第17話 赤は鉄錆の赤

 サルーンの隅にぽつんと出現した扉を、ハナが無造作に開ける。

 きぃ、とかすかな音が響き、サルーンの床に明かりがこぼれた。扉の向こうに広がっているのは、細長い、井戸のような魔界の書庫である。

 カルラは何度か瞬いた後、ぱあっと顔を明るくした。


「ハナちゃん! ついに私に心を開いてくれたの? 嬉しいわあ、私、この書庫の中が見たくて見たくてたまらなかったの!」


「本はすぐ返してくださいね。持って帰ったら殺します」


「わかったわ、殺して!! じゃなくて、返す、返す、返します。あー、もう、この古い本の匂い! 紙の匂いだけじゃなくて、獣とか人間の乾いた皮の匂いもぷんぷんよ。ぞくぞくするわねえ!」


 カルラは頬をうっすら紅潮させ、うきうきと扉の向こうの異界に突っこんでいく。

 ハナはむすっとしているが、カルラをさえぎることはない。

 いつもとあまりに違う態度に、アレシュは少し不安になった。


「ハナ。お前、また石けんをチーズと間違って食べたりしたのか? どうしてそんなに聞き分けがよくなったんだ」


 怪訝に思って声をかけると、ハナは高速で振り返ってアレシュをにらむ。


「あなたは本当にばかです、ばかの中のばか、缶詰の底にへばりついて残ってカビたバターくらいのばかです。とことん弱いのにこんなときだけいい顔をして。あなたは中身のないぺらぺらな人間なんですから、いっそ一生女遊びをして暮らしていればよかったんです。そうでないなら、せめて私のことも使徒に数えるべきです」


「それは、お前も戦ってくれるということ? でも、まだ小さなお嬢さんなのに」


 カルラはもう論外として、女性を荒事に巻きこむのはアレシュの趣味ではない。

 メイド仕事だって手が荒れるくらいなら手抜きしてくれるほうが気楽なのに、戦いとなるとどうしても気は進まない。

 彼の表情が曇ったのをどう思ったのか、ハナはやけにうるさく足音を鳴らしてアレシュに歩み寄ると、その袖をぐっとつかんで告げた。


「私は魔界の住人ですよ、アレシュ」


「うん、知ってるよ。でも、お前から直接出自を聞くのは初めてのような気がするな」


「この角を見たら絶対気づくと思っていたから説明を省略したんです。とにかく、私はあなたたちの常識の範囲内の存在ではないんです。小さいから若いとも弱いとも限りません!」


「でも、今のお前はうちの屋敷の使用人で、小さなお嬢さんだよ。僕が守るべきひとだ。これは間違いない」


 こんなところは頑固に言い張るアレシュに、ハナはぐっと唇をかみしめて視線をそらした。

 怒らせてしまったかな、と思うも、ハナがアレシュの袖を放す様子はない。


「ハナ。ひょっとしておなかが痛いんじゃなくて、おなかが減ってるんじゃないのか? 最近色々あったからな。これが終わったらお菓子でも買ってくるといい。果物の漬けたのが入ってるケーキと、氷った葡萄で作った甘い葡萄酒がいい」


「…………それ、ご主人様の趣味ですよね」


「うん。一緒に食べよう。花でも飾って、君の好きな音楽をかけて」


 アレシュが優しく言って頭を撫でてやると、ハナはますます黙りこくった。

 一方でミランはぎくしゃくと席を立ち、アレシュのほうへとやってくる。


「アレシュ。待て。まあ待て。俺は今、貴様と一度拳で語り合わねばならん予感に全身が震え、へぶっ!」


 叫んだミランの背中に、いきなり出現した扉による一撃がぶち当たった。

 もちろん、ハナが出した扉だ。

 ミランは大いによろけ、「やはり顔か……」などと言って悲しそうに床にうずくまる。

 一方のカルラは、手にした本に夢中だった。


「アレシュ、竜について書かれた魔法書を見つけたわ。いい? よーく聞いて。最近のクレメンテと、一番多く触れあったのはあなたよ。今から私が、時代と場所と世界をまたがって竜が暗示するものを言うから、ぴんとくる言葉を教えて。感じたこと、なんでも喋って」


