キス

1

 遥香はるかは勢いよく飛び起きた。


「なんで……」


 夢の中に現れたリリーの婚約者クロードは、八城弘貴やしろひろきの顔にそっくりだった。まさか、心の底で八城弘貴にときめいている自分がいたのだろうか。


(いやいや、ないない!)


 遥香は首をふって、目覚まし時計に目を向けた。いつも起きる時間まで、あと三十分ある。けれど、二度寝する気にはなれず、遥香はシャワーでも浴びて頭をすっきりさせようとベッドから抜け出した。


 熱いシャワーを浴びて、お弁当を作る。身支度を全て整えるころには、いつも家を出る時間とほぼ同じ時間になっていた。


 バスと電車に揺られて藤倉商事に到着すると、エレベータを使わずに階段のある角へ曲がる。のんびりした足取りで階段を上がっていたら、後ろから、トントントンとリズミカルな音が聞こえてきた。


 階段を使う人はあまりいないのに、珍しいなと思っていると、さわやかな低めの声に話しかけられた。


「あれ、秋月さん! おはよう」


 遥香はぎくりとした。ぎこちなく首を巡らせると、声と同じくさわやかな笑顔を浮かべた八城弘貴がそこにいる。


「お、はよう、ございます……」


 遥香はぎこちない笑顔を浮かべて挨拶を返した。


 弘貴はさも当然のように遥香の隣に並ぶと、階段を上る速度を同じにして、にこにこと話しかけてきた。


「秋月さんも階段派? 朝のエレベーターって混むよね。待たされるし、ぎゅうぎゅうに押し込まれるし、三階くらいなら階段の方がいいよね」


「はい、そうですね……」


「どこに住んでるの?」


「隣町です」


「じゃあ、電車通勤?」


「ええ、まあ……」


「そっか、じゃあ、朝から満員電車か……。大変だね」


「……八城係長は、歩きですか?」


 はい、とか、ええとか相槌あいづちばかり打っているのも感じが悪いので、なんとなく話題を振ってみると、話題を振られたのが嬉しかったのか、それともこの話題が嬉しかったのか、弘貴はパッと顔を輝かせた。


「そうなんだ。用意してもらったマンションが駅前でね。朝寝坊ができて快適だよ」


「駅前……」


 遥香は、駅前に立つ高層マンションを思い浮かべた。立地もさることながら、常時コンシェルジュのいる、とんでもなく高い高級マンションだったはずだ。まさか、会社の独身者用のマンションにそんな高級マンションが用意されるとは思えないが、そこに限らず、駅前のマンションはどれも高い。


 この会社、そんなに太っ腹だったんだと、遥香は少し感心した。


「なんなら今度遊びに来る? 窓から見える景色が最高だよ」


 さりげなく――、本当にさりげなく弘貴が誘うものだから、遥香はついつい女友達の家に遊びに行く感覚で頷きかけ、慌てて首を振った。


「い、いいえ、大丈夫です」


 何が大丈夫なのかわからないが、遥香が慌てふためいている様子を見て、弘貴はくすくすと笑いだした。


「そっか、残念。部屋が広いから、ホームパーティーとかしてみたかったんだけど」


「あ……」


 なるほど。ホームパーティーか。


 ニューヨーク支社で働いていただけあって、週末のホームパーティーは普通だったのかもしれない。二人きりを想像して焦った自分を少し恥ずかしく思いながら、遥香は視線を下に落とした。


「あれ、やっぱり来たい?」


「い、いいえ! ……ホームパーティーなら、チームの皆さんを誘ってあげてください」


 弘貴は怪訝けげんそうな顔をした。


「君も同じチームだったと思うけど?」


「わたしは……、派遣なんで」


「俺、そういう区別はあんまりしたくないなぁ」


 遥香は曖昧に笑った。弘貴はそう言ってくれるが、実際のところ、世の中はそうではないのだ。


 三階までの階段を登りきると、会議室に用があるという弘貴と別れて、遥香はオフィスの中に入った。


「見ぃーちゃった。王子様と一緒に出勤かしらぁ」


 オフィスに入るや否や、楽しそうな声で話しかけてくる坂上由美子に、困ったように眉を下げる。


「たまたま階段のところで一緒になっただけですよ。というか、王子様って?」


「あー、昨日の飲み会でふざけて誰かが言い出したのよ。八城係長が王子様みたいだって」


「それで、王子……?」


 夢の中に弘貴そっくりの王子クロードが登場した遥香は、心臓がバクバクだった。夢の中をのぞかれたような気がしたのだ。


「そ。でも、実際、ポイよねー。イケメン、さわやか、出世頭で高身長。いるのねー、あんな恵まれた人。知ってる? 早くも社内の独身女子、争奪戦開始よ」


 わたしには愛するダーリンがいるから関係のない話だけど、と茶目っ気たっぷりに片目をつむって、由美子は自分のデスクに戻っていく。


 遥香は自分の机に座って、パソコンの電源を入れた。


 ――争奪戦開始よ。


 由美子の言葉を脳内で反芻はんすうする。


 ただでさえ同じチームで視線を集めているのだ、これは注意しておかないと、面倒ごとに巻き込まれるかもしれない。


 できることなら、業務連絡以外は話しかけてほしくないな、と遥香はこっそりため息を吐いたのだった。

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