記憶は願望に基づく

 煉瓦で構成された壁の表面にはヒビが入っており。そこから雑草が伸びている。大学生達がフラフラとした足取りで市役所の入り口を潜ると、そこでは外観と同じように旧態依然としたシステムが採用されていた。ミミズのような無数の黒い文様が描かれている天井に設置された蛍光灯が発する弱い光が木製の机を照らしており、そこで高齢の役人が一人だけ座っている。


 大学生達は受付に凭れながら口々に言葉を発した。


「すいません、中学時代のなんですけど」

「場所は校庭でお願いします」

「あれなんですよ、昔を懐かしもうと思いまして」

「酒を飲むようになりましたけど、結局練習の後に飲んだ水道水が一番旨かったなって話をしてたんです」

「夕焼けに照らされたグラウンドでね」

「遠くからブラスバンド部の音が聞こえるんです」

「あの頃が一番楽しかったんですよ」


 役人は酒気を帯びた彼等の様子に役人はあからさまに怪訝な表情を浮かべて、言葉もなく手元の機械を指差した。そこには番号札を発行する機械があった。


 辺りに他の人間はいない。番号札に関する手間は省略できる筈だが、大学生達にはマニュアル人間にわざわざ文句を言うことが時間の無駄だという常識を忘れないだけの冷静さが残されていた。舌打ちだけを残して番号札を取ると、直ぐに大学生達の番号が掲示板に表示されて、ようやく役人は「いつのどこです?」と尋ねた。


 大学生達は少しの間話し合った後、8年前の8月14日水曜日夕方5時~6時の西川中学校のグラウンドを指定した。役人は裏に回って先端の接続する部分が長いケーブルの束を持って戻って来て一人に一本ずつ渡した。大学生達は「怖い怖い」とはしゃぎながらそれぞれのケーブルの先端を目頭から差し込んで、脳内の受容体に接続させた。役人が呆れた口吻で「それでは参りますよ」と合図を送ると、大学生達が中学生の時には既に絶対的な現実を得る為に感覚器官への設置が国民全員に義務化された記録装置が捉えていた情報が、受付の奥で市役所を牛耳るコンピューターから大学生達の脳内に猛スピードで流れ込んでいった。


 大学生達が耳の奥に痺れと熱を感じながら目の奥で眩いブルーライトを見た直後、そこは間違いなく彼等が指定した当時通っていた中学校のグラウンドだった。世界はその際に現場にいた人間が五感で捉えた分に限って再構築されているが、大学生達の入っていた部活にはある程度の人数がいたので、細部まで記録されていた。また教室の窓から眺め下ろしていた生徒がいたのか、俯瞰する形でもグラウンドは捉えられていた。その記録の中を、肉体を失った大学生達は客観的に漂ったり、当時の自分達を主観的に体感した。

 

 

 中学生当時の彼等は夕焼けの照るグラウンドに大きな楕円を描きながら走っていた。ほとんどの生徒は既に帰宅しており、校庭に残っていたのは彼等を含めた幾つかの練習に勤しむ運動部生だけで、辺りにはそれに纏わる疎らで微かな音が響くだけだった。

 

 彼等は疲労困憊の体を奮い立たせながら、気晴らしの為に荒い呼吸の隙間を現在と比べて若干高い声で埋めていた。


「骨ピキッた」

「ボキッ」

「やめろ」

「カルシウム取れよ」

「牛乳に相談だ~」

「それ何?」

「何か」

「牛がカウだからカルシウムなのかな?」

「ん~」

「モー、オエッえずいた」

「CO2多いのって牛がゲップするからなんだって」

「魚食うわ」

「牛乳飲めないの?」

「腹壊すんだよ」

「チーズ食うじゃん」

「ちょいペース落として」

「しんど~」

「萌える丘の~」

「やめろ。一番聞きたくないわ」

「背伸びないよ」

「80超えてえ」

「我が校~」

「キモイって」

「速い速い」

「コンポタじゃダメかな?」


 彼等の走行と同じ速度で校舎の窓ガラスの中の夕日が移動していた。彼等は校舎の前まで来ると会話を止めていた。そこで待っていたコーチが「ラスト一週」と「ト」が聞こえない発音で激を飛ばすと、彼等はほとんど目を瞑りつつ顎を上げながら加速した。あっという間にコーチは遠くなったが、もう彼等に会話する余裕はなかった。息は益々鋭くなり、最早自分の意志で吸って吐くのではなく、空気が勝手に呼吸器の中を往復した。喉の奥では笛のような音が鳴り血の味がしていた。


 彼等はそれでも疎らにグラウンドを鳴らし続けていた。太陽は彼等を取り巻く街の向こう側に消えながら、彼等の汗粒の中で最後の輝きを十字に放った。その瞬間彼等の影は巻き上がる砂埃の中にどこまでも伸びて失われていった。


