一章 大迫祐樹 その2
《六月十五日土曜日》
九時十五分。僕は待ち合わせのバス停にいた。ちなみに、待ち合わせ時間は十時。
流石に早く来すぎたと思うが、家でじっとしていることもできなかったわけで、我ながら小心者だ。
およそ五分間隔で上りと下りが交差するバス停で、「乗らないのか?」って顔のバスを見送りながら、立ったり座ったりを繰り返す。
「お待たせ」
何台目のバスを見送ったのか分からなくなった時、その声は鮮明に僕の耳に届いた。
「
ベンチに座っている僕を覗き込むように月摘さんは身体を傾ける。初夏の暑さを軽やかに躱すような白のシャツに藍色のゆったりとしたパンツを履いている。逆光の中の彼女は輝いているようで一瞬見惚れた。
「どうしたの?」
反応がない僕に月摘さんは不思議そうな顔をする。
「いや、別に」
「変なの」
僕の隣に腰掛けた月摘さんはスマホでバスの時刻表を調べているようだ。それに習って僕も時刻表を調べる。どうやらあと一分ほどで来るバスで目的地に行けそうだ。
「次のバスで行こうか?」
同じバスを調べていたらしい月摘さんがスマホをしまって、立ち上がった。
「そうだね」
バスから降りると、目の前に見慣れた巨大ショッピングモールがそびえ立つ。
ここら辺で僕たち学生が遊ぶことのできる場所と言ったらここくらいで、土曜日ということもあって人が多い。
「映画って十二時過ぎだったよね」
月摘さんが確認する。
「うん、先にチケット買っておこうか」
粗相のないように調べていた僕は間髪入れずに頷く。正確には十二時十五分からだ。
「だね、そのあと本屋にでも行く?」
「そうだね」
人混みの中を、昨日のアニメの話をしながら歩く。
その行為自体は、道順まで驚くほどいつも通りアカと僕と月摘さんで過ごす週末だった。
デートなんて言葉で変に緊張していたけど、よく考えればアカがいないだけだ。
特に問題なく席の予約も済み、施設内の本屋へと向かう。
本当にいつも通りのルートで、アカがいないことが違和感でさえある。
「あっ、平積みされてるよ!」
月摘さんが明るい声で指さしたのは今日見に来た映画の原作小説だった。帯には映画化と大きく書かれている。
「映画化だからね」
所謂感動系の小説で、既にアニメ化もされている人気作だ。
「覚えてる? 祐樹君が最初に貸してくれたのがこの小説だったよね」
「うん、あの頃映画化の情報が出たんだっけ」
忘れるわけもなく、月摘さんと初めて話したのがこのアニメの話題だった。
何気なく彼女が言った言葉が、そのままアニメの台詞だったから、もしかしたらと思って話しかけて、そこから意気投合した。小説を貸したら、僕よりもハマってしばらくは顔を合わせる度にこの本の話をしていたくらいだ。
「そうそう、思い出すだけで少し泣けてきた」
実際に少し瞳を潤ませた月摘さんは手に取った小説をパラパラとめくる。
「その調子じゃ映画見たらヤバそうだね」
「覚悟はしてる」
僕も好きな作品ではあるけど、ここまでではないから少し羨ましい。
ぶらぶらと本屋の中を歩いて、新刊の小説を何冊か買って店を出た。
本屋から出ると、相談したわけでもないのに僕たちの足はフードコートの方へと向く。
これもお決まりのパターンで、軽く腹ごしらえをしてから映画って流れ。本当に拍子抜けするくらい、いつも通りでデートなんて雰囲気はなおさら薄くなる。
フードコートはまだ十一時になったばかりということもあってそれほど混み合ってはいなかった。
「今日はなに食べる?」
歩きながら左右に立ち並ぶ飲食店を月摘さんは交互に見回す。
「月摘さんはなにか食べたいのある?」
「うーん、ハンバーガーかな?」