「わかった。言ってくれ、カルラ」


 アレシュはうなずき、なるべく集中しようとする。

 魔法にはとことん疎い自分だが、美や香りにはそれなりに感受性もあるのだ。感受性の強い人間は、魔女にかかればそれなりの直感力を発揮できる。相手がカルラならなおのこと。

 カルラは楽な姿勢で扉に寄りかかり、白い指を羊皮紙の紙面に這わせる。


「では、行くわ。竜……すなわち、『退治されるべきもの』。それは『魔』。竜は財宝をためこみ、ひとや獣を呑みこむ。退治にやってきた勇者は腹の中で溶け、ときに腹に住み続ける――」


 彼女が告げる竜の伝説を聞きながら、アレシュは感じたことを適当に語った。


「単純な竜退治の構図はクレメンテにはよく似合うね。彼は見るからに聖なるものを感じさせる。そして、力尽くで悪を倒そうとする。彼は魔を倒す勇者だ。そして壁に残された伝言は、『わたしは蘇り、竜を殺す』――彼は聖職者の死体に『蘇り』を与え、『竜』、すなわち百塔街を殺そうとしている?」


「そこはそのまま、クレメンテの宣戦布告に重なるわね。でも、単純過ぎる気もする。もっと広げなくちゃ。……地方によっては、竜は『あがめられるべきもの』でもあるわ。水に関わる神。川や湖に住み、雨を降らせ、人々の願いを叶えるの。風穴から聞こえる声は竜の声と言われ、川そのものが竜だとも言われる」


 カルラの声が導くように囁く。

 声につられるようにアレシュの心はざわめき、彼はそれに従った。


「そちらの意味ならば、クレメンテは水を殺し、風を殺すことになるのか。彼なら――ありうる」


 と、そこまで言って、アレシュは、はた、と気づいた。

 赤い眼を瞠り、カルラを見る。

 カルラもまた、探るようにアレシュを見ていた。

 きらきらと光る金の瞳に軽いめまいを感じながら、アレシュは囁く。


「……カルラ。今、僕はクレメンテの思惑がわかったような気がする。七日で、街を滅ぼす計画。それを本当に成功させるなら、直接祝福してまわっていては駄目だ。可能性があるとしたら――街の住人、。触れずに生きてはいけないもの、それはおそらく……大気か水だ」


 彼の言葉に、カルラは笑みを浮かべた。

 しかし、その瞳だけはひどく冷たくきらめいている。


「なるほど、あの男は、この街の竜――すなわち、『水』か、『風』を殺そうとしている、というのね。面白いわ。その線で占ってみましょう」


 カルラは宣言し、うきうきとサルーンを歩き回り始めた。

 ポケットから出した磁石で方位を確かめ、風向きを読み、光の加減を調べて、さらに細かな占いをする用意を調える。

 アレシュは自分が役に立てたらしいことに満足し、ほう、と息を吐いた。


 新たな『使徒』となった客人たちも緊張を緩め、それぞれに自分の商売道具を広げたり、お茶を飲み直したりし始めている。

 いつもののんびりしたサルーンの風景ではあるが、辺りの雰囲気はどこか浮かれていた。まるで夜会の始まる前のよう。

 誰もが新しく始まることにわくわくしている。

 そのきっかけを作ったのが自分だと思うと、アレシュの気持ちも浮き立った。

 あのとんでもない司祭相手に、このとんでもない魔人たちと戦える。

 そのとき不意に、サルーンの隅の暗闇に赤い色がにじんだ。


(サーシャ)


