢な象嵌のついた天蓋があって、天蓋のカーテンレールにはレースカーテンが吊り下げられている。


 今もレースカーテンは閉じられていて、アルフレッドのシルエットしかララタには見えない。


「ど、どういうこと?!」


 動揺したララタはその気持ちをそのまま口にする。するとアルフレッドのシルエットが動いて、ベッドに近づいてくるのがわかった。


「ララタってば肩揉んだりしてあげてるうちに寝ちゃっててさ……。そのままソファに寝かせたままにするのも悪いと思って――」

「こっちの方が数倍は悪いわよ!」

「なんで? 僕の妃なんだから普通でしょう?」


 悪気の感じられない声でそう言われてしまえば、ララタはぐうの音も出ない。


 しかしこのまま飛んで逃げることもできない。自分の体を見下ろせば、明らかな寝間着を着ていることがわかる。


「ねえ、この寝間着って――」

「ああ、それは侍女を呼んで着替えさせたから。大丈夫」

「ああ、そう……」


 ホッとしたような、しかし「大丈夫」ってなんだよと思わなくもないような。とにかくララタの脳内は大忙しだった。


 そんなララタの胸中など気づかないらしいアルフレッドは、のん気に「ドレスじゃ帰るの大変でしょ? 着替えなら用意してあるから、それに着替えてね」と告げて寝室を出て行ってしまう。


 ララタはもっとアルフレッドに文句を言いたいような、一方で早くアルフレッドと離れたいような、複雑な気分に陥った。


 そして図らずも「朝帰り」をするハメになったララタは、王宮を出るまでの間、周囲の温かいような生温かいような視線に悩まされるのであった。


 ――これは朝帰りだけど、朝帰りじゃないのよ!


 と、言いたくても言えないララタにできることは、そそくさと王宮を立ち去ることだけであった。

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