2-3

 数日後、マトリは道場の庭にいた。


 庭の畑には、さまざまな野菜を植えていた。青いトマトはもう少しすれば色づき始めるだろうし、ジャガイモは収穫期真っ盛りだ。カブやほうれん草も大きくなってきている。


 畑の隅っこに、石を積み上げて作った小さな塚があった。マトリはその前にうずくまって、先日食べた魚の骨や鹿の骨、ムール貝の殻を塚のそばに埋めていた。


「おいマトリ、何してんだよ」


 後ろを振り向くと、ヒックスが菜園を横切ってこちらにやって来るのが見えた。


「ああ、また動物の骨をわざわざ埋めてるのか」


 マトリは、若い雌鹿めじかの骨にスコップで丁寧に土をかけた。そして洗い立ての真っ白なハンカチをスカートのポケットから出すと、チンと鼻をかんだ。


「うわ、よくそこまで鹿の骨に感情移入できるよね。俺は無理」


 ヒックスは若干うんざりしたような顔をしている。ほっといてくれればいいのにと、マトリは不機嫌な顔でヒックスを見た。


「パントフィ先生の手伝いはもう終わったの?」


 マトリが聞いた。ヒックスはパントフィ・シューズという隠居した歴史研究家の老男性の家に定期的に通っているのだ。


「うん、パントフィ先生の家でいいものもらったけど、マトリにはいらないかな。強い体を害するものさ」


 ヒックスはニヤッと笑って、手に持った箱を少し開けた。マトリがのぞき込むと、ぷっくりと膨らんだチョコレートマフィンが二つ入っていた。


「うわあ! チョコレートだ! やった!」


 マトリはマフィンの箱をヒックスから受け取ると、先ほどの不機嫌はどこへやら、有頂天になって箱を抱きしめたまま畑の間を踊るようにスキップした。チョコレートが食べられるなんて!


 雀の涙ほどしかない道場の収入では、生活に必要な物を買うのが精一杯だった。実際のところ、もしマトリが菜園作りに興味を示さなければ、毎日の食事はバターのついたパンだけになるところだ。


 マトリは鼻歌を歌いながら薪ストーブにやかんをかけてお湯を沸かし、りんごの花模様のついたティーポットと小皿を出してマフィンを小皿に置いた。


 マトリはお湯が沸く間、わくわくしながらマフィンを眺めた。チョコレートをたっぷり練り込んである生地は黒光りしており、さらにチョコチップが生地のあちこちあら飛び出ている。


 食いしん坊のメーティがどこからかやって来て、マフィンをよく見ようと何度もジャンプし、ついには椅子に乗ることに成功して、その長いくちばしをマフィンに突っ込もうとした。


「だめよ! メーティったら!」


 マトリは急いでメーティ引き離したが、その時重大なことに気がついた。そして急いで包丁を持ってくると、自分の皿を引き寄せてマフィンを半分に切った。メーティは、マトリが自分のためにマフィンを取り分けたのだと勘違いしキャーキャー鳴いたが、マトリはそれを丁寧に戸棚へ入れた。


「これでお父さんもチョコレートを食べられるものね」


 マトリは自分の仕事に満足して、半分になったマフィンを少しちぎりメーティにやった。


 すると、道場のほうから声が聞こえてきた。声はだんだん大きくなっているようだ。


 心配になって道場に向かうと、ヒックスとスカビオサが火花を散らしながら、向かい合って口論の真っ最中だった。


 ヒックスとスカビオサは犬猿けんえんの仲だ。以前ヒックスが、スカビオサのことを「しなびたヒョウタン」と表現したのをうっかり本人に聞かれてからというもの、スカビオサはことあるごとにヒックスを呼びつけ、何度でも、何時間でも説教をたれた。


「お前になんか用はないぞえ。プロックトンはどこだえ?」


「ばばあ! 何つったかもういっぺん言ってみろ!」


 ヒックスは怒りのあまり小刻みに震えていた。


「まったくうるさい男だぞえ。マトリ、あんたもこんな男と生活するんじゃかなわないんじゃないかえ? 『もらわれっ子』って言っただけでねえか。それも単なる事実なんだからね。それで、プロックトンはどこいったかえ?」


「ばばあが教会の屋根の修理を手伝ってあげて欲しいっておやじに頼んだんだろ! ボケたのかよ!」


 ヒックスはかんかんになって、耳の先まで深々と赤く染まった。


「じゃあプロックトンはいないのかえ? そうならその事実をさっさと教えなさい! マトリ、あんたもその鳥の脳みそ並な男の味方なんだろうね。まったく困ったもんだよ」


「スカビオサさん! 鳥の脳みそ並なんて、あんまりな言い方ですよ!」


 スカビオサの横柄な態度に、マトリまで頭に血が上ってきたようだ。スカビオサは、特別苦い薬を飲み込んだ後のような表情をした。

 

「相変わらず失礼なガキどもだえ。まあわかるさ、プロックトンの頭じゃ、ガキに礼儀を教え込むのは無理だろうよ。森の中を何日もかけまわるような奇行に明け暮れてなきゃ、もう少しましな子に育てられただろうに。私なら、聖書と鞭があればどこに出しても恥ずかしくない子に育てられるぞえ。私の三人の息子も立派に育って……」


「お父さんのことを悪く言わないで下さい!」


 マトリは長い黒髪を打ち振り、ヒックスよりも前に出た。プロックトンは、スカビオサがどれほど横柄な態度を取ろうとも、一度も悪く言ったことはない。それなのにスカビオサは言いたい放題だ。 


「話の腰を折るんじゃない! 全く、プロックトンのしつけがどんなもんか、見なくたってよくわかるぞえ」


 マトリの顔は熱湯を流し込まれたように熱かったが、ついに沸点に達した。プロックトンのことを悪く言う人は、たとえ性格を変えることが難しい老人であっても許せない。


 ヒックスは何かを言い返そうとしたようだったが、マトリの方が早かった。マトリは猛烈な勢いでスカビオサに迫った。スカビオサは顔を引きつらせたが、マトリが手を上げる寸前で突然ブレーキがかかった。大慌てに慌てたヒックスが、マトリの両腕を後ろからつかんで止めているようだ。


「おわわわ! マトリ、どうしたんだよ! 落ち着けって!」


「お父さんのことをよくも……!」


 マトリはヒックスの腕を振り払おうともがいた。頭の血がグラグラ煮立っているかのようだ。


「それにもらわれっ子だなんて、私たちはちゃんとした家族ですよ! 確かに血は繋がってないけど、ヒックスは私の兄さんです! 離してヒックス! この人あんまりよ!」


 マトリが腕を振ってもがくと、ヒックスが突然離れた。そのすぐ後でバタンと音がしたので振り向くと、ヒックスが道場の床で伸びていた。マトリに吹き飛ばされたらしい。


「あ! ごめんなさい、ヒックス! 大丈夫?」


 マトリは急いでヒックスに駆け寄った。ぺしゃんこになっているヒックスを見て、氷を飲み込んだように頭の温度が急速に下がった気がした。


 ヒックスは片方だけ外れてしまったサスペンダーをブラブラさせながら立ち上がった。

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