お姉ちゃんの二度目の死 3

 夏休みが始まり、セミの鳴き声が騒がしくなる。


 今年になって、お姉ちゃんはおしゃれをしてよく出かけるようになった。


 去年まではそういう友達付き合いはあっても、基本は家で宿題をしたり絵を描いたりして過ごすことが多かった。だからこの時期は、わたしも友達と遊ぶ約束をした時以外はなるべく家で過ごすように予定を調整していた。


 子供部屋に一人、ベッドの横にもたれかかってぼけーっとクーラーに当てられる。やりたいことはたくさんあったけど、不測の事態に気が削がれてやる気が出ない。


 お姉ちゃんは例の友達の家に行っているらしい。菊乃きくのという名前らしい。別にそいつ自体はあまり興味なかったけど、お姉ちゃんがいつもその話をするせいで嫌でも覚えてしまった。


 顔も知らないそいつのことを思い出して、むしゃくしゃする。


 爪を噛みかけてすぐに止める。お姉ちゃんはそんなことをしない。だから、わたしもそうするべきじゃない。


 退屈でいたたまれなくなって立ち上がり、お姉ちゃんの机の棚の前まで歩いていく。中に立てかけてあったスケッチブックから比較的新しいものを取って、ぱらぱらとめくった。


 繊細なタッチで描かれる、景色や物の数々。こうして見ると、お姉ちゃんが本当に人物画をあえて避けているのがよく分かる。


 そろそろ、わたしの似顔絵を頼んでもいい頃だろうか。「待っていてほしい」という言葉から二年も経っている。まさかお姉ちゃんがわたしにおためごかしを使うはずがない。きっともう苦手を克服しているはずだ。今日の夜にでも、無理を言って頼んでみようか。


 そうしてぱらぱらめくっていく最中、ページをめくる手が止まる。


 ボールペンの線で乱雑に黒く塗りつぶされたなにかの絵。消しゴムをかけるのに失敗したようなシワが紙に残っている。


 なんだろう、これ。


 なにか精神的に不安定なものを感じられるそれは、お姉ちゃんらしくなくて気になってしまう。塗りつぶされた部分をじっと見たり日光に透かしたりしたが、そこになにがあったのかはまるで分からない。


 仕方なくページを飛ばす。またいつものように背景などのスケッチが続く。ほっと息をついてめくり続けていると、また手が止まった。


 長い髪の女の子のスケッチ。つんと切れ長の目は、こちらをじろりと見つめている。その女の子はお姉ちゃんと同じ制服を着ていた。


 誰だこいつ。


 このタッチは確実にお姉ちゃんのものだ。しかし、似顔絵は苦手だって言って、わたしにも見せなかったほどだったはずなのに。


 とっさに引き裂きたくなる衝動にかられた。もう二度と戻せないほどビリビリに破きまくって、原型をとどめないほどに散り散りにしてやりたかった。


 それでもこれはお姉ちゃんのスケッチブックだ。そんなことをしたら、お姉ちゃん以前にわたしがわたしを許せなくなる。


 ページをぱらぱらめくる。


 物憂げな顔、鬱陶うっとうしそうな顔、困惑しながらも口元の緩んだ顔、優しく微笑む顔……


 そこからずっと、そいつのスケッチばかりが続いた。最後のページまでその女の姿があり、ずっとこちらを見つめている。


 息が詰まる。わたしの知らないお姉ちゃんの足跡そくせきがここにあった。スケッチブックの中の絵の変化は、わたしの約束を忘れるほど入れ込んだ相手ができたことを物語っている。


 そしてわたしは、そんな相手に一人だけ心当たりがあった。


 菊乃という、お姉ちゃんの友達。


 会ったことがないため、確証はない。それでもその仮説はやけにしっくり来て、嫌な予感はまるでおさまることがない。


 わたしはスケッチブックをそっと閉じて元の場所へと戻す。ふらふらと部屋の中を歩いて自分のベッドへと着き、無気力にマットへと倒れ込む。


 気づけば手に力が入っていた。わだかまった感情がシーツのシワを作る。


 このまま、いま手にあるものすべてをビリビリに引き裂いてしまいたかった。それでも、わたしはそうすることが出来なかった。



 暗闇のなか、お姉ちゃんのささやくような声。


 お姉ちゃんはいま、例の菊乃と話をしている。声は抑えているようだけれど、それでも充分くすくすと笑い声が聞こえてくた。


「もう、どれだけマンボウのこと好きなんですか?」


 夕飯の時に聞いた話では、今日は水族館に行ったようだった。


 家はともかく、水族館なんてどうでもいい相手と行くようなところじゃない気がする。海の生き物をのんびり見て回る時間と金が与えられるくらいに、お姉ちゃんはそいつに信頼を置いているということだ。


 転校して菊乃というやつと出会ってから、お姉ちゃんは最近本当に楽しそうだ。まるで、わたしたちとの生活に息苦しさでもあったように。


 もちろん、そんなはずがない。お姉ちゃんはそんな素振りを見せたことがなかったから。


「あっ、そうでした。二度とあんな服着てこないでくださいね。正直めっちゃダサいですし、まわりの視線もすごかったですから……」


 いつもどこか気をつかっているお姉ちゃんから出た、砕けた言葉。わたしの前では見せてくれなかった一面。


 わたしの憧れていた人が知らないものになっていく。


 遠いところへ行ってしまう。


 一番近かったはずなのに、いつの間にか知らない誰かにかすめ取られてしまう。


 そんなのいやだ。またいつもみたいなお姉ちゃんに戻って欲しい。


 ベッドから下りて、暗闇の中を音を殺して歩く。薄明るく漏れる光の方へと進んでいく。


「もう切りますね。妹も同じ部屋で寝てるんで――」


 名残惜しそうな声がふと止まる。わたしがお姉ちゃんのベッドに入り、背中にぴたりと身体をくっつけたからだ。


 柔らかい身体に手を回して、ぎゅっと抱きしめる。くすぐったそうにしながらも、お姉ちゃんはそれを受け入れてくれる。


「どうしました、りんちゃん?」


「わたし、お姉ちゃんのことが好きだから」


「え……」


「……一緒に寝たいの。姉妹だから。いいでしょ?」


「は、はあ……」


 困惑しながらも、お姉ちゃんは受け入れてくれる。


 わたしが妹だから。所詮、妹でしかないから。


 お姉ちゃんの寝息を聞きながら、わたしも夢の中へと落ちていく。


 いっそ、お姉ちゃんとその友達がさっさと絶交してくれたら。そしたらまた、平穏が戻ってくるかもしれない。


 お姉ちゃんは悲しむだろうか。案外、あっさり切り替えてくれるかもしれない。


 だってそれが、わたしのお姉ちゃんだから。



 その日からわたしは、心で願った。


 お姉ちゃんと友達が、さっさと絶交してくれますように。


 そして、願いは叶った。


 最悪の形で叶ってしまった。




 十一月の始めごろ、お姉ちゃんが交通事故で亡くなった。


 お姉ちゃんは二度と菊乃と関わることはなくなり、わたしはお姉ちゃんをうしなった。

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