第7話

「俺にもわからないことだらけなんだ……どうしてこんなことになったのか……」


 背負わされた重たい荷物を一つずつ下ろすがごとく、彼が語った過酷で奇怪な物語は――これよりもっとあとに聞いたことも含め――以下の通りである。


 天宮晃平はここからいくらか北にある他県の、小さな田舎町で生まれ育った。弟の淳平が生まれてまもなく両親が離婚したため、晃平と三つ下の弟を育ててくれたのは母一人である。

 晃平は母子家庭の長男として育ったせいか早くから自立心が芽生え、母親に楽させてやりたいが一心で念願の警察官になった。その数年後、淳平も地元の文具メーカーに就職。ようやく肩の荷が下りて楽になるはずだった母は、弟の自立を見届けた矢先、心筋梗塞で亡くなってしまった。

 母が亡くなると、晃平の家族は弟の淳平だけとなった。母方の親戚とは疎遠で、父は行方が知れず、父方の親戚はいるのかどうかもわからない。それゆえか、母の死は兄弟の絆をさらに強く縒り合わせたといえる。就職後は別々に暮らしており会うことも少なかったが、お互いに連絡を絶やすことはなかった。

 母の死後二年が過ぎた頃、青天の霹靂が起きた。弟が突然結婚すると言ってきたのである。しかも、相手の女性とはすでに淳平のアパートで一緒に暮らしているとのこと。弟に恋人がいたことも初耳だった晃平は度肝を抜かれ、同時に危惧した。

 他者を警戒しがちな晃平とは違い、淳平は鷹揚で人懐っこくお人好しでもあった。弟はまだ二十四歳……正直、騙されているのではないかと疑った。

 ひとまずその相手に会わせろと言えば、淳平はもちろんだよと屈託なく笑う。どうしてかその笑顔が晃平をひどく不安にさせた。

 それから数日後、地元の田舎町を走る国道沿いの小さな飲食店で、晃平は淳平の結婚相手だという中原真梨子に対面した。

 印象は、良かったと言えば嘘になる。かといって悪いというわけではなく、しいて言うなら “奇異” だった。

 二十歳になったばかりだというその女性は、外見はほっそりとした体躯で、白い肌に長く艶やかな黒髪、大きな瞳は長いまつ毛に縁どられ、間違いなく美人の部類に入るだろうと思われた。しかし、美しさ以上の異質さを感じた。その表情はどこか虚ろで笑顔がない。晃平と目を合わせない。時おり何かに怯えるように身体が強張る。緊張とはまた違う、言わば恐怖に近い何かにおかされているのではないか、とさえ思った。

 しかしながら唯一、淳平にだけは心を許している気配があった。

「真梨子は絵を描くのが上手くてね。知り合ったのも、美術館だったんだ」

 得意げになれそめを語る弟を見上げてぎこちなく口端を上げる。それが彼女にできる精一杯の愛情表現だったのかもしれない。

 晃平はそれとなく真梨子の生い立ちについて探りを入れたが、彼女は自分について一切語らず、淳平も言葉巧みにかわして教えてくれることはなかった。

 よって、小一時間足らずの会食で晃平が判断できたことといえば、少なくとも彼女が弟を騙している様子はないこと、そして弟は彼女を心から大切に思っていること――その程度だったのである。

 顔合わせの後日、晃平はどうにも胸が騒ぎ、今すぐ結婚を焦る必要はないんじゃないかと諭してみたが、淳平は渋る兄の言葉など全く意に介さなかった。

「大丈夫だよ。俺が幸せにするって約束したんだ」

 眩しいほどの笑顔の中に、真っ直ぐで強い意志を見た。中原真梨子という女性が何を抱えているのか、すべてを知った上での強固な決心に思えた。

 そうして結局、晃平は一抹の不安を抱えつつも反対することはできず、二人は晴れて夫婦となったのである。

 ところが、晃平の憂慮をよそに、淳平と真梨子の結婚生活は順風満帆の体を見せていた。

 お互い親はないから式は挙げない、その代わり南の地方へ新婚旅行に行くのだと言って、旅行から帰ってきた折にはたくさんの土産をもらった。その一年後、市街地の外れに小さな平屋建ての一軒家を借りたと連絡が入り、晃平は酒壜を引っ提げ引越祝いをしに行った。その半年後、真梨子が妊娠したと報告があり、そのまた半年後、無事に元気な女児を出産し、 “陽乃子” という名を付けたと連絡があった。

