第19話 それぞれの夜
「せっかくの十六歳のお誕生日だっていうのに、散々な目に遇っちゃいましたねぇ」
部屋を出ると、シグルトが呟いた。外には薄暗い廊下が続いている。生活感がないことを除けば、普通の民家のようだ。
途中、男が二人倒れていた。一人はリンベルト伯爵の屋敷で、リシェルをシグルトの元へ案内すると言った男だ。シグルトにかブランにかはわからないが、おそらく術によって気絶させられたのだろう。
玄関を抜け外へ出ると、そこはしんと静まりかえった人気のない住宅地だった。シグルトの住んでいるところと比べると、小さな、造りの粗末な家が多い。二人が出てきた家もそんな中の一軒だった。
月の薄明かりに照らされ、遠くに国旗の翻る王城が見えた。
「ここ……どこですか?」
「王都のはずれにある、今は無人の家ですよ。多分、あのロドムとかいう人の持ち物なんでしょう」
シグルトはさして興味もなさそうに言った。
「さ、お迎えが来てますよ」
シグルトが目で指した方を見れば、一台の馬車があった。その前にはセイラが立っており、目が合うと黙って一礼する。
「先生、あれに乗ってここまで来たんですか?」
それにしてはやって来たのが随分と早い気がした。王城が見える位置からして、リンベルト伯爵邸はここからは真反対にあるはずだ。
シグルトは笑った。
「まさか。君が攫われたっていうのに、悠長に馬車なんか乗りませんよ。来るときは空間が歪んでいるところを渡って近道したんです。便利なんですけど、目的地への“道”を探すのがなかなか骨で、すっごくしんどいんですよね、あれ。だから帰りは普通に帰ろうと思って、セイラに迎えを頼んだんですよ」
「空間の歪んでいるところ……?」
その言葉だけでは、リシェルにはシグルトがどうやってここまで来たのか、想像もつかない。それに、自分を探しにすぐに飛んできた師が、どうして家にいるはずのセイラに連絡を取れたのか。
「先生って、パリスのいう通り、ほんとはすごいんですね……」
「見直したでしょう? 私もやる時はやるんですよ」
得意気な師に、リシェルは素直に頷いた。
「でも……」
「なんです?」
「……いえ、なんでも」
言いかけて、リシェルは首を振った。
脳裏に浮かんでいたのは、先程パリスの首を術で締め上げていた時の、シグルトの笑顔。
(さっきの先生は、少し、怖かった――――)
師に対してそんな感情を持ったのは初めてだった。
馬車に乗ると、セイラが御者台に座った。馬の扱いまでできるらしい。
走り出した馬車の振動に身を任せながら、リシェルは一番気になっていたことを尋ねた。
「それにしても、どうして私の居場所、わかったんですか? パリスが結界を張ってるって言ってたのに……」
術では居場所を突き止めるのは無理だとパリスは言っていた。
では、師はどんな方法を使ったのだろう。
リシェルの隣に座るシグルトは口角を吊り上げ、いたずらっぽく笑う。
「もちろん、愛の力ですよ」
「またそんな嘘ばっかり――――」
いつもの調子で言いかけて、リシェルは口をつぐんだ。
「嘘だと思いますか?」
笑みを消して真顔になったシグルトに、じっと見つめられながら問われて、リシェルは思わず目をそらした。夜会でのシグルトの告白を思い出し、頬が熱くなる。
「リシェル。私は君のためなら、どんなこともできる。たとえ人の道にはずれたことであろうともね。不可能だって可能にしてみせる。それは本当ですよ」
馬車の中、密室で二人きりという状況で、囁くように言われ、心臓が早鐘を打つ。
「先生……私は……」
うつむいたまま、膝に置いた両手をぎゅっと握りしめた。白いドレスにしわが寄る。次の言葉が出てこない。
「……正直な気持ちを言ってくれていいんですよ。私に恩があるとか、そんなことを思って遠慮しなくていい。私は君の正直な気持ちが聞きたいんです。それに……」
シグルトは愉快そうに続けた。
「君から与えられるものなら、何だって喜んで私は受け入れますよ。それがどんな罵詈雑言でも、酷い仕打ちでもね。君になら殺されたって構わない」
「先生って……ちょっと変です」
