3

「はあ……」


 王太子レオンハルト・ヴァレリアンはこの一時間ばかりで十七回もため息をついていた。


 思い出すのは半月前、こっそりと城を抜け出して訪れた仮面舞踏会である。


 彼はあの日、天使と出会ったのだ。


 髪の色は淡いブラウンの髪に、白い羽のついた仮面の奥の紫色の瞳、踊ったときにふわりと羽のように軽く感じたほっそりと肢体に、楽しそうな声。


 彼は間違いなく、あの時あの瞬間に、人生初の恋に叩き落されたのだ。


「……可愛かった」


「殿下、声に出てますよ。人が聞いたら馬鹿になったと思われるのでやめてくださいね」


 レオンハルトは、背後から聞こえてきたあきれたような声に、キッとまなじりをつり上げた。


「エドガー! 馬鹿とはなんだ!」


 レオンハルトが振り返ると、狐顔の二つ年上の乳兄弟は、あきれ顔をしていた。


「二十二の遅い初恋なんてね……。あんた、わかってるんですか? すでにカトリーナ嬢という婚約者がいるんですよ?」


「あの女は、いつもいつも作り笑いを浮かべていて、いけ好かない。まるで心の中で嘲笑われているようだ」


「考えすぎですよ、レオン。可愛らしいお嬢さんじゃないですか」


「ならお前にやる」


 レオンハルトはフンと鼻を鳴らすと、ぬるくなった紅茶を飲み干した。


 カトリーナ・アッシュレイン侯爵令嬢。三年前に決められたレオンハルトの婚約者だが、彼が望んで婚約したわけではないのだ。


 たまたまカトリーナの父親が大臣で、たまたまちょうどいい年頃の娘がいて、そして父王がたまたまカトリーナを気に入っただけ。


 そこにレオンハルトの意思はなく、偶然が重なって決まっただけの、どうでもいい婚約。


 レオンハルトも結婚に心はいらないと思っていた。身分が釣り合い、それなりに都合のいい相手なら誰でもいい。そう思ったからすすめた婚約だったのだが――。


(婚約なんてするんじゃなかった……)


 今になって、それが悔やまれる。


 だが、レオンハルトはこの半月、考えに考えてある結論に至ったのだ。


 カトリーナとは婚約した。だが、たかが「婚約」だ。結婚したわけじゃない。


 レオンハルトはほくそ笑むと、腹心であるエドガーを見やった。


 その笑顔を見たエドガーが嫌な顔をするが、彼はまったく気にした様子もなく、目の前のテーブルにおいていた紙を手に取ると立ち上がる。


「……それは?」


 エドガーは嫌な予感を覚えて、レオンハルトの手元の紙に視線をやった。


「秘密兵器だ」


「……つまり?」


「婚約をなかったことにする」


「はあー?」


 エドガーは素っ頓狂な声をあげると、ひったくるようにしてレオンハルトの手から紙を奪い取った。


「なになに……、この度レオンハルト・ヴァレリアンは、性格の不一致により、カトリーナ・アッシュレイン嬢との婚約を白紙に戻すことを決定した……。は?」


 エドガーは紙に書かれていることを読み終わると、途端に人を馬鹿にしたような笑みを浮かべた。


「こんなものを書いて、どうするっていうんです?」


 国王にでも直訴するつもりか。鼻で笑われて終わるだけだ。


「もう少し頭のいい男だと思っていたんですが」


 恋をすると、人は馬鹿になるのだろうか。


 エドガーはホッと息をつくと、意味をなさないと判断したその紙をレオンハルトに返した。


 だが、レオンハルトはその顔に浮かべた勝ち誇った笑みを消すことはなく、


「これで今日の夕方には、婚約破棄は国中の噂だ」


 とのたまった。


 エドガーは余裕そうな表情を一気に引き締めると、錆びたブリキ人形のようにぎこちなくレオンハルトに顔を向けた。


「……どういうことですか?」


 レオンハルトはにやにやと笑いながら、紙をくるくると丸める。


「国中の新聞社に流しておいた。王太子の印璽もついておいたから、悪戯だと思われることはない。ふっ、これで俺は自由の身―――」


「あほか―――!」


 エドガーは絶叫すると、レオンハルトが丸めた紙を再び奪い取り、それでスパコーンッと王太子の頭をひっぱたいた。


「いてっ。何をする!」


「何をする、じゃありませんよ! あんたなんてことをしてくれたんですかっ! ああああああ、これが国王の耳に入ったら、というか絶対入りますよね! どうするんですか! 怒り狂った陛下に王太子の身分を返上させられますよ!」


「安心しろ、こういうときのために、父上の弱みは両手では足りないほど握っている」


「どこの世界に実の父親の弱みを握る息子がいますか―――!」


 エドガーはぜーっぜーっと肩で息をした。


 レオンハルトはちっとも悪びれない顔で、


「王族のゴシップなんて最高のネタじゃないか、きっと飛ぶように売れて、経済効果もかなりものもだぞ」


「―――馬鹿につける薬はないって本当だったんですね」


 エドガーはよろよろとソファに座ると、天井を見上げてぐったりと動かなくなる。


「これで俺の恋の障害はなくなった!」


 レオンハルトが嬉々としてガッツポーズを決めているのを視界の端に捕えながら、


「……そもそも、どこの誰とも知れないのに、何言ってんですか。障害ならまだしも、土俵にすら立ってないくせに」


「国中を探せばいつか見つかるだろう」


「あんた、国中の女性をしらみつぶしに探すつもりですか。馬鹿ですか? 馬鹿ですよね?」


「馬鹿馬鹿言うな、失礼な奴だな」


「言いたくもなりますよ。……というか、カトリーナ嬢にはなんて告げれば……」


「放っておけば新聞で知るだろう」


「やっぱり馬鹿ですよね!?」


 エドガーはがばっと体を起こすと、まだ手に持っていた筒状にした紙を、力いっぱいレオンハルトに投げつける。


「あんたみたいな人でなしの初恋は、粉々に砕けて跡形もなく散ってしまいなさい!」


 エドガーは新聞の記事が憐れなカトリーナの目に入る前に、この馬鹿王太子の代わりに何としてでも伝えに行かなくてはと、義憤に燃えた。

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