第11話 『シュウメイギク』


カーテンの隙間から溢れる光で目を覚ます。


部屋にかけられた時計で時刻を確認すると、丁度六時を過ぎた頃だった。


冬に向けて日に日に、日の出の時刻が遅くなっていくの感じる。


寝ぼけた頭を掻くと、頭髪に脂がかったものを感じ、昨晩入浴も疎かにして眠りに堕ちたことを思い出す。


「…シャワーでも浴びようかな」


起床時刻が日の出に左右される体質の身としては、秋から冬にかけての朝は余裕のないものに感じてしまう。


慣れない手つきでスマートフォンのロックを解除、ラインのアイコン上には軽く三桁を超える数値が表示されており、内容の確認を躊躇ってしまう。


再びロックをかけ、ベッドへと携帯を放り投げ、部屋を後にする。


フローリングの床が、階段が足裏を冷ましていく。


リビングへ足を踏み入れたとき、既に落胆していた気分は、さらに底へと向かっていった。


「…おはよう」


「ああ」


父だ。


老眼鏡をかけ、新聞を読み耽る姿がそこにあった。


「遍」


「はい」


「まだ…、小説家になることを目指しているのか?」


僕の将来について何度目のやり取りだろうか。


「気持ちは変わらないよ。僕は小説家になる、本気だ」


ありのままの本心を伝える。


どうせ反対されるのだろうと身構える。


が、待てど暮らせど父からの異論は飛んでこなかった。


「物書きで食える奴なんて一握りだ」とか「簡単に目指せるような甘い道じゃない」だとか否定の言葉ばかり聞いてきたが、黙られるなんて反応は初めてのことだった。


これを是と捉えて良いのか非と捉えるべきなのか。


結局、父はそれ以上口を開くことはなかったので、踵を返し脱衣所へと向かった。


部屋着を脱ぎ、洗濯物籠に衣服を入れ、浴室に入り、蛇口を捻る。


冷たい水が、神経に鋭く刺さる。


寝惚けていた意識が、はっきりと覚醒していくのを感じる。


やがて夜明けの空気で冷えた水道水は、徐々に温もりを取り戻していき、緊張した筋肉、神経が解れていく。


ーーー有象無象だよ。私と遍以外全員そう。


髪を濡らし、シャンプーを泡立てる。


ーーーお兄ちゃんさ。最近親しくなった女、いるよね?