 その頃になると、晃平は不規則で多忙な仕事柄、弟夫婦には年に数回しか会うことがなかったが、会うごとに淳平から溢れ出る幸せのオーラはますます眩しく光り、その光は真梨子にも伝染しているかのように思えた。事実、初対面で色濃く感じた真梨子の陰鬱さは月日を重ねるごとに薄れており、小さな赤子を抱いている彼女の表情は以前より格段に明るく柔らかかった。それこそごく普通の、幸せそうな若妻に見えた。

 淳平と真梨子と、娘の陽乃子――晃平が見たのは確かに、幸せな家族の姿だった。

 だから、あの頃は夢にも思わなかったのだ――淳平が死んでしまうなんて。


 弟夫婦に女児が生まれて数年後のことである。巡査部長に昇進した晃平は、さらに多忙な日を送っていた。それでも仕事に誇りを持っていたから充実していたと言えよう。

 そんなある日の夜、突然の訃報が届いた。弟の淳平がひき逃げに遭って死んだという。そんな莫迦な、何かの間違いだ、と胸内で繰り返しつつ駆けつけた病院に、幼い陽乃子を抱いたまま放心している真梨子がいた。

 娘は母の胸に顔をうずめて震えていた。ふっくらした頬と小さな手足に処置された白いガーゼや包帯が痛々しい。

 その年五歳になっていた陽乃子は、父親と母親の良いところを存分に受け継いだ愛らしく朗らかな娘で、たまにしか会わない晃平にも懐いていた。しかし、ひき逃げの現場に居合わせたという幼い子供は、父親を失った悲しみというよりむしろ恐怖を露わにしており、晃平の存在でさえ拒絶するようなそぶりを見せた。

 そして真梨子は、さらに異様であった。

 虚ろに宙を眺めていたかと思うと、突然身体中を細かく痙攣させて言葉にならないうわ言を繰り返す。その様子は、初めて彼女に会った時の “奇異さ” を思い出させた。

 さらに晃平は遺体と対面し、地元の警察関係者の話を聞くにつれ、ますます身がよじれるような不審に襲われた。

 その日の夕方、淳平は娘の陽乃子と二人、自宅からそう遠くない場所にある川べりを散歩した帰り道、ひき逃げに遭ったという。一緒にいた娘の陽乃子は淳平が咄嗟に突き飛ばしたのか、かすり傷と軽い打撲程度で済んだらしい。田舎道の日暮れ時ということもあり、目撃者は生き残った娘の陽乃子のみ。辛うじて現場から走り去る白っぽい車両を目にした近隣の住民がいたが、ナンバーや車種を確認できるほど近くで見たわけではなく、通報を受けて救急車と警官が駆けつけた時、淳平はすでに心肺停止の状態だったという。

 不可解なのは遺体の損傷具合である。一台の車両に轢かれたにしては遺体の損傷が酷すぎるという。車の通行量が極めて少ない細道で複数の車両に轢かれたとは考えにくく、一台の車両の仕業だとすればただのひき逃げとは思えない。唯一の目撃者である娘の陽乃子は母の真梨子にすがりつくばかりで他者を拒絶し、その母も虚脱と錯乱を繰り返しまともではなく、とても話を訊ける状態ではない。

