第33話

八並修は眠っていた。いつもの寝顔ではなかったが、眠っている状態であることには間違いなかった。違ったのは、ここは病室であったことと、夫修が交通事故にあったという二つの事実だった。だから、その寝顔は苦しそうだった。

「ふっ・・・」

と八並由紀子は吐息を吐いた。彼女は自分の呼吸が息苦しいのに気付いた。いつかはこんなことが起こるだろうと思っていた。こんなこととは事故のことではない。夫修にとって思いも寄らぬ、何かが起こるに違いないと思っていたことである。何か・・・由紀子にとっても不安、不吉なことであるに違いない。両足には見ていると気持ちが悪くなってしまうほど白い包帯が厚く巻かれていた。担当医となった由紀子よりはるかに若い医者は、歩くのには時間が掛かるといった。その言い方が余りにも感情がこもっていなかったので、本当に歩けるようになるんですねと念を押すと、

「時間は掛かりますがね」

とその若い医者は由紀子から目を逸らし、すぐに舌を向いた。

由紀子は、この人は歩けなくなるのかもしれないと思った。そのような気がした。

由紀子はあの古い家で、そんな修を世話する自分の姿を想像をした。そう考えると、なぜだか分からないが、由紀子はほっとした気分になった。それもいいのかもしれないと思った。子供たちに知らせた方がいいだろう。修が目を覚ます気配はなかった。


由紀子は最初に朝美に電話をした。時計を見ると、午後十一時になろうとしていた。まだ起きているだろう。寮に帰っているに違いない。取り次いでもらえるのは、午後十時までである。

今は携帯にかけるしかない、と思った。長い呼び出しコールだったが、やはり朝美は電話にでなかった。毎日電話をしていたわけではない。多くても月四回くらい。たまたまその日朝美がいたに過ぎないのか。また朝美がいるような時間帯に掛けていたことになるのか。それにしてもこんな時間に何処へ行っているのか。由紀子の想像を超えた区域だった。今まで一度も電話をして来なかった子が、父が事故にあったことを知ったとしても、心配して、こっちに帰って来るようなことはないと思う。明日にでも知らせるしかない、と由紀子は気持ちを切り替えた。


健次にはすぐに連絡がついた。

健次のアパートに電話をすると、宮下千佳子が出た。眠そうな声が返って来た。もう寝ていたのかもしれない。電話の声が由紀子だと分かると、はっきりとした口調になった。修が事故にあつたことを話すと、すぐに健次と代わった。

「大丈夫か!」

健次の声が力強く耳に響いて来た。初めて聞く声だった。そんな気がした。

「健次」

胸がつかえ目頭が熱くなり、すぐに次の言葉が出て来なかった。

「だ・・・大丈夫。お父さん、運がいいのよね。足の怪我はひどいんだけど、でも大丈夫。医者は、時間は掛かるけど歩けるようになるって」

由紀子は自分の言っていることが、何を言っているのか理解していなかつた。

「今、何処?病院?」

「そう、伊勢の第一慶応病院」

「すぐ行く」

「お願い」

健次が電話を切ってからも、由紀子はしばらく受話器を置くことが出来なかった。一分足らずのやりとりだった。今まで感じたことのない逞しい健次を知った。健次の言葉は短くはきはきとしていた。俺はあんたの息子だ。そうは言わなかった。しかし、そういう余韻が由紀子の体の中を響いていた。

電話をする前はひょっとして行かないというかもしれないと微かな不安があった。それが命には別条ないのにすぐ行くと言ってくれた。

修と健次の関係がおかしかったとは、由紀子はこれっぽっちも思わない。どこの男親と男の子にも起こる、お互いに気恥ずかしい心の時期だったような気がする、と由紀子は漠然と思う。それ以上のことは、彼女には分からないというのが本当の気持ちだった。

ただ今はすごく嬉しかった。涙が止まらなかった。受話器を持ったままその場にしゃがみ込み、声を出して泣いた。電話は待合室の入口の横にあった。この時間には誰も待合室の中にはいなかった。由紀子は自分の泣き声が通路を歩く看護師に聞こえはしないかと泣く声を抑えた。それでも彼女の抑えた嗚咽から漏れた声は病院の通路を伝わり、響き渡っているような気がした。

由紀子は、修と作ったというより修との間に出来た家族が不幸だったとは思わない。そうかといって、幸せだったかと問われると素直に頷くことが出来ない。みんながそれなりの生き方をして来たように思う。他の家の家族が自分の家族より幸せにみえたことは何度かある。そんな時は決まって修と一緒になったことを後悔している時だった。でも、そんな思いはすぐに消えて、いつもの生活を取り戻している。健次は今千佳子と同棲している。そんなことをしたって、何の役にも立たない。結婚とはそんなもの・・・このまま結婚までいってくれれば、と思っている。