過激な口説き文句に、リシェルは少し笑った。
「ええ、頭がおかしくなるくらい、君にまいってるんです、私は」
さらりと言われて、ますます顔が熱くなる。
騒ぐ心臓を落ち着かせるため、一息つくと、ためらいながらも、口を開いた。
「先生のことは……大好きです」
ゆっくりと言葉を選びながら、自分の素直な気持ちを伝える。
「でも……け、結婚とか、こ、恋とか、そういう……男の人として好きかって言われると……正直、よくわからないです……」
「……それは仕方ないでしょうね。君からすれば私は親代わりみたいなものだし」
予想していた反応だったのか、シグルトの顔に落胆の色はない。
両手でリシェルの手をそっと握り、続けた。
「でも、それでもいい。君が私を嫌いでないなら、たとえ恋愛感情じゃなくても構わない。君に男として好きになってもらえるように努力するし、絶対に幸せにすると誓いますから」
自分を見つめてくる紫の瞳には、真摯さが宿っていた。
同情なんかじゃない。
この人は本当に自分を大切に想って、愛してくれている。
そう確信させる瞳だった。
「先生と結婚したら、きっと私は幸せになれると思います。でも……」
いつだって優しく微笑んで、自分の傍にいてくれた師匠。
きっと結婚したら、彼の言う通り、幸せになれる。
“シグルトの妻”という存在になることで、自分が何者なのかという悩みからも、もしかしたら解放されるかもしれない。
そう思っても、リシェルは素直に頷くことができなかった。
「私は、今まで何もかも先生に与えて貰いました。この上自分の人生の幸せまで与えて貰うのは……違う気がするんです。それは……あまりにも甘えた生き方だと思います」
パリスのことが頭をかすめる。
自分にしようとしたことは簡単には許せない。
だが、シグルトの弟子になるために彼がこれまで積み重ねてきた努力は本物だし、そこには強い意志と行動力があったのだろう。
それに比べて自分はどうか。
自らの過去を知りたいと願いながらも、実際に何か行動を起こしただろうか。
(私は、自分の力で何一つ手に入れたことがない――――)
「先生。私、やっぱり魔道士になりたい。魔道士になって、この瞳の色の
シグルトはしばらく黙って、リシェルの決意を宿した薄紅色の瞳を見つめていた。
だが、やがてどこか諦めたような表情で肩をすくめた。
「……これは“振られた”、ということになるのかな」
寂しげな声音は、内心傷ついているであろうことを感じさせた。
リシェルは首を振る。
「先生が嫌なんじゃないんです。……ただ、今の私じゃ、駄目なんです」
「……なるほど。じゃあまだ脈はあるわけだ」
シグルトの表情が一転、悪戯を企んでいるかのようなものに変わる。
「確かにいきなり結婚してくれ、は急すぎましたね。焦りすぎました。その前に恋人になるっていうのが順序ですよね。うん、君も成人して晴れて大人の女性になったわけだから、これからは遠慮なく口説くことにします。君も覚悟して下さい」
「へ?」
不意にシグルトが、握っていたリシェルの手を持ち上げ、その指先に自らの唇を押し当てた。
「……!」
指先に感じる温かく、柔らかな感触。
触れられた箇所から、じんじんと熱と甘やかな痺れが広がっていく。
口づけを落としながら、シグルトの紫の目がすっと細められ、上目遣いに自分を見つめる。
師の行動の意味は分からなかったが、胸がどきどきと高鳴った。
恥ずかしいのに、自分を捉える紫の瞳から目が逸らせない。
シグルトがくすりと笑った。
「君が私を男として意識できるように、私も行動を改めます」
「……!」
「これからは今まで以上に君と一緒にいることが多くなるしね。君は私をただの怠け者の給料泥棒だと思ってるみたいですけど、導師会議を取り仕切る私を見たら、きっと見直してくれますよ?」
「先生、それって……」
馬車が止まり、シグルトがリシェルの手を離した。
同時に馬車の扉が開く。セイラが扉に手を掛け立っていた。その向こうにはシグルトとリシェルの住む家が見える。