 晃平は真梨子に代わり亡き弟の葬儀を手配しつつ、何が何でも事件の真相を突き止めるべく、自ら現場検証と目撃者探しに繰り出そうと決心した。

 しかし晃平は、真相を突き止めるどころか、それを追うことさえできなかった。

 淳平の葬儀を終えたその夜、真梨子と陽乃子を天宮家へ連れ戻し、糸が切れたように眠りについた二人を見届けて、晃平は最寄りのコンビニエンスストアまで必要なものを買うために家を出た。さすがにまだ不安定な母子を二人きりにしてはおけず、その晩は天宮家に泊まるつもりだったのである。

 とはいえ最寄りと言っても田舎町のこと、コンビニまで車で十分以上かかる上、途中で仕事先に連絡を入れたりガソリンスタンドに寄ったりしたので思った以上に時間がかかってしまった。

 そして、戻ってきた晃平は驚愕する。

 小さな平屋建ての一軒家、その窓から傲然と炎が噴き出していたのである。


 ――ここで初めて、天宮晃平は語る口を苦悶に詰まらせた。

 目の前に置かれたコーヒーカップの液面を見つめる険しい双眸は、まるでそこに当時の光景が映し出されているかのようだ。

「……あの時、我ながら相当パニックになっていたんだろうな。とにかく中で寝ているはずの真梨ちゃんと陽乃子を助け出さなくてはと、無我夢中で家の中に飛び込んだ。玄関から続く廊下にも火が回っていて……どこからか『ママ』と泣く陽乃子の声が聞こえた気がした。二人が寝ていた奥の寝室からじゃない、手前にある居間の方からだった。閉じたドアは炎に包まれていたが、それをなんとか蹴破って中に入ると陽乃子が倒れていて、その奥に横たわっていたのは――」

 誰かの生唾を呑む気配。晃平はゆっくりと首を振った。

「真梨ちゃんは、燃えていた。もう顔の判別もできないほどだった。辺りには灯油の匂いがしていたから、撒いて火を点けたのだと思った。……俺は咄嗟に、真梨ちゃんは焼身自殺を図ったのだと、思ったんだ」

「自殺……」

 周囲の困惑に、晃平は苦渋の表情で頷く。

「葬儀の間もずっと虚脱状態だった。淳平を亡くして絶望に陥り、生きる望みを失ってしまったのか、とね。陽乃子に直接火を点けなかったのは、それだけはできなかったのか……あるいは、娘のことなど考える余裕がなかったのか……母親として考えにくい行動かもしれないが、真梨ちゃんにはそんな脆弱さがあったんだ。……俺も、彼女のすべてを知っているわけではないんだが」

 晃平は自嘲するように首を振った。

「それでも、深く考えている余裕はなかった。家全体が軋むような低い轟音がして、俺は陽乃子を抱きかかえて居間を出た。その辺は記憶が曖昧でね、焼け落ちる家から脱出できたのは奇跡だったと思う。鼻や口の中の粘膜が焼けたような感覚と、空気が異常に薄くなって意識が遠のいて……気づいたら病院のベッドの上だった」

 そこで晃平はおもむろに、鼠色の上着を脱いで中に来ていた半袖のTシャツも脱いだ。

 思った以上に固く引き絞られた身体は肉体労働に酷使された所以だろう。その上半身を捻ると、右の肩から二の腕、背側の肩甲骨付近にかけて広範囲に、白く引き攣れた火傷痕があった。

 リリコが「痛そう」と呟き、鴨志田が「どうぞ着てください」と促す。晃平は再びTシャツを着た。

「無防備に火の中に飛び込んでこれだけで済んだのは奇跡だと言われた。気道熱傷も起こしていたらしくて、起き上がれるようになったのは事件の三日後だ。もちろん、意識が戻ってすぐに陽乃子のことを訊いた。担当の医師によると、陽乃子は俺と一緒に同じ病院へ運び込まれたが、その翌日に転院したというんだ」

「……もしかして転院先は、正琳堂しょうりんどう病院、では?」

 鴨志田の言葉に、晃平は「その通りだ」と大きく頷いた。

「医師も腑に落ちないようだった。正琳堂病院は設備が整っていて大きな病院だが、こことさほど規模は変わらないはず……それなのに意識の戻らない幼い患者を、リスクを冒してまでわざわざ遠く離れた他県の病院へ運ぶなんて……と。それでも院長命令でどうしようもなかった、こんなことは初めてだと言っていた」

