第26話
その日の零時を過ぎてから寝るのが、一幸のいつの間にか習慣になってしまっていた。何を考えるでもない。何をやるでもない。圭子の、
「何か、言いました?」
という問い掛けが怖かったのだ。立ち上がったり、歩き回ったりしているうちに浸かれ、ベッドに寝て、天井を見ているといつの間にか眠ってしまっている。だが、今日は二時になっても眠れなかった。
「あの子は、何をするつもりなんだ?」
一幸はいつものように天井を見ていた。いつもと違うのは、横に圭子が寝ていた。寝られないから、ベッドにはいったのだった。
圭子は寝る前にはいつも本を読む。時には二時や三時ごろまで読むこともあった。若い作家の本が好きで、昨日も一幸の知らない作家の本を読んでいた。たまに、何を読んでいるのと聞く。面白いから遅くまで読んでいるんだろうけど、少なくとも今日は何を読んでいるのか全然興味がなかった。
「何が?ああ、あの子ね。八並朝美。大学生よ。歴史が好きでよく仙台に来ているんですって」
圭子は本から目を離した。なぜか一幸を見ずに、また目を本に戻した。
「どうして知っているの?」
一幸は天井を見たままだった。
「何時だったかなあ。去年の七月の終わりころだったと思う。あの子から話しかけてきたの。どうしてそんなことを聞くの?」
「別に理由なんてないけど・・・ただ・・・」
「ただ、何なの?」
「その・・・君の友達にしては、君の友達にしては若すぎやしないかと思ってね」
圭子は本を閉じた。そして、一幸と同じように上向きに寝たが、気になるのか顔を夫の方に向けた。
「そうね。あなたの言う通りなのかもしれない。あの子、二十歳だものね。でも、私と気が合うのよ」
一幸の眉がピクリと動いた。
「よく会うのかい?」
「そんなにしょっちゅうじゃないわよ。あの子がこっちの方に来た時に寄ってくれるのよ」
「この家に来たことがあるの?さっき良子が喜ぶと言っていたね」
「あるわよ。言わなかった?」
「聞いていない」
「洋一もあの子のこと、知っているんですよ。良子なんかお姉さんが出来たみたい、と言っている。いつでもいいから何処かに遊びに連れて行ってとあの子に甘えているのよ」
圭子は嬉しそうに話す。
一幸は実に不愉快な気分になっていた。
「あなたのいう通り、私には若すぎる友達かもしれない。でも、楽しいのよね、あの子と話していて」
(違う)
一幸は素直にそう思った。今の一幸にはよくわからなかったが、圭子の言っていることには、何処かが間違っているような気がした。
佐野一幸は、自分の生命が何者かによって操られているような不快感があった。その何者かが、朝美であるのはよく感じ取っていた。
(それなら、そうであるなら、私はあの子から逃げられるのか?)
一幸は意識して頷こうとした。だが、彼の体は硬直したままだった。
一幸はゆっくりと呼吸して、どうすべきかを考えた。どんなに抵抗しても、朝美からは逃げられないような気がした。彼は体を、ぶるつと一回震わした。そして、一幸は、家族との生活を取る、と自身戒めた。
佐野圭子と朝美がどういう経緯で知り合ったのか、一幸は知らない。はっきりと想像できることは、それは偶然ではないということである。しかも、彼の知らない時に、何回となく土浦の家の方まで来ている。良子や洋一とも仲良くなっているようだ。一幸は、これは全て仕組まれているような気がした。
一幸の頭の中をひやっとする冷たい風が吹き抜けた。少しも眠気が襲ってこなかった。そんな一幸に朝美が襲い掛かって来た。短い髪のよく似合う女であった。二十歳でまだ高校生の雰囲気を十分残していた。微笑むと白い歯が光り、まだあどけなさが残る少女であった。そう見える時もあった。
目が冷たい。一幸は何度か自分を見つめる目にそう感じた時があった。なんとなく嫌な気分になるが、一幸は朝美の唇を強く吸う。彼女の顔の大きさからすると少し大きく感じないこともないが、朝美の生気を吸うのにちょうどいい口の開きぐあいをしていた。
何時だったか朝美を抱いた時、朝美の鼻を触った。初めて会った時から美しい鼻だと思っていた。
「どうしたの?」
と朝美は笑いながら聞いた。
「くすぐったいわ」
「一度、君の鼻に触って見たかったんだ」
朝美は自分の鼻に触り、
「どうしてなの?普通の鼻よ」
「そんなことないよ。とってもきれいな鼻だよ」
たった五、六センチくらいの鼻の線だった。朝美の滑らかな花の線にふっと快感を覚えたのである。
一幸は女の寝息を聞いたのでその方に顔を向けると、圭子が寝ていた。疲れを知らない快い寝顔だった。
一幸はまた朝美を抱きたい、と思った。どうしてこんな時に、こんな気持ちになるんだと自分のもどかしさを理解することが出来なかった。一幸は自分の男の欲望を責めた。朝美は女としてそんなに魅力的なのか。彼自身もう十分自制心を持っていい年齢だった。また彼自身もそのような境地に近づいてきていることを自覚していた。彼はそう思っていた。それなのにあんな若い女に心を惑わされるとはどういうことなんだ。
一幸は圭子に背中を向け、苦々しく笑った。
あんな映像を撮りたいなんて、若い女の考えることではない。あれは、三度目くらいに会った時である。
「撮っていい?」
といって、朝美はその日持ってきた少し大き目のバッグからカメラを取り出した。おかしなことに、一幸はだめだとは言わなかった。
朝美と愛し合っている所をカメラで撮るというのは、考えるだけで非常に刺激的なことだった。誰に刺激されることなく興奮を感じ、一幸は朝美の体を狂った動物のようにむさぼった。どれくらいの時間朝美の体をなめまわしていたのか、彼には記憶はなかった。ただ極度の虚脱感に襲われたことだけははっきりと覚えていた。
一幸は小さく息をついた。どのように映っているのか。あれから一度も話に出ないのが聞かなかった。
枕元の電気は点いていた。圭子か消すのを忘れたようである。一幸は体を返し消そうとした。消しても今日は眠れそうになかった。多分、夜明けまで朝美のことをあれこれ考え続けるような気がした。明日は、仕事は休みだ。無理に眠らなければいけないという焦りはない。今日はずっと起きていていい。ただ、気持ちの良い夜の方がいい。その方が気分がいい。こんな夜はいやだ。
一幸は電気スタンドの明かりを消した。
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