右斜め前、有名チェーン店を指さして、月摘さんは振り返った。
「いいね、僕もチーズバーガーを食べたい気分だった」
学生としては懐にも優しい価格設定でありがたい。
「なら決まりね、席は頼んでからでいいかな?」
「空いてるし、大丈夫だと思うよ」
ハンバーガー屋の前には二、三人が並んでいるだけで直ぐに僕たちの番が来るだろう。
「あっ」
なにかに気付いたように月摘さんが隣で小さく声を上げた。
「
そして、直ぐに目の前で待っている男性へと声をかける。
月摘さんの声に振り向いた男性はかなりガタイのいい、角刈りの、見るからにスポーツをしていますって感じの、恐らく僕らと同じ高校生だ。でも、見覚えはない。
「ん、ああ、君は確か月摘さんの妹さんだね」
「兄がお世話になっています」
「とんでもない、こちらこそ月摘さんにはいつも稽古をつけてもらっている」
「それにしても、轟先輩がこんな所に来るって珍しいですね」
「母校の中学で稽古をつけてくれと頼まれてな、礼儀として差し入れを持って行こうと思ったが、こういったものでいいだろうか?」
「ハンバーガー嫌いな中学生って少ないと思うのでいいと思いますよ、ね、祐樹君?」
「えっ、うん」
まさか僕に話が振られるとは思ってなくて、驚く。
「そうか、参考になった、月摘さんによろしく伝えてくれ」
男性は直ぐに前へと向き直り、店員に注文をして、去って行く。
「お次のお客様どうぞ」
その背を追ってしまって、店員の声に少し反応が遅れた。
「私はハンバーガーとシェイクのセットで、祐樹君は?」
「えっと、チーズバーガーセットでドリンクはコーラでお願いします」
支払いを済ませて、番号札を受け取り、店からそれほど離れていない席に座る。
当たり前だけど、月摘さんにも僕が知らない知り合いくらいいるだろう。僕にだって月摘さんが知らない知り合いはいるし、ただ少しだけ微妙な気持ちになったことは事実だ。
例えば、月摘さんはああいう年上の人と付き合うのかもしれないとか考えてしまう。
「今のはお兄ちゃんの知り合いで、工業高校三年の轟先輩」
僕の心を読んだかのように、月摘さんが説明を始める。学校が違うから見覚えがなくて当然だった。
「お兄さんって、確か警察だったよね」
「そう、県で開いてる剣道の錬成会に入っててお兄ちゃんも参加してるから」
「道理で体格がいいと思ったよ、しっかりした人だったね」
「お兄ちゃんが心配性でね、『俺になにかあったとき頼れるように、知り合いは増やしておけ』とか言うから見かけたら声かけるようにしてるんだよね、私はあんまり知らないけど結構強い人らしいよ」
月摘さんの言葉に、彼女の両親が既にいないことを思い出したけど、その話題を今話すべきではないだろう。
「知り合いが多い方が確かに心強いもんね」
「まぁ滅多にいないけどね」
なんて話をしている内に、番号札が鳴って呼び出された。
「私が言うのもなんだけど、祐樹君って小食だよね」
きっと、アカとの比較で言っているのだろう月摘さんはハンバーガーを包んでいる紙を手を汚さないように丁寧に外す。
「男子にしてはそうかもしれないけど、アカが異常なだけだと思うよ」
「あー凛空君ね、やっぱり異常なんだ」
「十個は普通食べられないって」
「だよね、ここくるときいっつも凛空君のが出てくるまで時間かかるから、今日はスムーズだなぁって思ってた」
笑って月摘さんは両手でハンバーガーを持って、口に運ぶ。
「あれで太らないから、その分消費してるんだろうし凄いよ」
少しもぐもぐしてからシェイクでそれを流し込んだ月摘さんは小さく息を吐く。
「太らないのは羨ましいなぁ」
「まぁ、アカだからね」