「その院長に、転院を命じた人物がいた……」

 独り言ちる鴨志田に、弥曽介が「おそらくな」と返す。

「それで、そなたは行ってみたのじゃな。正琳堂病院へ」

 晃平は、頷きながら鼠色の上着に袖を通した。

「退院できるまで少なくとも二週間はかかる、と言われたが、半ば強引に一週間で退院した。その足で正琳堂病院へ行って陽乃子のことを尋ねると、転院してきた翌日に亡くなった、と聞かされた」

 組み合わせた両手の指が、双方の甲に食い込む。

「どうしても納得できなかった。御身内の方が遺体を引き取ったとまで聞かされて、ますます疑念が増した。自分が陽乃子の伯父であることを説明した上で、御身内の方とはどこの誰だったんだと喰ってかかったが、どうあっても教えてはくれなくてね」


 その一方で晃平は、火事現場から発見された焼死体が天宮真梨子のものだと断定され、遺体はこれまた身内の人間が引き取ったことを知った。そこで管轄の警察署にも出向き、遺体を引き取ったのは誰なのかと問い合わせたが、ここでもその身内がどこの誰なのかは決して教えてくれなかった。その捜査員たちが見せた微妙な声調と顔色から、晃平は一つの疑念を強くした。

 この放火事件は真梨子の焼身自殺などではなく、他者による放火殺人事件なのではないか……淳平と真梨子、陽乃子の親子三人は、何かの陰謀に巻き込まれたのではないか……と。

 晃平は今さらながら、真梨子の家族や近しい人間について無理やりにでも問いただし知っておくべきだったと悔やんだ。親はいないと言っていたが、元々いないのか死別したのか離婚したのかさえも知らず、それどころか自分と淳平の境遇から、彼女も血縁関係は絶えているものだと思い込んでいたのである。

 絶望、混乱、疑惑に焦燥……病み上がりの身体を抱えるようにして、ひとまず自宅に戻ろうとした寸前、別所轄にいる同期から連絡が入った。

 ――お前に逮捕状が出た。放火殺人の容疑だ、と。

 愕然と立ちすくんだ場所はまさに自宅マンションの手前。一歩、一歩と後ずさり、踵を返して逃げ出した背後から数人の刑事が追ってくる。悪夢の始まりであった。


「それから、どうなったの……?」

「よく逃げ切れたな……」

 リリコと柾紀が身を乗り出し、その隙間から目出し帽の丸い頭が覗いている。三者共々、映画かドラマでも観ているような心地に違いない。

「友人に恵まれたんだ。俺が無実だと信じてくれる友だちに助けられた。一人は学生時代の同級で、俺の身体が全快するまで匿ってくれた。もう一人は……逮捕状が出たことをいち早く教えてくれたヤツだ。そいつはそれからも度々、捜査状況を流してくれたりしてね。今もって俺が逮捕されずに済んでいるのはあの二人のおかげだ」

「その奇特な同業者とやらは……もしや、権頭仁良じろうという名ではないか?」

 弥曽介の瞳が興味深そうに煌めいている。晃平は少し表情を和らげて頷いた。

「あんたの息子か。さっき、あんたが名乗った時にそんな気はしていたんだ」

 幸夜は思わず口笛を鳴らしそうになった。世間は狭いとはよくいったものだ。

 権頭仁良……佐武朗の兄である。佐武朗同様、弥曽介とは血のつながりがなく、この街の警察署に勤めている。

「権頭は警察学校で一緒になった同期だ。飄々とした掴みどころのない奴だが、妙に馬が合ってね。俺のために逃亡資金や携帯電話を調達してくれて、十四年もの間、何かあれば情報を流してくれた異端児だよ。お前の身辺が危うくなるからもう俺には関わるなと、何度も言ったんだがな」

