第5話残念な女王

 愛華は格納庫に戻り、バイクをメカニックに預けた。エレーナが愛華の乗っていたバイクを一通りチェックしながら、担当のメカニックと何か話し込んでいる。


 ヘルメットと革ツナギの上半身を脱ぐと、髪もアンダーウェアも汗でぐっしょり濡れていた。スターシアさんがタイミングよく、タオルを手渡してくれる。


 エレーナがメカニックとの話を終えて、近づいてくる。愛華は緊張した。果たして自分の走りはどう評価されたのか心配だ。エレーナを失望させて帰らされるかも知れない。しかし不安な顔は見せられない。きっと度胸も試されている。


「コースは覚えたな?」


「だあっ!」


 愛華はできるだけ明るく、大きな声で答えた。


「セッティングは変えるか?」


「だあっ!」


「午後からは我々も走る」


「だあっ!」


「おまえふざけてるのか?」


「にぇーと」


 ぶるぶると顔を横に振る。


「『だあ』ってのはなんだ?」


「えっ?ロシア語なんですけど……。なんか間違ってますか?」


「ひょっとして『Да(da・露語=はい)』と言っているのか?」


「だあっ!」


「ロシア語なら『だあっ』じゃない、『Да』と言え。ふざけてるとしか聞こえんぞ」


「だあっ!」


「違う、Даだ!」


「だぁだ?」


「もういい!馬鹿にされているようで腹が立つからやめろ」


 エレーナが苛立って言い棄てると、愛華の不安は急速に膨らんでいく。せっかくのチャンスをこんなことで失いたくない。それにこんな聞いたこともないロシアの平原で放り出されたら生きて帰れるかどうか……。


「すみません!あの、チェグノワさんたちに少しでも馴染めるよう一生懸命覚えたんですけど……。発音が変なら練習して直します。だから追い出さないで下さい!」


 愛華の不安は加速して、勝手に追い出されると思い込んでいた。


「そうです!そんなことでアイカちゃんを追い出すなんて、エレーナさんを見損ないました。どうしても追い出すというなら、私も辞めさしてもらいます」


 愛華の勝手な勘違いにスターシアまでのってくる。


「誰が追い出すと言ったぁ!?」


「じゃあ、いてもいいんですか?」


 愛華の妄想はようやく減速したが、スターシアの悪乗りは加速し続ける。


「エレーナさんがなんと言おうと、アイカちゃんは私が守ってあげますからね」


 なんだかエレーナひとり、悪役になっている空気だ。やけくそ気味に愛華に向かって言った。


「なんでもいいが、ふざけた『だあっ』はやめろ。『Yes』でも『 Si 』でも『ハイ』でもかまわん。『だあっ』だけはやめてくれ」


「だっ…、はい……」


「酷いですわ、エレーナさん!アイカちゃんが一生懸命勉強してるのに。アイカちゃんったら、なんて健気で可愛いんでしょう。それにくらべエレーナさんはなんて冷酷なんでしょうか。やはり氷の魔女ですわ」


「誰が氷の魔女だっ!?」


「アイカちゃん、実はエレーナさんは今時のロシア語がわからないんです。 大丈夫ですよ、ロシア語は私が教えてあげますからね」


 エレーナの反論をスルーして、スターシアは愛華の持っているタオルの端を手に、優しく顔の汗を拭いてあげていた。


 無視されたエレーナが、立て直しをはかる。


「やめた方がいい。日本のアニメばかり観てるスターシアから習っても、私に通じるロシア語が話せるとは思えん。それから、私の事はエレーナと呼んでかまわん。『ミスチェグノワさん』と呼ばれるのは、何か他意を感じる」


「もうエレーナさんったら、ツンデレなんですから。まあ、その歳になると『ミス』と言われるのは嫌味に聞こえますよね。あっ、私のこともスターシアと呼んでくださいね。アイカちゃんと仲良くなりたいですから、ね」


「だぁ……はい……」


 もはやスターシアの一方的な勝利だった。愛華憧れのエレーナ様が打ちのめされていく姿を見るのがつらい。


 それにしても、愛華の中の氷の女王と皇女のイメージとは全然違う。これが本当の姿なのだろうか。意外な面も知ったが、少し近づけた気がする。なにしろ、二日前には、話を出来るだけでも夢のようで、緊張してガチガチになっていたのに、ファーストネームで呼ぶことまで許さたのだから。こうなったら絶対、苺の騎士になってみせると心に誓った。



 午後から愛華は、エレーナとスターシアの二人がかりでしごかれた。バイクに跨がると、二人とも先ほどのくだけた調子は微塵も感じさせない。本物のGPライダーの走りを目の当たりにし、改めてそのレベルの高さに圧倒された。


 シャルロッタ仕様の二台のバイクを交互に乗り換え、日が沈む直前まで走った。緯度の高いその地は、夏場の日没までたっぷり時間がある。体はくたくたに疲れていたが、愛華の心はやる気に満たされていた。なにしろ、世界最高の二人のライダーが付きっきりで走ってくれるのだから疲れたなんて言ってられない。