 自然に頬が緩み、アレシュは彼の方へ数歩近づく。

 魔法小路で見たようなはっきりとした姿ではないが、確かにサーシャだ。

 いつもどおり、ぎりぎり見えるか見えないかのぼんやりとした幽霊。

 昔なじみの幽霊は、アレシュのほうを見ると優しく笑った――ように思えた。

 実際は頭の赤い色くらいしかよく見えないのだけれど、生前のサーシャはいつだってアレシュに笑顔を向けてくれたから。きっと、今日のサーシャも笑っているのだろう。


(よかった。あの魔法小路のサーシャは、きっとクレメンテの術だったんだ。君は相変わらず、ここにいるんだ)


 サーシャのことを思うと、アレシュはいつもほっとする。

 彼はアレシュの心が帰る場所だ。


 ――どうした? 死んだような顔してるぜ、お前。


 初めて彼と会ったとき、アレシュは百塔街の裏路地に座りこんでいた。

 母さんを返してくれとかなんとか言って父と口論をやらかして、苦しくて、悲しくて、魂が縮んで、縮んで、溶けて消えてしまったような気がして、ならばいっそ体も溶かしてしまいたくて、雨に打たれていた。

 百塔街でそんなことをしていたら、あっというまにさらわれてバラされるのは知っていた。むしろそうして欲しかったのに、来たのはサーシャだった。

 アレシュを見下ろし、彼は、自分こそ死にそうな顔で笑った。


 ――なんだ。ほっそくて、ろくな力もなさそうだな。おまけに喋れないのか?


 喋れる。

 そう返したら、そうか、と言ってサーシャは手を伸べてくれた。


 ――だったら生きられるかもな。行き場所ないなら、俺のねぐらに来るか。


 今晩だけは、守ってやるよ。

 彼は笑って言った。ついていったら殺されるのかもしれない、とは思ったが、アレシュは思いきって彼についていくことにした。

 死んでもいいと思っていたし、ひとこともアレシュを『綺麗だ』と言わない相手は珍しかったから。


 そして翌日、アレシュはまだ生きていて、サーシャはアレシュの唯一の友達になった。


 ――大丈夫。お前はお前の足で歩いてくりゃいい。持ってるもんを使え。顔が綺麗なのは恥ずかしいことじゃない。あしらってやれよ。


 ――ひとが言ったことなんざ気にするな、死ぬわけじゃなし。逆に死ぬ気になりゃあなんでも出来る。尊敬もされる。自分で自分の舵を持ちな。


 大したことを言ってもらったわけでもないけれど、ただ普通の友達としてそこにいてくれた。そんなサーシャの存在そのものが、アレシュの救いだった。


(あなたは友達だった。ただの、友達。ふらりと仲良くなって、ふらりと消えた)


 回想からゆるゆると現実に戻ってきて、アレシュは戯れにサーシャの幽霊に手を伸べてみる。けれど、薄闇の中の人影は動かない。

 ミランの言う通り、しょせんは幽霊。死んだ者は取り返せないのだ。


(でもね、サーシャ。あなたが死んでから、僕はちょっと強くなったよ。やっとあなたの言う通りに生きられるようになった。この綺麗な顔でにっこり笑えるようになった。こうして『使徒』再編なんかもできた。

 あなたがいなければ何も始まらなかった。……僕は、あなたを消しはしないよ)


 胸の内で、これだけは真摯に語りかける。

 これから始まる戦いは、サーシャを守るための戦いでもあるのだ。

 そう思うと、さっきの子供みたいな浮かれた気持ちとは別の、震えるような切なさが胸をせり上がってくる。


(サーシャ。ねえ、サーシャ。あなたに、この声は届いているのか? 僕は死んだら、あなたとまた一緒になれるのか?)


 ――せめて。


 せめて、彼から少しの返事でももらえたのなら。

 自分はもっと走れるのだろうに。


 アレシュがかすかに唇を動かした直後、サーシャの姿は薄闇の中にじわりと広がり、にじむように消えていった。

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