「もともと、気ままが過ぎて組織から浮くような性質たちなんじゃ。気にすることはない」

 ふぉっふぉとヤギ髭を動かして、弥曽介は言う。

「とはいえ、このわしに内緒でかくも興味深い案件に携わっていたとは許しがたいのぅ。わしを混ぜてくれても罰は当たるまいて」

 まるで仲間外れにされた子供のような言い草である。晃平は頬をわずかに引きつらせたが、引き続き、長きにわたる逃亡生活のあらましを淡々と語った。


 それからというもの、晃平は日雇い労働などで食いつなぎながらあちこちを転々とする一方で、友人の協力を得ながら、淳平のひき逃げ事件と天宮家放火事件について細々と調べ続けた。

 しかし、十四年かけて得た情報はあまりにも少なく薄っぺらであった。

 あり得ないことだと思いつつ、淳平が誰かに恨まれていた可能性を探るべく、彼が勤めていた文具メーカーを中心に交友関係などを調べたが、元来誰からも好かれる気質であった淳平は、人間関係でトラブルを起こしたことなど一度もなかったという。淳平の死を悼む声は数多く聞いても、不穏な情報は皆無であった。

 ならば事件の鍵は真梨子の身辺にあるのではないかと、謎に包まれた彼女の生い立ちを探ったところ、多少の収穫はあった。

 真梨子が不二生薬品現社長である藤緒徳馬の妾腹の子であること、そしてその存在が徹底的に秘されてきたことがわかったのだ。つまり、真梨子と陽乃子の遺体を引き取った人物は藤緒徳馬であった可能性が高い。

 一方で、製薬業界の裏側で囁かれる不二生薬品と政府の癒着に関する噂も入手し、あちこちに緘口令が敷かれていたことも合わせて、藤緒家当主の藤緒徳馬には警察関係者をも動かせる底知れぬ権力を持っていることが察せられた。さらに藤緒家の本家と分家では昔から、不二生薬品社長の座を巡っていさかいが絶えないという情報も手に入れた。

 そこで晃平は、淳平と真梨子が藤緒家の後継者争いに巻き込まれたのかもしれないと考え、藤緒の本家はもちろん分家にいたるまで探ってみたが、成果は芳しくなかった。刑事時代ならともかく、お尋ね者の晃平が踏み込める領域には限界がある。淳平のひき逃げ事件、および天宮家の放火事件に関して、真相を掴む目ぼしい証拠は得られなかった。

 ただ一つ幸いだったのは、晃平は全国指名手配犯となっているわりに、その顔写真が巷に出回っている気配がなく、通報されたことが一度もなかったことだ。

 奇妙なことに、晃平への逮捕状が出る直前に立ち上がった天宮家放火殺人事件の捜査本部は、異例の早さで捜査が打ち切られて解散したという。

 追跡の手が緩くなったのはありがたかったが、捜査網が縮小されれば入ってくる情報も少なくなる。依然、全国指名手配犯である以上は表立って調査を進めることもできず、犯人の決め手となる有力な情報が得られないままいたずらに時は過ぎ、ただ生き抜くためだけに生きていくしかないのか、と諦めかけた時だった。

 ――思わぬ光景を目にして、驚愕のあまり息を止めたのは。


「今年の年明けだったか……相変わらずあちこちを転々としながら日雇い労働で食いつないでいた俺は、とある女子高の校舎改修工事現場に派遣されたんだ。そこで何日か土工作業をしていたんだが、ある日の休憩時間、たまたま正門から出て行く一人の女子生徒に目が留まった。まさかと目を疑ったよ。その子は真梨ちゃんにそっくりだった」


 ――まさか、真梨ちゃんであるわけがない、と断じた瞬間、晃平の脳裏に彼女の娘、陽乃子の存在が雷光のように閃いた。亡くなったのは五歳……あれから十四年……生きていれば十九……高校生となれば少し行きすぎか……それでも、あり得ないことじゃない……