由紀子は余計な口出しをする気はない。その健次だけど、これまで自分が不幸だったとは思っていないだろう。そのような言葉を、彼女は聞いたことがない。あの子は、そんなに馬鹿じゃない。健次は修には不満があったはず。由紀子にだって、何かを言いたかったに違いない。だが、結局健次は何も言っていない。

由紀子は自分の思いが間違っているのかどうかは分からない。彼女はそう感じていたのである。だから、彼女は健次に、春美や朝美以上に気を使った。

健次はそんな由紀子の気持ちに気付いていたような気がする。だからこそ、由紀子が訪ねて行っても拒絶せずに部屋に入れてくれた。不安があったからこそ彼女は健次を訪ねた。健次をこれ以上離れて行かないように見張り、引き留めて置きたかった。そうしないと、いつの日か由紀子の目の前から健次が消えて行ってしまいそうな気がしていた。

「津のアパートで、一人で暮らすよ」

健次、十七歳。高校を卒業して二か月しか経っていなかった。

由紀子は何も言えなかった。その内、必ずこの子の口から聞くに違いない言葉の一つだった。その夜、由紀子と向かい合って修がいたが、黙って食事をしていた。しかし、由紀子は修の箸を持つ手が震えていたのを今でははっきりと覚えている。

「どうします?」

由紀子は二人になった時、訊いた。

「好きにさせるさ。何を言っても無駄だろう」

確かに修の言う通りだった。

「でも・・・」

と言って、ゴクリと言葉を飲み込んだ。由紀子にはまだ十七歳の赤ん坊だった。いつまでも自分の手元に引き留めておくことなど出来ないのは、頭の中ではよく分かっていた。

由紀子は左手で涙を拭きながら立ち上がった。あの頃も今も世の中の道理に納得していない。まだ母としての感情に引っ張られながら行動しているに過ぎない。それしか彼女には出来ないのである。

春美にも知らせておかなくては、と由紀子は受話器を取った。が、彼女の手の動きが止まった。口に違和感があった。ガムを噛んでいて、快い歯応えがない口の感じがあったのである。うまく言葉がしゃべれないような気がした。三度ゆっくり深呼吸をした。そして、口と顎を横に三度ぐいぐいと動かした。

気分を落ち着かせ受話器を取り、百円玉を入れた。零を押した所で由紀子の手はまた止まった。春美は昭平の両親と同居している。こんな時間に電話をしていいのだろうか?躊躇した。それに、

(そろそろ生まれるのでは・・・)

春美の出産予定日は過ぎていて、そろそろ生まれてもいいころだった。初産だから仕方がないのかもしれないが、気が気でない日が続いていた。十一日前の朝、陣痛が始まったから病院に行ったと連絡が入った。遂に生まれるのか、と由紀子の心は騒いだ。しかし、それからいつまで経っても生まれたという連絡はなかった。

春美はこっちで産む気はなかった。出て行った娘だから、こっちからどうこう言う気もない。しかし、由紀子としてはやはり寂しい。修は、由紀子がこうなのよと言ってもいつものように、彼女をはっとさせる答えも返って来なかった。が、春美の話をすると何かに耐えているような表情をしていた。由紀子にはそう見えた。入院の連絡はないから、まだ生まれていないのだろう。由紀子が健次を生んだ時には一か月遅れの出産だったから、まだのような気がした。

由紀子はまた時計を見た。十一時四十五分だった。秒針が規則正しく動いていた。春美は朝になってから知らせよう。その方がいい。そして、朝美は、あの子は・・・あの子も朝もう一度電話をしてみよう。その時いなかったら、大学の方に知らせればいい。

病室に戻ると、修はまだ眠っていた。シーツが少し乱れているような気がした。動いたのかもしれない。由紀子は丸椅子に座った。とにかく修の命は助かったんだ。健次ももうすぐ来てくれる。心配するようなことは何もない。彼女は自分に何度も言い聞かせた。

由紀子は、今自分はもの凄く眠いのがよく分かっていた。その気になれば修の寝ているベッドに両腕を組み合わせ眠ってしまうだろう。修の寝息が聞こえる。疲れていたのかもしれない。この人が事故に合うなんて、由紀子には信じられなかった。

「あっ、あぁ」

修が苦しそうな動きをして、体をくねらせた。

「あなた、大丈夫?」

由紀子は修の手を握った。すぐに修の動きは止まった。

この顔は・・・彼女は非常に腹立たしい気分になった。あの刑事たちが来た時に見せる表情と同じだった。

なぜ、なぜ・・・由紀子は今もあの日の朝の出来事を描き出せる。なぜあの刑事たちはあの日以来家にやって来て、しつっこい位い苛々することばかり訊いて帰って行くの?あの日、あの日・・・全く思い出したくないばかりの日だった。


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