 それからは、毎日練習漬けの日々だった。


 一日のうち、指定された何時間かは外に出る事も、窓から外を覗く事も禁じられた。その時間、休養か室内ジムで基礎体力トレーニングをしていると、外から轟音が響いてくる。その音に、ここが航空機の、それも機密性の高い軍用機の開発工場なんだと思い知らされた。その時間以外は、別に監視されてる事もなく、割と自由に行動出来た。


 遅い夕食後にはスターシアからロシア語を習ったが、途中から日本文化の講義になり、最後はアニメのDVDを観ながら眠ってしまうというパターンが定着していた。



 ある朝、スターシアの部屋から出たところでエレーナに出くわした。


「個人の趣味にとやかく言うつもりはないが、走りに影響がでるようなら慎んでもらうぞ」


「すいません。スターシアさんとDVDを観ていて眠ってしまいました。わたし、日本にいた頃からアニメとかあまり観なかったんであまりよくわからなくて。だからロシア語吹き替えだと、もう全然わからなくて、疲れてるのもあって、ついそのまま眠っちゃいました。せっかくスターシアさんが勉強のために用意してくれたのに」


 エレーナが何故かほっとした顔をする。愛華はスターシアがアニメオタクなのもレズ疑惑があるのも知らない。


「やはりスターシアにロシア語講師は無理だったようだ。むしろ彼女が正しい日本語を習うべきだろう。アイカもそう思わないか?」


 そう振られても困ってしまう。確かにスターシアさんがいろいろ尋ねてくる日本語は、愛華も理解し難いいわゆるオタク用語というもので、それでも、それはそれでスターシアさんほどの金髪碧眼完璧美女なら、アニメキャラの美少女コスプレしてもめちゃめちゃ似合う気がする。


「まあ私もロシア語については、アイカにきつく言い過ぎたと反省している。発音は無理しなくても自然に覚えるだろうから、夜は体を休めろ」


「だあっ!でも平気です。練習の妨げにならないようにがんばります!」


 許可した途端の早速の「だあっ」にエレーナは戸惑うように横を向いてしまった。


「まあ……どうしてもと言うのなら、その……私が教えてやってもいい……ぞ。スターシアでは問題があるようだし……、仕方なくだ。何か間違いがあってからでは遅いからな」


「ツンデレ……?」


 昨夜、スターシアさんから教えられた日本語(?)を思わず口にしていた。


「間違いとは、どういう意味でしようか?」


 いつの間にかスターシアも廊下に出てきていた。挑むような視線をエレーナに向けている。


「アイカちゃんにロシア語を教えると言ったのは私が先です。今さら教えたいとは、どういうつもりですか?だいたいエレーナさんは、アイカちゃんにロシア語を禁じた癖に、卑怯ではありませんか?」


「卑怯だと!?私は、ただ、アイカが迷惑しているようだったから、仕方なくだな……、本当は忙しいのに仕方なくだぞ」


「ええっ?わたし迷惑だなんて、そんな」


 ツンデレは周りにとばっちりを撒き散らすものらしい。


「エレーナさんはチームの勝利だけを考えていて下さい。アイカちゃんの生活上のお世話は、私がいたしますから」


「スターシアが教えたのでは、アイカのロシア語がますますわからなくなるから言っているのだ。ロシアの文化が穢されるのを見過ごす事は出来ない」


「日露文化交流です。私はロシア語を、アイカちゃんは日本のアニメを、お互い教えあってチームの結束を高めているんです。ソ連時代に育ったエレーナさんには理解できないでしょうけど」


「あの…ぉ、わたしもアニメとかあまり知らないんですけど」


「そらみろ、アイカは迷惑だと言っている」


「えっ?言ってません、言ってません。ネコ耳付けたスターシアさんは本当に可愛いですし、楽しいです」


「そんな事してるのか?まともに教えられないのを、変な格好で惑わすとは、どっちが卑怯だ!」


「楽しく学んだ方が覚えも早いですわ。堅苦しいクレムリン言葉しか話せないエレーナさんから習っても、同世代のコたちと打ち解けられません」


「あっ、でもエレーナさんの毅然とした話し方も憧れます」


「どっちから習いたいのだ?」

「どっちから習いたいのですか?」


 いきなり息のぴったり合った二人の攻撃が愛華に向けられた。


「えっ……と、その……、出来ればお二人から教えて頂けたら幸せかな?って、思ったりしてます……」




 密度の濃い集中的なトレーニングは、愛華の潜在能力を短期間で開花させた(ライディングに関してのみ)。エレーナの期待通り、愛華は一週間もせずに二人と同じペースで走れるようになっていた。


 日本は勿論、世界中どこのサーキットであっても、これほど豊富な走行時間と最高の手本のある環境などありはしない。仮にあったとしても、並みの者なら体力的にも精神的にもついていけなかっただろう。愛華の体力と集中力にスターシアは感心したが、エレーナは自分の眼に間違いがなかったと自分を褒めた。


 二人のバイクに跨がった時と降りた時の性格の落差に戸惑いながらも、一旦コースに出れば、車間数センチのテール トゥ ノーズで命を預け合うような息の合ったトレインに必死について行く。


 そしてドイツGPに向かう頃には、愛華もそのトレインに加わっていた。

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