「魔法が使えるようになるのは、そう簡単じゃないですからね。そっちも覚悟して下さい」
「あ、ありがとうございます!」
シグルトは微笑んで、リシェルの頭に愛おしげに手を滑らせる。
「誰が何と言おうと、君は私の、たった一人の可愛い弟子ですよ」
(あ――)
師の言葉に、聞きたくて仕方なかったが、きっかけが掴めなかった問いが思わず出そうになった。
(先生の、前の弟子。アーシェ――)
だが、やはり
理由は自分にもわからなかったが、なんとなく聞いてはいけないことのような気がした。
師は聞かれたくないことだから、今まで自分に何も話さなかったのではないか。
(でも――)
自分の過去を知る最大の手掛かりを、せっかく得たのだ。
シグルトが肩に掛けてくれた上着を、決意を固めるようにしっかり握りしめる。
馬車を降り、先に家へと向かうシグルトの背に向かって、おずおずと声を発した。
「あの、先生? お聞きしたいことがあるんですけど」
「なんです?」
「アーシェ……さんて、今どこにいるんですか?」
前を歩いていたシグルトが急に立ち止った。
後ろを歩いていたリシェルは危うく、その背にぶつかりそうになる。
黙ったまま、振り返らない背中に向かって確認した。
「先生の前のお弟子さん、なんですよね?」
「……パリス君が何か言いましたか?」
師の声音からは、何の感情も読み取れなかった。
「あの、先生が腕を折った……ロドムっていう人が、子供の頃の私と、そのアーシェさんらしき人がカロンで一緒にいるのを見たって言ってたんです……」
「……」
シグルトはなぜか黙り込む。
風もなく、月の光を受けて淡く輝くシグルトの白銀の髪の一本すら、動かない。時が静止してしまったかのような感覚さえ覚えた。
やはり聞いてはいけないことだったのか。
「先生?」
「……彼女には会えませんよ」
ようやく、素っ気ない答えが返ってくる。
「そんな……居場所わからないんですか? 弟子なのに?」
落胆から、思わず非難めいた口調になってしまった。
「アーシェは……弟子を辞めたんです」
「え?」
「私の元を……法院を去ってから、あの子が何をしていたのかは知りません」
「そんな……どうして弟子を辞めたんですか?」
せっかく掴みかけた過去への手掛かりを失いたくなくて、すがるように問う。
不意に―――
シグルトが振り返り、リシェルを抱き寄せた。
突然のことにシグルトの顔を見上げようとするが、腕の中に閉じ込めるように強く抱きしめられ、師の表情は見えない。それでも振り返った時の一瞬――――泣きそうなまでに苦しげな顔が見えた。
「……リシェル。色々それらしいことを言いましたけど、私が君に魔法を教えなかった本当の理由はね、ただ怖かったんですよ」
腕の中で聞く師の声は、少し震えているように聞こえた。
「怖い?」
「力を得たら君は私を置いて、私の手の届かないところに去ってしまうんじゃないか……って。……アーシェのように………」
シグルトはリシェルを抱く腕にさらに力を込めた。まるで逃がすまいとするかのように。
「あんな想い……二度としたくない……二度と……」
「先生……?」
リシェルはただ戸惑い、どうしていいかわからなかったが、師の背中に腕を回し、慰めるようにその背を
こうして腕を回してみると、細身な見た目より、ずっとたくましい身体なのだとよくわかる。
(男の人……なんだ……)
初めて、はっきりと意識した。
そして、今まで見たことのなかった、何かに怯えるかのような、師の弱気な姿。
リシェルの知るシグルトは、いつだって余裕があって、常に微笑みながら自分を守ってくれる、そんな頼れる存在だった。
今自分にすがるように身を寄せる師に戸惑いながらも、支えてあげたいという想いがこみ上げる。
今日一日で、今まで知らなかった師の様々な顔を見た。
真剣な表情で想いを告げた時の、男としての顔。
笑いながらパリスの首を締め上げた時の、少し怖い顔。
そして、今見せている、弱く脆い顔――――
――あいつを信じるな。あいつは、お前の思っているような奴じゃない――
エリックが言う通り、シグルトには自分の知らない顔がまだまだあるのだ。