 久しぶりに心奥の昂りを感じた。

 無為に過ぎた暗澹たる長い年月、いつしか希望も熱量もついえてしまった虚しい日々。そこへ舞い込んだ信じがたい光景――何かが大きく変わる吉兆に思えた。

 その日から晃平は、慎重に油断なく、少女の正体を探り始めた。

 しかし、同じ制服を着た女子高生は敷地内にあふれており、工事現場の作業員が無闇に校舎内へ立ち入るわけにもいかず、仕事の片手間に目当ての少女を捜すのは骨が折れた。さらにこの学校はかなりの資産家でなければ通えないレベルの私立一貫教育学園であるらしく、女子高等科でも半数近くの生徒が自家用車で送迎されているという。目当ての少女についても例に漏れず、ようやく見つけてもその傍らには必ず送迎の運転手がついており、容易に近づくことさえできなかった。

 そうこうするうちに改修工事は終わり、学校に出向く理由がなくなってしまったが、それでも諦めきれなかった晃平は、そのあとも学校周辺をうろついて真梨子に似た少女の姿を捜し続けた。

 そんな不毛な日が数日続いたある日、晃平は正門の近くで怪しい人物を見かけた。

 歳は五十代半ば、やや肥満気味の体形でくたびれた印象のその男は、晃平と同じように誰かを捜しているようであった。そして、十四年のブランクがあっても元警察官の洞察力と記憶力は健在だったのであろうか、その男をどこかで見たような気がした。

 思い出すのにしばらくかかったのは不覚であったが、思い出した時、思わず全身が震えた。

 それは十四年前、正琳堂病院で、天宮陽乃子さんは亡くなりました、と晃平に告げた医師だったのだ。

 ここで晃平は、陽乃子の死に関して何らかの欺瞞があり、真梨子に似たあの少女は間違いなく陽乃子であると確信した。と同時に、ガードの堅い少女の周辺を探るより、まずはこの医師について調べた方が得策だと判断し、晃平は彼を徹底的にマークした。

 ほどなくわかったことは、その男――牛久間充雄は数か月前に飲酒運転による人身事故を起こしており、結果、医業停止処分の上、正琳堂病院を解雇されていた。しかも晃平が尾行する数日の間に、牛久間は二度も不二生薬品本社に赴いたのである。

 絶対に何かあると踏んだ晃平は、なけなしの貯金を切り崩しながら根気よく牛久間を張り続けた。そして今から二か月前、ついに事態が動き出したように見えた。牛久間が再び、少女の通う高校に出向いたのだ。

 その日は女子高等科の卒業式だったらしい。時刻は昼前で、ちょうど式が終わったのだろう、学舎の回りはいつも以上に人通りが多く賑わっている。そんな中、牛久間は正門ではなく、事務局棟の裏にある小さな通用門の方へ向かった。

 打って変わって人気ひとけのない閑散とした通用門の陰で待つこと十数分、一台のタクシーが門前に停まり、牛久間はすぐに乗り込んだ。が、タクシーは停まったまま。晃平が訝しんでいると、一人の制服を着た少女が通用門から出てきた。あの子だ、と晃平が目を見張る中、少女が吸い込まれるように乗り込み、タクシーは発進した。

 油断していた自分に舌打ちしつつ走ってタクシーを追った晃平だが、幸運なことに、裏から正門側へと回ったタクシーは足止めされていた。正門前は、別れを惜しむ生徒や保護者、送迎の車両で混みあっていたのだ。晃平はちょうど客を下ろしたばかりのタクシーを捕まえ、牛久間と少女が乗ったタクシーを追うことができたのである。

 あのタクシーを追ってくれ、と刑事時代でもしなかった追跡の中、晃平は新展開を予感していた。二人を乗せたタクシーは県をまたぎこの街へ入り、途中、弐番街で降りて食事を取ったようだが、再び別のタクシーに乗って壱番街に向かった。

