踊る信長24(11)
隣で会話を聞いていた鵜殿長照は、手勢を連れて城から逃げ出した。
東へ。
三河衆の大半が恐怖で硬直する中、忠勝がはっきりと言上する。
「正信は、腰抜けだっ」
元康は、これは含みのある発言だなあと、忠勝を睨む。
主語は正信だが、元康に向けた発言だ。
事態を理解した上で、本多忠勝の戦意は衰えていない。
(この胆力を潰してはならない)
元康は、忠勝を特別扱いして育てる決意をする。
「忠勝」
「はっ」
「俺には、直接物を言え。許す」
主君にでも歯に衣を着せずに物を言うのは三河侍の特徴だが、それを直々に許すと言われるのは、意味が違う。側近として指名されたのだ。
恐れ多いと萎縮せずに、忠勝は堂々と意見する。
「腰抜けの正信の言い成りになるなら、殿も腰抜けだっ。落ち武者のように退いたら、その方が危ないっ。周囲が全部敵で満ちるなら、この城を殿の城にすればいいっ」
鵜殿長照が逃げた以上、松平元康には、その権利がある。
忠勝の意見は間違っていないが、元康の肚はとっくに決まっている。
「この城では、ダメだ。丸根砦と鷲津砦に織田勢が入れば、先ほど逃げた鵜殿と同じ目に会う」
三河衆が縋る様な眼付きで見守る中、元康は三年前から既に用意してある台詞を吐く。
「岡崎城へ、戻ろう」
そこは三河衆にとって、本来の居城。
元康の父・松平広忠が暗殺されて以降、今川に占領された、屈辱の証。
「今なら、今川勢が逃げ出して、空いている可能性が高い」
そして、松平元康が生まれた城。
城としての機能は、実は大高城よりかなり劣る。
それでも。
今の三河衆に希望を持たせるには、岡崎城しかない。
「ここから岡崎城までは、丸一日かかる。負傷者は荷車に載せよ。一人も置いていくな。出発は…」
出発の時刻を言おうとして、元康は半蔵の未帰還を思い出して言い淀む。
「今川義元討ち死にの、確報が来てからにする」
とっとと岡崎城に戻りたいが、半蔵を置き去りにする気はなれない。
「殿。素直に半蔵を待つと言いなされ」
嬉し涙を拭いてから、大久保忠世がからかう。
「待って何が悪い。鬼の半蔵抜きでは、怖くて外に出られぬ」
元康が冗談を言うと、忠勝以外が笑いながら撤退の準備に入る。
仏頂面をした不機嫌な忠勝が、自信過剰としか思えない抗議を始める。
「殿っ、某が護衛を勤めるのに、どうして半蔵が必要なのだっ?」
初陣で首級を挙げる働きをしたので、周囲は忠勝に刮目し始めている。それでも、服部半蔵と比べるのは、オメガ身の程知らず。
元康がオブラートに包んだ言葉で忠勝の自信過剰を宥めようと口を開きかけた矢先。
忠勝の頭上に、短槍が振り下ろされる。
背後からの奇襲。
完璧なタイミングで、短槍の矛先が脳天をカチ割る速度と角度で振り下ろされる。
服部半蔵が本気で振り下ろした一撃を躱し、忠勝は短槍の柄を掴む。短槍を引こうとする半蔵との間で綱引きとなり、二人の力が加わった短槍の柄が折れる。
半蔵は鬼のような笑顔で後輩を讃えて、一歩引く。
「殿。確かに平八郎が側に居れば、自分の護衛は必要ないですぞ」
後年、松平元康の評判は上がる一方であったが、『本多忠勝は、家康には勿体ない』という評判だけは、全く変わらなかった。
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