汚れが落ちるように入念に強く洗う。


ーーーさぁ誓って。二度と私以外の女に触れないと。母だって妹だって例外は無しだよ


湯を被り、頭皮についた泡を洗い流す。


ーーーなら、あたしがその女を見つけて腑掻っ捌いてお兄ちゃんに近づいたことを後悔させてあげる


泡が残らないように入念に洗い流す。


昨日から理解のできないことばかりの連続だ。


理解しているもつもりだった。


結局何にも分かっていなかったのだ、想いが通じ合っていたと思っていた恋人のことも、十年も時を共に過ごした義妹のことも。


嫉妬、執着、独占欲。


そんな感情が自分に向けられるなんて思ってもみなかった。


いや、違う。


思うことはあったじゃないか。


だけれども、頭の片隅に浮かぶ度に「自惚れるなだ」とか、「自分なんかが」がと劣等感が否定の言葉を囁き、それを受け入れる。


それが楽だから。


本当に鈍い。


だが、自分より自分を愛している人間のことを理解することなんて出来ようか。


嗚呼、いや。僕の鈍さのことはいい。


己の不甲斐なさを嘆くことは、いつでも出来る。


問題は二人の事だ。


華は綾音のことを知っているが、綾音はまだ華のことを知らない。


綾音が華に気付いた時、何をするか想像が出来ない。


しかし二人が邂逅した時、間違いなくよからぬ事が起こるだろう。


綾音の昨晩の台詞から、流血沙汰がどうしても脳裏をよぎる。


綾音はいい子だ、そんなことしないと信じたい。


でもいつもそうやって自分の気持ちや判断を押し殺してた結果がこのザマじゃないか。


何でもいい、間に合う内に手を打とう。


そうだ、取り越し苦労だったらそれでいいじゃないか。


僕が一人ピエロになるだけだ。


そこまで考えて思考が詰む。


その後、いくら考えても二人を会わせないという其の場凌ぎしか思いつかない。


「後は…」


もう一つ。


もう一つだけ、出来ることであれば避けたい方法がある。


高嶺 華と別れる。


今ならまだ華と他人に戻れるが、綾音と縁を切ることは難しい。


というより家族なんだから不可能だ。


ならば一度、華との関係を白紙に戻した後、綾音とゆっくり話し合う。


問題は二つ。


一つ目は綾音が説得に応じてくれるか。


二つ目はそもそも華が僕と別れてくれるのか。


華と交際を始めてまだ一月も経っていない。


彼女に話し始めたのは六月の梅雨の時期だったが、毎日言葉を交わすわけでもなければ偶の放課後に少し関わる程度。


高嶺の華だと、遠くに咲き誇るものだと眺めていだ時間の方がよっぽど長い気がする。


未だ、彼女のことを分かっちゃいない、これからもっと知らなければならない。


彼女にふさわしい男にならなくちゃいけない。


ただ、彼女と別れれば


ーーー楽になるのかな


そう考えてしまった。


溢れかけた思考を閉じるように僕は、シャワーの蛇口を捻る。


「ははは…情けないな僕」


浴室の曇った鏡は、今自分がどんな顔をしているかも写しはしない。


湯冷めしない内にと脱衣所に戻り、早々に体を拭く。


もう少し、肯定的な思考になろう。


きっともっといい方法がある。


破局は本当に最後の手段として取るべきだし、同時にあってはならない手段だ。


自室へと戻り、制服へと着替えていく。


ワイシャツの袖を通した時に、ベッドへと放り投げた携帯を思い出し、それを手に取りロックを解除する。


百は超えた連絡を最初から遡り、確認していく。


『家に着いた?』


『着いたら連絡、欲しいな』


『まだスマホ見てないの?』


『どうしたの?』


『心配なの』


『すき』


『もう家に着いたんでしょ?』


『わたしわかるよ』


『無視しないで』


『ねぇ』


『連絡ちょうだい』


『不在着信』


『不在着信』


『不在着信』


『不在着信』


『不在着信』


連絡の大半は、僕に対する返信の催促や不在着信の知らせるメッセージだった。


それらのメッセージは日付が変わるまで延々と続いていた。


彼女からの最後のメッセージは


『起きたら電話して』


こう綴ってあった。


時刻はもう直ぐ六時半を迎えようとしている。


秋の日の出をとうに過ぎだ時刻ではあるが、電話をかけるには少々迷惑だと思える時刻だ。


それも承知の上で、連絡を送ってきたのだとは思うのだが。


結局、綾音が起きたら電話もままならのではないかと考えた僕は、彼女の数多の連絡に気が付かず寝ていたという罪悪感もあり、華に電話をかけてみることにする。


まだ朝早いし、無理に起こしてはいけないだろうから、五秒かけて出なかったら電話を切ろうか。


そこまで考えたあと、すぐに繋がった。


