(12)
ここのところの気温上昇は著しいが、この世界ではままあることであった。
この世界の人間ではないララタにはわりと辛い気温変動であるが、それでも異世界人なりに着こむなり氷の柱を作るなりして毎度どうにかこうにか耐え抜いている。これはこれで「この世界に慣れた」と呼んでもよいのかもしれない。
ララタは週に一度は必ず王宮に顔を出す。それ以外は辺境の地に建てられた自身の家で魔法書の研究に励む。あるいは、どこかしらの地へと赴いての魔物退治にいそしむ。それがララタの日常だった。
そしてここしばらくのララタはその三番目――すなわち魔物退治に精を出していた。これがまたなかなか頭の回る魔物で、おまけに体躯も巨大とは言い難い――それでも一〇歳の人間の子供くらいの大きさである――ので、森に隠れられると捜すのに苦労した。
そしてどうにかこうにか退治して「魔女様様」な歓待を受けて帰ってくれば、すぐさま王宮へと呼び出された。
あまりにも帰ってきてすぐのことだったので、なにかしらの緊急事態かとすわ緊張すれば、待っていたのはアルフレッドの教育係であるアンブローズ
「ここのところ殿下はお疲れのご様子。妃殿下、ぜひ」
「ぜひ……?」
「ぜひ」
白く長いアゴヒゲを生やしたアンブローズ翁は「ぜひ」とだけ言って、そこから先は告げなかった。察しろ、ということなのだろうというのはララタにもわかったが、素直じゃないのでなんだかそのまま聞き入れるのはシャクに思えた。
そんなララタの思考の推移をおそらく眉辺りから察したアンブローズ翁は、まるで独り言でもいうかのように言葉を続けた。
曰く、ここ連日は周辺諸国との折衝やら、地方領主らを相手にした饗応やらで大変なご様子、と。
曰く、こういうときにこそ夫婦は支えあうもの。夫婦円満の秘訣は思いやりである、と。
……ララタは「暗にどこかへ連れ出して休憩させてやれってこと?」と思った。一方でアルフレッドのスケジュール管理はどうなってるんだ、と思った。
だれが担当しているかまでは知らないが、ギチギチのスケジュールにしたせいでアルフレッドがお疲れなのは、そいつの落ち度になるんじゃないのか――。
しかし勝手に考えることはいくらでもできるが実情はわからないわけで。もしかしたらどうしても都合が合わずにギチギチのスケジュールになってしまったのかもしれない、とララタは思い直すことにした。
だがどちらにせよ、ララタにお鉢が回ってきたという事実は覆しようもない。
アンブローズ翁は暗に「お試し」にしろ妃としての仕事をしろと言っているようだ。
ララタは別に「妃」じゃなくて「魔女様」であってもできる仕事なのにな、などと考えたが、結局口にはしなかった。
そういった暗闘を経て、ララタはアルフレッドの息抜きに手を貸すことにしたのだった。
まあ、接待みたいなものである。普段はアルフレッドとは気安い関係で、ひととして最低限の気づかいくらいはするが、過剰にはしない。
ララタとアルフレッドを表すもっとも適切な表現は、「親友」かもしれない。互いに恋愛感情を抱いているという決定的な点はあるが、ふたりは「恋人」ではないから、そうなる。それはララタ自身もよく理解していた。
アンブローズ翁の計らいか、その日の午後はフリーになったアルフレッドの元を一番に訪れて、ララタは彼を連れ出すことに成功した。向かう先はララタの家である。
息抜きの方法を色々と考えはしたが、結局ララタの家がひと目もなくて落ち着くだろうという結論に至った。王宮のようにだれにも誇れるご立派な家ではなかったが、アルフレッドがここを気に入っているというのは、だれの目にも明らかだったというのもある。
馬かドラゴンでの遠乗りなんかはどうだろうと考えたが、結局ひと目につく可能性はあるわけだし、ララタの家というのは考え得る最適解に思えた。