 最後の周回を彼等は倒れ込むように終えて、縺れる脚を持ち上げながら水道に向かっていった。並んで蛇口を捻り、吹き上がった水を頭から浴びた。闇の中で熱を帯びた体が冷えると、彼等は唇の端から零しながら、夢中に水を飲んだ。喉で滝が流れ胃の底に白波が立つのを感じながら彼等は飲み続けて、気が済むと水面から上がったかのように天を仰ぎながら思い切り息を吸い込んだ。


 温く濡れた顔を汚れた服の袖で拭いながら彼等は部室に向かって歩いた。その頃

にはまた会話をする余力が彼等の体に戻って来ていた。


「あっち~」

「あ~俺制汗忘れてんだわ」

「お前虫止まってるよ」

「おい、絶対何かつけんじゃん」

「シャツ買お」

「マジでマジで。動くな」

「ヤダよ」

「借りるだけだよ」

「返すなよ」

「え?コクワガタじゃん」

「誰かマジで頼むわ」

「帰りジャーキー奢れよ」

「ふざけんな」

「つーかお前臭くね?」

「え?マジで?」

「カナブンだって」


 部室に到着すると、彼等は号令に従って、円になってコーチの話を聞いた。その講釈の間、コーチは所々で彼等に返事を求めた。彼等はそのタイミングを察知すると、若干食い気味に声を出した。そしてそのチキンレースをする度に互いにアイコンタクトを送ったり、一人でほくそ笑んだりした。


 解散を言い渡されると、彼等はバッグを持って校門に向かって歩いた。目的地までに続く石畳に覆い被さるような針葉樹は、日が暮れているせいでそのシルエットだけになっていた。必要以上に揺らされるバッグの金具がその下を通りながら辺りにチリチリと鳴っていた。


 校門を抜けて道の両側に連なる人家の明かりを短く通り過ぎると、彼等はT字に面した大きな通りの歩道に入った。なだらかに左側に曲がってゆくその道の街路樹と街灯は、道の流れに従って少しずつ左にずれて彼等に姿を見せていた。彼等は車が光の線を残しながら通り過ぎるのを横目にしながら歩いた。


「ねっむ」

「模試ヤバかったわ」

「D?」

「じゃあキビぃな」

「部活辞めなきゃじゃん」

「いやE」

「うっわ」

「奢るよ」

「お前良い奴だな」

「俺はBだったからな」

「死ね」

「生きる!」

「ハハハ」

「勉強ダリー」

「入試なくならねえかな」

「それな」


 彼等はいつものように大通りから逸れた。そしてスーパーマーケットで各々好きなお菓子やジュース、またはおかずを買い、駐車場に面したスーパーマーケットの

横壁を背凭れに座り、照明の静かな光の下で包装紙を開けた。


「俺も一個だけ頂戴」

「俺も」

「外れだなこれ」

「俺も」

「部活辞めんの?」

「もう立ちたくねえ~」

「水分持ってかれるな」

「俺も頂戴」

「親に言われててさ」

「一個だけ」

「お前二週目だろ」

「なんか膝痛いわ」

「髪伸ばしてえな」

「俺の分残ってねえじゃん」

「明日レポートじゃん。書いてねえ」

「一個返すよ」

「え?マジで?」

「コジセン言ってたって」

「これカナブンじゃねえか!」

「おい、こいつカナブン食ったぞ!」

「マジで?」

「え、何?」

「カナブン!」

「うわ、唇に足付いてる!」

「くっせ」

「カナブン食った!」

「うっわマジだ」

「何で持ってんだよ!」


 可笑しさは彼等の中で反響し増幅していった。可笑しさは体内の全ての場所で跳ね回り、彼等を揺らした。共有されたその肉体的な快楽は、彼等を一時的に社会から解放して見せた。可笑しさの余り互いの顔を見合わせたり目を瞑ったりしていたので、その瞬間だけは彼等の小さな世界しか記録されていなかった。



 その辺りで、誰からともなく記録の受信を止めていった。虚ろな目をした彼等は黙って目頭から抜いたケーブルを役人に返した。役人はそれをただ受け取って、「どうも」と短く詰まらなそうに言った。

 

 大学生達がすっかり酔いを覚まし、とても記録に関する話で盛り上がれる気分ではなかったのは、当然のことだった。大学生達に思い出を再体験しに市役所まで足を運ばせたのは「きちがい水」だった。でなければ彼等が記憶よりも望ましい記録などないことを忘れる筈がなかったのだ。


 市役所を出ると、辺りはあの頃と変わらない夕闇に包まれていた。しかし彼等には最早それをきっかけにあの頃を思い出すことは不可能となっていた。既に記憶は体温のない記録に変貌していた。

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