だけど――――
「……先生、私、先生を信じてます。だから、先生も私を信じて。前のお弟子さんと何があったのかわからないけれど、私はどこにも行きませんから。六年前の今日から、今まで先生がずっと私の傍にいてくれたように――――」
シグルトは答える代わりに、そっとリシェルの髪に自身の指を絡ませた。
そんな二人の様子を、忠実なメイドは離れた所から静かに見守っていた。
だが、ふと何かに気づいたように視線を下へ向けると、すぐ横の地面を片足で踏みつける。
足をどかした跡には、潰れた小さな
それはすっと音もなく闇に溶けて、跡かたもなく存在を消した。
メイドは何事もなかったように、再び抱き合う二人へと視線を戻した。
「おっと、気づかれたみたいだ」
男は忌々しげに舌打ちした。
薄暗い部屋の中、目の前には巨大な鏡。
鏡の中には深緑色の髪の、眼帯をした男が映っていた。
鏡の表面が水面のように波打っているせいで、男の姿も揺らいでいる。
さっきまでは、そこに白銀の髪の男と、黒髪の少女が抱き合う姿が映し出されていた。
「……あんたの術もたいしたことないな」
背後からかけられた声に、男はむっとすることもなく言った。
「途中までシグルトにも気づかれなかったんだ。誉めてほしいくらいだね。……まあ、奴も内心相当焦ってたんだろうが」
男は振り返り、少し離れたところに立つ黒髪の騎士に向き直った。
「邪魔は入ったが情報収集は成功だ、エリック」
「……そうか?」
「まず、あの娘は本当に魔法が使えない。でなきゃ、あの程度の罠に引っ掛かるわけがない」
「……そんなところから見てたのか」
「まあな。それからもう一つ」
男は意味ありげに口角を吊り上げた。
「シグルトはあの娘に相当入れ込んでる。あの人を人とも思わない冷血漢が、だ」
「……」
エリックは不快そうに顔を歪めた。
男はその様子をどこか楽しそうに眺める。
「お前からしたら不愉快極まりない話だろうが……あの娘、たとえ記憶が無くても使えるかもしれないな」
上機嫌に吐かれる言葉に、エリックは男を射殺さんばかりのきつい眼差しで睨みつける。
だが、男は気にした風もなく、再び鏡の方へと体を向ける。
鏡の中の男は、片手を持ち上げ、そっと自らの左目を隠す眼帯に触れた。
「もちろん、アーシェに会えることが一番なんだがな――――」
カツ――――ン カツ――――ン
しんと静まりかえった空間で、ゆったりとした足音だけが響きわたる。
やがて足音が止まり、ギイッと軋んだ音を立てて扉が開かれた。
現れたのは、濃紺のローブをまとった若い男。
施された銀糸の装飾が、部屋に灯されたろうそくの灯りできらりと光る。
男は、薄明かりで照らされる部屋の中央に置かれた、天蓋の付いた豪華な寝台へと近づいていく。
寝台の上には、一人の少女が横たわっていた。
黒いローブをまとった、年の頃十七,八歳の少女は、眠っているようで瞳を閉じ、ぴくりとも動かない。
男はさらに近付き、身を屈めると手をのばして、少女の頬をそっと撫でた。
「ロドムは失敗したよ。まあ、最初から期待なんてしてなかったけどね」
言葉通り、少しの落胆の色も見せずに、優しく眠る少女に話しかける。
「彼には君も昔会ったことがあるんだよ。カロンでね。そこで君は攫われそうになっていたあの子を、彼から助けた。運命なんてものがあるなら、まさに“運命の出会い”だ。あの子がいなきゃ、今の君はいなかった……」
話しかけられても、触れられても、少女の目が開かれることはない。生きているのかわからぬほど、人形のようにただ横たわるだけ。
「ああ、本当に君は、一体いつになったら目を覚ましてくれるんだろうね……」
男は悲しげな吐息を漏らすと、寝台に手をついて、身を乗り出す。
眠る少女へ顔を近づける。
「早く目を開けてよ……僕の可愛いアーシェ……」
男の唇が、少女のそれと重なり合う。
寝台が揺れた振動で、少女の灰色の髪が一房、さらりと落ちた。
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