ララタの家ではもちろんいつも通りハーブティーを淹れてやって、しばらくなにもしないとか、おしゃべりをする、などといった選択肢もある。
しかしララタはそれを選ばなかった。
ここのところの暑さにうんざりしていたので、巨大な水の球を家の――狭い――庭に作ったのである。
「え? なにこれ?」
「水の球」
「そこまでは見ればわかるけれど……どうしたの?」
アルフレッドほどの身の丈をもすっぽりと覆える巨大な水の球は、もちろんララタの魔法で作ったものだ。初歩的な魔法の応用で、単純にそれを巨大化させたにすぎない。
しかしもちろんこの水の球を維持するには魔力を使う。今だってララタの体からは絶えず魔力が流出し続けている。
普段のララタであれば、「暑いから」という理由だけでこんなものを作りはしない。今回だけは特別だ。アルフレッドが楽しめるかなと考えて、ララタは巨大な水の球を作り上げたのである。
前準備として大量の魔力増強ポーションを作り、飲んでいる。そういうわけでいつもより魔力の総量には余裕がある。
だから心配しなくてもいい――というようなことをララタはアルフレッドに説明した。
「え? でも今でも魔力を使い続けてるってことだよね? 大丈夫なの? 疲れない?」
「疲れてるのはアルでしょ」
「まあ精神的に色々と疲れてはいるけれど……」
「じゃあ、今日は遊ぼう。せっかく予定がないんだし」
「遊ぶって、どうやって?」
アルフレッドは巨大な水の球を見て、そう問うた。
ララタはそこでアルフレッドには水中を泳いで遊ぶ、というような発想がないのだということに気づいた。
たしかに貴族であれば避暑目的のバケーションというのは珍しくはないが、海水浴を目的としたそれは、こちらの世界では聞いたことがない。もっとも、庶民の場合はまた勝手が違うのだろうが……。
ララタは「はい」と言ってアルフレッドに手製の水着を差し出した。
「これ、なに?」
「水着。泳ぐときに着る服……で、いいのかな? うん。丹精込めて作ったから、着てね」
「泳ぐ? ……水の球の中を?」
ようやく合点がいったらしいアルフレッドは、目をぱちくりとさせて、水の球、ララタの顔、そして水着の三箇所へ視線を泳がせる。合点はいったが、具体的な想像がまだ追いついていない感じだった。
「ほらほら、そこの陰で着替えなよ」
「泳ぐ……」
「アルって泳いだことある?」
「ない」
「やっぱり? でもまあ水の球の中は普通に呼吸もできるように作ってるから溺れないよ」
「うーん……」
まだピンときていないらしいが、ゴネるのもナンだと思ったのか、アルフレッドは大人しく水着に着替えた。ララタの目の届かない家の陰で。
そしてララタは現れた水着姿のアルフレッドを見て、ちょっとこれは目の毒だと思った。
アルフレッドの体はよく引きしまっていて、見苦しくない。病床に伏していたころのか弱く繊細な美少年の面影を残しつつ、確実に「男」を感じさせる体つきに変身していた。
そういうアルフレッドとの性の違いを、「男」の部分を不意に目にしてしまって、ララタの心臓はドッキドキだ。パンツ一丁な水着ではなく、もっと体を覆う服のようなタイプの水着の方がよかったかなとまで考え始める。
だがひとり恥ずかしがるのも変な感じだったのと、素直じゃない性格ゆえに、ララタはなんでもない風を装ってアルフレッドの背中を水の球へと押して行く。
アルフレッドがそっと水の球に触れた。指がとぷんと水に沈む。
「あ、そんなに冷たくないんだ」
「冷たすぎるのもどうかと思ってね」
「これってあの魔法書を参考にしたの?」
「あの?」
「ほら、前に僕が王宮図書館で開いちゃったやつ……」
「ああ、あれね。そう。あの中って呼吸ができたでしょ? ちょうどいいと思ってね。色は違うけど」