 壱番街にはあの不二生薬品本社がある。まさかあの二人が向かっているのは……といよいよ晃平が気負い立った矢先、ドラッグ常用者による暴走車事故に巻き込まれたのである。


「――信号待ちしていた車両の列に、前方から車が突っ込んできてね。俺の乗ったタクシーも玉突きに遭った。暴走した車は歩道にまで乗り上げて歩行者をなぎ倒して……現場はメチャクチャだったよ。泣き叫ぶ人、意識なく倒れている人……交通は完全に麻痺して怒鳴り声が飛び交って……さすがにその一瞬だけは追跡のことを忘れた。それほどひどい現場だった」

 当時の惨状を思い浮かべたのか、晃平は重く息を吐いた。

「幸い俺は軽い打ち身だけで済んだんだ。すぐに牛久間たちのことを思い出してタクシーから降りると、少し離れた歩道の縁石に一人でうずくまっているあの子がいた。そばに牛久間の姿はなくて、俺はあの子が怪我をしたんじゃないかと思って、彼女に近づき、異変に気づいた」

 異変……?と小さく問う声。晃平は難しい顔で頷く。

「全身が震えていた。尋常じゃなかったよ。ざっと見たところ怪我はなかったようだが、冷や汗を滲ませて呼吸も浅く速くて、よほど怖い思いをしたのだろうと思った。それで騒ぎから離れたビルの陰へ連れ出したところ、あの子は震えながら、抱えた鞄の中から一冊のノートと鉛筆を取り出して、何かを描き始めたんだ。それが――」

 上着の内ポケットから取り出した黒い折り畳みの財布。擦り切れた財布から引き抜いたのは四つ折りにされた二枚の白い紙だ。それが開かれた途端、皆が息を呑む。罫線の入った二枚の紙には一つずつ、二つの顔が描かれていた。

 普段の陽乃子が描く、極めて緻密で写実的な “顔” を知っている者なら眉をひそめるほど、この紙面に描かれた筆線は乱暴で、その顔は不明瞭であった。まるで震える手で激情のままに描きなぐったような “顔” ……荒々しい不完全な描写がかえって恐ろしく、狂気に歪んだ表情に見えるから気味が悪い。二つあるうちの一方は特に、バラついた線が多くて人相の判別も難しかった。


「ちょっと気になってね、そのノートから破って取っておいたんだ。あとで思い当たったんだが、これらは例の暴走車に乗っていたドラッグ常用者の男じゃないだろうか」

 そこで柾紀が「ノブ」と背後に声をかけると、隙間から紙面を覗き込んでいた目出し帽は心得たように頷いて手近なタブレット端末を持ってくる。操作してテーブルに置かれた端末画面には、不法ドラッグ使用の疑いで現行犯逮捕された容疑者の顔写真があった。

「似ておるか」

 弥曽介が誰にともなく問いかけるが、皆が肯定も否定もできないまま考え込む。そうであるとも言えるし、そうでないとも言える……それほど、二枚の紙に描かれた二つの顔は粗雑で不明瞭であった。

「鉛筆を置いたあの子は、まだ真っ青になって震えていた。そのノートを見ると、他にもたくさんの顔が描いてあって、その描写力に驚いたよ。どの顔も写真のように精密に描かれていてね。その時は驚くばかりだったが、あとあと思い至った。陽乃子は……何か特殊な能力を持っているんじゃないか、と。例えば、人の顔をすぐに覚えてしまうような……」

「そうです。彼女はカメラ・アイを持っています。人の顔に限って、瞬間的に記憶してしまうようですね。実は、我々の探偵業務でも彼女の能力に助けられたことが、一度ならずあるんです」

 鴨志田の言葉に晃平は目を見張った。そして「そうか」と何かを考え込みながら、上の空でコーヒーカップに手を伸ばす。冷めきったコーヒーは晃平に喉の渇きを思い出させたのだろうか、彼は一気にカップの中身を飲み干して、一息ついたあと再び語り出した。