『もしもし…』


寝起きの彼女の声に、場違いな感情が湧いてくる。


「おはよう。ごめんね、無理に起こしちゃったかな」


『んーん。それはいいの、私がお願いしたことだから。それよりも遍、なんで昨日お返事くれなかったの?』


「それもごめん。昨日、なんだか疲れてたみたいで帰ってすぐに寝ちゃったんだ」


『お家帰るまで一度もケータイ見ないで?』


「ごめん、あんまり携帯を見る習慣がなくて気が付かなかったんだ。謝ってばかりだね」


『遍はもっとケータイ見て。もっと私と繋がって。私、遍と離れただけで胸が苦しくて苦しくてたまらないの』


「ごめん、これからもっとこまめに返信するよ」


『ほんと?ちゃんとお返事してね。やくそくだよ』


「うん約束する」


また一つ、約束ができる。


『…ねぇ、今日文化祭だね』


「ああ、そうだね」


『…本当はいろんな出店に遍と見て回りたかった。いろんな遍の顔を見てみたかった』


申し訳なさで僕は、言葉を返せなかった。


『でも今日は我慢する。明日も我慢する。だからさ、来週はデート…しようよ』


「でも…来週は確か中間考査の直前のはずだよ」


『むぅ…。じゃあお家デートしようよお家デート。イチャイチャしながら、私が勉強教えてあげる…ね?』


「あ…それはいいんだけど僕の家はちょっと…」


そんな綾音と華を鉢合わせるような真似はできない。


なんとかして回避する案を模索する。


『ん?いいよ、私の家でやろ。うちの親は土日が逆に仕事あって基本いないんだぁ』


どうやら下手な言い訳を探さないで済みそうだ。


「そうしたら土曜日と日曜日どちらにしようか」


『え?土曜日も日曜日もどっちもでしょ?何を言っているの遍?』


まただ。


また彼女と僕の思想がズレている。


『二日も文化祭一緒回れないんだから二日デートしなきゃ割りに合わないよ。ううんむしろ足りないくらい。あ!そうだ、遍うち泊まっていく?』


「え?」


『そうだよ、それがいいよ。そしたらいっぱいいっぱい一緒にいられるし、ね?』


「外泊はどうだろう…。ほ、ほら華の両親は仕事って言ってたけど夜は帰ってくるのだろう?やはり迷惑がかかるんじゃあないかな」


『ううん、迷惑なんてかかんないよ。それに夜もうちにいないことの方が多いし』


嗚呼、駄目だ。


断る理由が、不自然なものしか見当たらない。


まるで泊まりたくないと言ってるみたいに。


「うん、分かった。来週末、華の家にお邪魔させていただくよ」


『うんうん。じゃあ詳しいことはまたあとでライン、するね?』


強調された語尾は、先ほどの約束を彷彿とさせる。


『じゃあ私もそろそろ支度しなくちゃ。じゃあまた学校でね、愛してる』


「…僕もだよ」


僕の返答に満足したのか、通話はそこで切られる。


右耳にかけていたスマートフォンを下ろす。


恋は難しいって誰かが言ってた。


でもそれは叶える前と叶えた後、はたしてどちらのことを言っていたのだろう。


ーーーーーーーーー

ーーーーーーー

ーーーーー

ーーー


憂鬱な気持ちとは対照に、見事な秋晴が広がっている。


それもそうだと思う。


僕一人の気持ちを毎日空が表すわけがないし、なんなら今日、羽紅高校の生徒に限ってはこの晴れ晴れとした空と同じ気持ちの者の方が多いことだろう。


今日は一年に一度の祭典なのだから。


「どうしたのお兄ちゃん?そんなに空見てぼけ〜ってして」


「え?はは…ああ、そうだね。ただ単に見事なまでな快晴だと思ってね」


「確かに雲ひとつないね。こういう空ってお兄ちゃんなんて言うの?」


「なんて言う?ああ、そうだね。菊日和とか言うんじゃあないかな」


「え〜、違う違う。小説だったらどんな表現するのってこと」


「小説だったら?うーん、『空さへもなんだかがらんとして』とかかな」


「今度は急に分かんなくなったよぉ…」


「あれ?知らない?宮沢賢治の『ひかりの素足』」


「んー!それも違うってば!お兄ちゃんだったらどう表現するのってこと!」


成る程、そういうことか。


はて、僕だったらどう表現するんだろう…。


「そうだね…、何一つ穢れのない鮮やかな青藍、でどうかな?」


「わぁ、なんだか素敵な表現みたい…。いいねぇ、穢れのないってところが特に」


学舎へと向かう二人の歩調が同調する。


僕の右腕から、温もりと重みが絡みつくのを感じる。


「綾音?」


「ん?なーに?」


「ああ、いや。何でもないや」


「変なお兄ちゃん」


片腕から感じる柔らかな感覚。


いつか感じた寒気にも似た感覚。


今ならはっきりと知覚できる。


いや、まだ決まったわけじゃない。