あのとき王宮図書館に現れた呼吸のできる海は彩度の低いイエローだった。しかしララタとアルフレッドの目の前にある水の球は美しく透き通っている。これはララタが魔法式に手を入れたからだった。
「はい、入ってみて? ちゃんと水中で浮くようにできてるから」
「うーん。まあ、悩んでいても仕方ないか……」
「なにを悩んでるの? ちゃんと呼吸できるってば。実験したし」
「いや、泳げないから……」
「力を抜いて浮けばいいのよ!」
ララタがぽんとアルフレッドの背中を押せば、彼は恐る恐るといった調子で水の球に右腕を沈める。浮力を確認したらしいアルフレッドは、次に右脚を突っ込んだ。そうしてから、思い切って頭を突っ込んだ。
水の球の中で、アルフレッドの金の髪がふわりと広がる。ぶくぶくと泡が口や鼻から出て行く。呼吸はちゃんとできているらしい。
アルフレッドはぐいっと右腕で反動をつけて全身を水の球の中へと入れる。ちらりとララタを振り返ったが、このままでは会話ができない。アルフレッドは水の球の上部へと如才なく泳いで、水中から頭を出した。
「なんだ、泳げるんじゃん」
「泳げてた……ってことでいいのかなあ」
「今はそれでじゅうぶんでしょ。で、どう?」
「思ったより気持ちいいよ。最近、暑いのが続いてたし。あと……楽しい」
「それはよかった」
アルフレッドのきらめかしい目を見れば、その言葉にウソがないことはすぐにわかる。
「この魔法、あとで教えてよ。王宮でも作ってみたいんだ」
「結構魔力を消費するから前準備が必要だけど……まあ、わかった。あとで勉強会しよう。――じゃ、わたしも泳ごうかな」
「え? ララタも? あ、いや……嫌だとかじゃなくて」
「わかってるって。ちゃんと水着用意したんだから、泳ぐよ? ひとの目なんてないし、いいでしょ?」
「水着……」
このときのララタはアルフレッドがなにを懸念としているのか、真の意味では理解していなかった。
なぜならララタの世界にも「慎み」という言葉はあるが、プールや海で女性が肌を露出させることは当たり前で、抵抗感など一切なかったからだ。
「ララタ……それは……目に毒だよ……」
なのでいわゆるビキニタイプの水着を着て登場したララタを見て、アルフレッドは珍しく顔を赤くさせた。
別にララタはアルフレッドを悩殺させようと思ってビキニタイプの水着を選んだのではない。ひとえに裁縫の時間が短くて済むし、布もそんなに消費しない――その程度の理由でビキニタイプの水着を手縫いで作ったのであった。
そういうわけだから、別にララタは肌を露出させるのが恥ずかしいことだとは微塵も思っていない。
思っていないのだが、アルフレッドが恥ずかしがっている様を見ると、なんだか自分が露出狂にでもなったかのような気分になる。端的に言って、恥ずかしくなってきたのだ。
けれどもララタは素直じゃないので、ここで折れるのもシャクだと考えてしまう。
「わたしの世界ではこれが普通だったの! 露出狂とかじゃないから!」
「わかってるけど……でも、うん……こういうのはふたりきりで楽しむものだね……」
アルフレッドの価値観に照らし合わせるとそうなるのか、とララタは一時的に感じていた恥ずかしさよりも、感心するのが先にくる。
この世界ではプールなんかは作れないだろうなあと思いつつ、ララタはアルフレッドがいる水の球の中へとなんなく入る。
アルフレッドはといえば、ララタの方を見ないのに必死だ。それでも真面目なアルフレッドはララタの方を見ずにしゃべるなんてことはできないわけで……。
……しばらくのあいだ、寝ても覚めてもアルフレッドの脳裏にララタの水着姿が焼きついて離れなかったのは、むべなるかな。
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