「それから……あの子が落ち着くのを待って、俺は彼女の持っていた鞄から生徒手帳と卒業証書を見つけた。そのどちらにも “中原陽乃子” の名があった。姓は違っても名は陽乃子……しかも真梨ちゃんに瓜二つ……真梨ちゃんも絵が得意だった……これらの符号が偶然であるわけがない。改めてこの子は天宮陽乃子に間違いないと確信した。だから、俺は君の伯父なんだと説明して、この写真を見せた」

 ジャンパーのポケットから出したシルバーの折り畳み携帯電話。その画面を覗き込んだリリコが叫んだ。

「――あ! これっ、ヒノちゃんが持ってた写真と同じやつ!」

 それは、幸せな親子の形をそのまま切り出したような画像だった。天気のいい戸外で撮ったらしく、鮮やかな木々の緑と抜けるような空の色を背景に三人の人物が映っている。縁なし眼鏡をかけた背の高い男性と、彼に寄り添う長い黒髪の女性。そして男性に抱かれた小さな女児。黒髪の女性と瓜二つの大きな瞳がこちらを見ている。

 画像に視線を落とす晃平の双眼が優し気に細まった。

「それは俺があとでプリントアウトしてあの子にあげたものだろう。これは陽乃子が三歳の時、俺が撮ってやった写真でね。我ながら巧く撮れたと思ってずっと保存しておいたんだ。指名手配されたあと、それまで使っていた携帯は廃棄したんだが、この写真だけはどうしても消せなくて、権頭が用意してくれたこの携帯にデータを移したんだ。これを見せて、俺はあの子に説明した。これが君の父親と母親で、この子が君だと。……君は天宮陽乃子なんだ、と」

 晃平は古い型の携帯電話を開いたまま、そっとテーブルの上に置いた。

「まだ事故のショックが抜けきらないのか、あの子の反応はぼんやりとしていた。驚きもせず、かといって疑っている様子もなく、ただずっとこの画像を見つめていた。そのあと彼女が落ち着いたのを見計らって、今までどこで誰とどう暮らしていたのかと訊いたんだが、誰とも暮らしていない、と要領を得なくてね。とりあえずその日はあの子一人をビジネスホテルに泊まらせることにして、俺は駅の反対側にあるネットカフェに――、」

「ちょっと待って。どうしてそこで警察に保護してもらわなかったの? 事情を説明すれば警察だって」

 口を挟んだリリコに、晃平はキッと眦を上げる。

「この子は十四年前に火事で死んだ天宮陽乃子だと説明するのか? 俺はその家を放火した容疑で追われている指名手配犯なんだぞ? 誰がそんな話を信じると思うんだ!」

「だってっ! ヒノちゃん、一人でネットカフェに寝泊まりしてたのよ? 道行く人の似顔絵を描きながら日銭稼いで……女の子にそんな生活させるなんてヒドいじゃないっ!」

「俺だってそんな生活をさせるつもりはなかったさ! 俺は陽乃子を連れてすぐにこの街を離れるつもりだったんだ! それをあの男が――」

「お、落ち着いてください二人とも――」

 言い争う二人の間に鴨志田が割って入る。

 騒ぐ面々をよそに、幸夜の目は先ほど晃平が出したから離れない。

 幸夜は、ここに残された陽乃子のノートの中身をすべて検めている。だからこそ、確信がある。

 どのノートを見ても、。実際、幸夜とリリコも初対面の時の変装ばけた顔は描かれていたが、二度目に会った時の素の顔はどのノートにも描かれていない。例外として、以前調査対象となった “小松原大毅” の顔は複数回描きつけていたらしいが、あれは整形による顔の変化が問題となり、陽乃子自身が意識的に再度確認したかったからだろう。

 基本的に陽乃子は、情報処理作業において同じ人物の顔をのだ。

 まじまじと紙面を注視する幸夜に気づいて、弥曽介が首を傾げる。 

「どうしたんじゃ、幸夜」

 ……

「オレ……あいつが誰を捜していたか、わかった気がする」

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