これも、昨日の歪な想いもブラザーコンプレックスの延長戦にあるだけかもしれない。


少し行き過ぎた兄妹愛。


男女愛と決めつけるのはまだ早い。


違う、そうやっていつも鈍い方へと思考を偏らせるじゃないか。


さっき反省したばかりじゃないか。


歩みながら戒める。


「あれ?不知火じゃん」


不意に女子生徒の声がする。


まさか通学中に声をかけられるとは思ってもみなかったため、先程までの思考が白紙に戻りそうになる。


ああでも、綾音も不知火だ。


綾音の知人が声をかけたのかもしれない。


その考えが間違ってたことは女子生徒の顔を見ればすぐに分かった。


「やあ、荻原さん。おはよう」


「よっ」


まさか昨日の今日で名前を忘れたりはしない。


荻原 紗凪。


女子生徒の名を思い出すと突如に右腕から痺れ、軋みを感じる。


「ところで、そっちはもしかして不知火の彼女か?」


「え?…いや、綾音は」


「はいそうです、おはようございます、先輩。いつも遍がお世話になってます」


綾音は笑みを浮かべて答える。


僕が一度だって見たことのない笑みで。


「先輩って…。年下か?その娘。案外やることやってんな不知火」


「いや、待ってくれ荻原さん。綾音は」


そこまで言いかけた時、右腕の痺れと軋みがより一層激しくなった。


言葉が続かなくなり、綾音へと視線を移す。


綾音はただ無言で僕を見ていた。


その眼はひどく暗く深い、昨晩に見た己が彼女の瞳と似ている。


「隅に置けないとか言うんだっけ?こういうの。いやしかし、彼女がいるなら尚更昨日は悪かったな」


「…昨日?昨日なにがあったんですか?」


「まぁちょっと複雑なんだけどよ、結論から言うと不知火に擬似的な告白をしてもらったんだよ」


綾音の笑みに亀裂が走る。


「流れっていうか、本当はその場にいた桐生っていう別の男子に告白してもらいたかったんだけどな」


「話がよく見えてこないんですけどなんでわざわざそんな嘘の告白したんですか?」


「んー告白させた相手が…知ってるかな、高嶺 華ってやつなんだけどそいつと桐生が付き合ってんじゃねーかって噂が前からあってな。そんで桐生に気がある、恵っていうあたしの友達が噂が本当かどうか調べたくてやった茶番なんだ」


「高嶺 華って…ああ、あの」


心臓が息をひそめる。


綾音の口ぶりだと華のことをすでに認知しているようだった。


「ま、結果は桐生に別の彼女がいたって、なんとも残酷な結果だったんだけどな」


「で」


「ん?」


「で、結果はどうだったんですか?」


「いや、だから桐生には彼女が…」


「そっちじゃないです」


「…あー、あはは…。そうだよな、彼女としてはこっちが気になるよな」


こっち、と口にした時に僕と目があったのは言うまでもないことだろう。


「それがさ、よくわかんなかったんだよな。ほとんど二人同時に告白したような感すじだけど華のやつ、返事もせず固まってただけだっんだ」


「固まってただけ?よく分からないですね、その手のことに及んでは百戦錬磨のような方が固まってただけなんて」


「…まー、あんなよく分からないカタチで告られたのは流石に初めてだったんじゃないかな。つーか、やっぱ華のこと一年も知ってるんだな」


「はい、よく噂は聞きますよ。誰も手が届かない高嶺の花が二年生に咲いてると」


「流石だなぁ。…っとまぁお二人仲良く学校向かってるところ邪魔して悪かったな。あたしは先に学校に向かうことにするわ。また後でな、不知火」


「あの…ああ、うん。また後で」


結局、誤解は解けずに荻原さんは強い歩調で僕らの先を向かっていった。


「…うーん、アイツじゃなかったな。少し匂いが違う。それにあんなガサツそうな女がお兄ちゃんに合うわけがない」


「あ、綾音。少し腕を緩めてはくれないか?指先が痺れてきたんだ」


しかし、僕の願いは聞き入れられるどころか、寧ろさらに強く右腕が締め付けれられていく。



「…お兄ちゃん、告白したんだ。ふぅん。しかもよりにもよってあんな碌でもなさそうな女に」


「い、痛いよ綾音」


「どうせ顔がいいだけの売女でしょ。色んな男に寄って集られていい気分になって」


「あ、綾音。幾ら何でも人のことそんな風に悪く言っちゃ駄目だ」


どんなに情けなくても僕は高嶺 華の彼氏だ。


彼女の悪口を黙って聞き流すことはしてはならないと静止する。


「なに?お兄ちゃんもあの女を庇うの?顔がいいから?むかつく……むかつく…むかつく、むかつく!むかつく!!!!お兄ちゃんからの告白なんてどうせなんとも思ってないんだよあいつ!ああもう!!あたしが欲しくて欲しくて堪らないものなのに!どうせあいつには数ある一つでしかないんだよ!むかつく!!!!!」