僕もチーズバーガーを一口かじる。ケチャップとチーズ、パテとピクルスが口の中で混じって食べ慣れたいつもの味になる。
「そう言えば、祐樹君だけだよね」
チーズバーガーが残り一口になった時、月摘さんが口を開く。
「なにが?」
月摘さんは既に食べ終わっていて、シェイクをゆっくりと飲んでいるところだった。
「凛空君をアカって言うの」
「ああ、これはまぁなんとなく、あっちが先に僕のことサコって呼んできたから、アカって返したらあいつが気に入ってさ」
「へぇ、いつの間にかそう呼び合ってたから、なんかいいなぁって思ってた」
「月摘さんも呼べばいいんじゃない、アカなら別に気にしないだろうし」
「そっちじゃなくて祐樹君の方、私のことずっと名字だし、あだ名とかでもないし」
「いや、それはさ」
月摘さんの返しが予想外で、思わず残り一口のチーズバーガーを口の中へと押し込んだ。
「あっ、もしかして名前覚えてないとか?」
そして、それをコーラで流し込む。喉を思いの外強い刺激が通り過ぎた。
「流石に覚えてるよ」
「じゃぁ言ってよ」
月摘さんはいたずらっぽく笑う。
その仕草はとても可愛いけど、一年も一緒に居て名前さえ覚えていないと思われるのは少し癪だ。
「『知海』でしょ」
変に意識しないように単語として口にする。
「正解」
嬉しそうに月摘さんは身を乗り出す。
「そっちで呼んでもいいけど?」
反射的に僕は身体を引いて、彼女との距離を一定に保った。
あんまり近づくと心臓に悪い。
「いや流石にその度胸はないかな」
「怒ったりしないよ」
「そうじゃなくて周りの目がさ、名前で呼ぶのってやっぱり勇気がいるんだよ」
「周りの目とか、気にしなくていいのに」
「それは月摘さんが女子だからだよ」
「ふーん」
あまり納得のいっていない顔で、月摘さんはシェイクを飲み干した。
「土曜日なのにいい席が取れて良かったね」
映画館の中央、少し後ろ目の席に僕たちは並んで座っている。
「アニメ好きな人じゃないとあんまり観に来ないだろうからね」
上映五分前になって殆ど埋まってはいたが満席にはなっていない。
「私たちみたいなね」
なぜか嬉しそうに月摘さんは言った。
「そうだね」
ブザー音が鳴って、館内がゆっくりと暗くなる。
お決まりの映像とCMが流れて、本編が始まった。
アニメ版とも原作とも微妙に違う展開で映画は進む。
クライマックスが近づき、ヒロインが最期の願いを主人公たちに託して消える場面へとさしかかる。会場のあちらこちら小さくすすり泣く音が聞こえ始め、直ぐ隣でも聞こえた。
画面の光に月摘さんの頬に流れる涙が反射している。
「使う?」
八色に言われて持ってきていたハンカチの存在を思い出し、差し出す。
「ありがと」
ハンカチを渡す時、軽く手が触れて、その柔らかい感触にドキッとする。
少しだけ八色に感謝した。
物語はクライマックスを迎え、流石の僕でも少し涙腺を刺激される。
ふと、肘置き上に置いていた手の上に温かいものが被さった。
直ぐにそれが月摘さんの手だとわかって鼓動が一気に高鳴る。
僕の手よりも小さく、柔らかで温かなそれが、僕の感覚の殆どを奪っているようで、感情が大混乱を起こしている。
大混乱の中、映画は原作通りにハッピーエンドとバッドエンドの間のような終わり方をした。
エンドロールが終わり、館内が明るくなり始めた頃、月摘さんは手をどかした。
それまで温かかった分の差が異常に冷たく感じた。
「行こうか」
他の観客が捌けるのを待って赤い目の月摘さんが立ち上がる。
「そうだね」
まるで手のことなんてなかったような感じに、僕はなにも聞けなかった。
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