澄み切った秋の朝に怒号が響く。


綾音の怒りの止め方がわからない。


しかしこのまま黙っていられるほど、僕の腕に余裕はなかった。


「…綾音!いい加減にしなさい!朝なんだからそんなに叫んだら近所迷惑になるし、そもそも会ったこともない人の悪口も良くない!それに僕の腕も千切れそうだ」


口にしておいて随分とまぁ、ちぐはぐな説教だなと思う。


それもそうだ、綾音に怒鳴るなんてもう記憶にないくらい昔のことだからだ。


「…あっ、ごめんなさい…」


先程の憤怒はどこへやら。


随分と久しく怒鳴られた綾音は、その瞳を震わせながら腕を解いた。


指先に血が巡るのを感じる。


今周りに人がいないのが幸いだ。


少々風変わりな兄妹喧嘩を見られないで済んだ。


「…おに……んに……れた…。…いつ…せいだ。…かつく、む…つ…」


右腕に血を与える代償に、今度は俯いたまま、独り言を唱えるようになってしまった。


それにしても、会ったわけでも話したわけでもないのにあの有様。


恋人だと紹介した暁には、どうなるか分かったものではない。


楽天的な性分ではない故、あまりあてにしてはなかった解決案である『義妹と彼女の和解』というのはどうやら無理そうだ。


綾音も歩みを止めたわけではないので、そのまま学舎へと向かう。


先程まで同調していた歩調は今では不協和音を奏でている始末。


全て何事も穏便に済ませる方法はないのだろうか。


何とも居心地の悪くなってしまった通学路を歩く。


歩く。


止まる。


歩く。


その繰り返し。


結局そのまま綾音と僕が言葉を交わすことなく羽紅高校へ辿り着いた。


普段の登校時刻よりかは幾分か遅い時間なのだが、それでも一般的な登校時刻よりは随分と早い。


それだというのに生徒たちの賑わいがちらほらと聞こえてくるのは今日が祭りの日だという証拠であった。


流石にここまで辿り着いたからか、綾音の独り言はすっかり止んだようだった。


相変わらず俯いていることには変わりないのだが。


「綾音」


俯きながら歩いていた綾音はピクリと止まる。


僕はそっと綾音の頭に手を乗せる。


「さっきは僕も言い過ぎたよ。ごめんね」


先程から悔いていた気持ちを口にする。


「おにい…ちゃん」


ぎこちない手つきで綾音の頭を撫でる。


これもまた最後にしたのがいつだったのか覚えていない行動であった。


俯いていた綾音の顔が、瞳が徐々に上へ、僕へ向けられる。


「…。…い、いつまで頭撫でてるの!あたしもう子供じゃないんだよ!」


少し頰を紅潮させ僕の手を振り払う。


「あれ、駄目だったかい?昔はよく綾音にやってたような気がしてたんだけど」


「だから昔は昔でしょ!もう子供扱いはやめてよね!それにお兄ちゃん最近全然撫でてくれなかったから下手になりすぎ!」


撫でないで欲しいのか撫でて欲しくないのか。


本音がよく分からないことを言う。


何にしても、いつもの綾音に戻ったような気がして僕も安堵の気持ちが芽生える。


「はぁ、せっかくの文化祭なんだしイライラしてもしょうがないよね。…それじゃあお兄ちゃん、朝の出欠確認終わったら校門で集合ね」


「分かったよ。迷子にならないようにね」


「あー!また子供扱いしてる!」


「ははは、ごめんごめん」


懐いてくれる義妹を可愛らしく思う。


そんな関係が心地よくて僕は十年も兄を演じてきた。


演じてきたつもりだった。


確かに兄妹になった時、綾音は確か六歳だったか。


出会った時の小さな綾音を僕よりひととせしか変わらないというのに幼く感じすぎていたのかもしれない。


僕を"義兄"としては受け入れることができても"兄"としては受け入れるにはもう難しい年頃だったのではないか。


僕は綾音を本当の妹のように思ってきた。


綾音も僕のことを本当の兄だと思っているのではないかと思い込んでいた。


でも綾音が僕を義兄として見るか、異性として見るかは綾音が決めることだ。


もしかすると僕らが兄妹になるには僅かに遅かったのかもしれない。


かと言って誰かがどうこうできたわけでなければ、誰も悪くはない。


少なくても僕は綾音をずっと妹だと思ってきた。


今更、一人の女の子として見るのは無理だ。


だから、やはり、もし、綾音が僕のことを一人の異性として見てるなら、その想いを受け入れることはできないし、その気持ちを諦めるように説得するべきなのだろう。


どうかただの僕の自惚れであってほしい。


「じゃあまた後でね」


「うん、また」


再会の約束をしたのち下駄箱にて僕らは別れる。


自分の下駄箱へと向かい小さな扉を開けるとなにやらビニール袋に包まれたものがそこにあった。


「…なんだろう」


何重にも包まれたものビニール袋を一つずつ外していく。


四枚ほど外した時に一体何が包まれていたのかが分かるようになった。


「これは…」


弁当箱だ。


重さといい温もりといい中身が入っていることは明白だった。


見た目は薄いピンク色の弁当箱で、一体全体何故こんなものが入っているのか分からなかった。


「サプラーイズ」


僕の左耳に誰かが囁いた。


驚いた僕はその誰かから離れるように振り向いた。


「ひどいなぁ…。そんな顔しないでよ。あなたの彼女だよ?」


「お、驚かさないでよ、華」


華、と口にしてから慌てて周りの様子を伺う。


こんなところを誰かに、特に綾音に見られたりしたらどうなってしまうのか分かったものではない。


「そんなに慌てなくても大丈夫だよ。誰かが来てもただのクラスメイトの会話ってことにすればいいんだから」


それよりも、と彼女は続ける。


「それね、私の手作りお弁当なんだぁ」


僕の右手に握られているのが得体の知れないものから彼女のお手製弁当へと様変わりした。


「そうなのかい?ありがとうすごく嬉しいよ。…でもどうして?」


「どうしてって、遍今日出店の食べ物とか食べるでしょ?もしかしたら何処ぞの女が作ったかも分からないものを食べるかもしれないし、そんなもの食べたら遍の体が穢れてしまうし、だから私の愛が詰まったお弁当で遍の穢れを浄化しなきゃ」


「穢れってそんな…」


そんな言い方はないのではないか?


そう言おうと思ったが言えなかった。


綾音には言えたのに華には言えなかった。


「まぁそもそも、遍に私のお弁当食べさせたいってずっと思ってたし。いいよね?これからは毎日、遍のお弁当私が作って」


「気持ちは嬉しいだけれども、毎日は流石に大変なんじゃあないかい?」


「ううん、大変じゃないよ。むしろ私が作りたいの。毎日毎日毎日、愛を、愛情を込めて作った弁当を遍が食べてくれたら、私の愛が遍の体内に入っていくってことでしょ?そんなの…、素敵すぎて言葉にならないよ」


紅潮させた両頬に手を当てる華。


まただ。


理由のある愛を求める僕と理由のない愛を与えてくる彼女。


僕の自己肯定の弱さと彼女の愛情の強さが噛み合わない歯車となって僕の心を歪めていく。


「じゃあ華が作ってくれるなら、僕はそれを毎日楽しみにした方がいいかな」


「うん!楽しみにしてて!ほんとに料理には自信あるし、冷凍食品なんて愛のないものは入れないからね!」


「あ、はは。華の愛なら解凍してしまいかねないよね。楽しみしてるよ、じゃあそろそろ」


いつ誰に見られるか分かった状況ではないため、早々に切り上げたい僕は、やや不自然な会話の切り方をし、踵を返す。


「まって」


その言葉が聞こえた時と僕の左腕を引かれたのは同時のことだった。


そして彼女の唇と僕の唇が触れ合ったのは、それより少し後のことだった。


「…ッ。愛してるよ遍」


僕の瞳を覗きながらまた囁く。


キスをされたことに気づいた時、僕は慌てて周りの様子を伺う。


誰かに見られた様子はなさそうだが、保証はない。


「…話が違うじゃないか」


「約束は守ってるよ。誰にも私たちのこと言ってない。それに…誰も見てないよ」


確証がないのになぜそんなにも自信に溢れているのか、自信のない僕にはわからない。


もう一度、強引に踵を返す。


「今回は見られてないかもしれないけど、いつ誰が見るか分からないから、今後はこういうことは控えてほしいんだ。約束…だから」


「はーいっ。ごめんね、遍。次から気をつけるからっ」


強引に会話を切り上げた僕の背中から聴こえてきたのは、いつかの日に聞いた穢れのない無邪気な少女の声だった。

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