第20話

朝美が受験勉強に励んでいる時、由紀子は健次の住んでいる津城跡近くのアパートに行ったことがある。藤堂家の居城で今は城壁が残っているくらいである。二年前、いつものように家に金をせびりに来た時に由紀子が強引に聞き出した。それだから健次は一度も遊びに来いとは言っていない。

今日は由紀子が強引に押し掛けて行ったのである。アパートの古い木のドァを開けた時、母由紀子の顔を見ても少しも驚きはしなかった。その内にやってくるだろうと思っていたようだった。

健次のいる部屋は二階の一番奥だった。ここが偶然空室だったのだろうか、健次にはちょうどいい広さ部屋だと由紀子は思った。

部屋の中はきれいに整頓されていた。健次だけではここまできれいに整頓されることはない。由紀子は六畳の小さな部屋を見回した。

「今、いないよ」

健次は母の態度を見て、照れ臭そうに窓の外に目をそらした。言った。

「そう」

由紀子はそれ以上のことは聞かなかったが、

「すぐ、帰るよ」

健次は、言葉数は少ない。小さいころからである。由紀子は少しも驚かないし、戸惑いも不快さもない。しかし、この子と同じに住んでいる女はどんな気持ちだろうと由紀子はちょっと心配になった。

「昼、食べていく」

由紀子は健次を驚きの目で見つめた。遠い昔、彼女は誰かに向かって同じことを言ったことがあるような気がした。

「えっ、いいの」

由紀子は、今度は健次を見て、本当に嬉しい笑顔を見せた。

「うん、いいよ。多分、今何かを買いに行っていると思うんだ」

健次はこもってはっきりしない。もっと言いたいことをいえばいいのに、と思う。小さい頃からこの子の話す言葉は聞き取りにくかった、と由紀子は健次の口元を見ながら思う。

入口がカチッと音を立てて、開いた。二十くらいの女がスーパーのレジ袋を持って経っていた。由紀子は立ち上がり、女の方に近づいて行った。

女は健次に目をやり、この人がお母さんという表情を見せた。

健次は恥ずかしそうに頷いた。そして、

「宮下千佳子」

と、由紀子の耳元で言った。

千佳子は部屋に入ると大きな声で、

「宮下千佳子です」

と言った後、頭を九十度に深く下げた。多分県内の人だと、由紀子は想像した。

由紀子は彼女の声に驚き、笑った。由紀子は健次に改めて目をやった。この子は何て言う子を選んだの、と正直思った。

「食事、していって下さいね。余り、おいしくはないですけれどね」

千佳子はすぐにキッチンに立った。

「有難う。いいかしら」

「どうぞ」

と言うと、健次を見てほほ笑んだ。

千佳子が作ったのはカレーだった。じゃがいも、人参、玉ねぎ、肉とごく在り来たりの食材で、これといって珍しくないカレーだった。それでも千佳子という健次の恋人が作っている姿を目にしていたこともあって、おいしい、と由紀子は素直な感想をいった。

健次は女二人の会話の中に入ってくる気はないらしく、テレビの画面を見入っていた。開いた窓から風が部屋の中に入り込んできた。その姿をちらっと見た由紀子は、夫にそっくりだ、と思った。

「私も働いているんですよ、余り無理をしないようにっと気を使ってくれます」

千佳子は後片付けをしながら、お腹を押さえた。由紀子はその横で、千佳子が皿を洗うのを見ていた。

「そう。たいへんだけど、働けるのは今しかないからね」

由紀子は嬉しそうに言った。

「身体・・・大丈夫?」

千佳子は頷いた。今という時間が余程嬉しいのだろう。彼女の顔の張りが生き生きして輝いていた。 

「健次君、今、運送会社で働いています。お母さんに話しているのかどうか知らないけど、時々県外に行って二三日帰らないこともあるんですよ」

由紀子は健次が今何をしているのか知らなかった。彼女は、健次は働かないのではなく、たまたま仕事が見つからなかっただけだ、と思っている。

「何時から同じに住んでいるの?」

「一年前から」

「私は少し前に知ったのよ」

「すみません」

「責めているんじゃないのよ。あなたのお母さんは、知っているの?」

千佳子の目が曇った。

「私は反対じゃないのよ。いずれはっきりとしなくちゃね」

千佳子はゆっくりと頷いた。

「一度家に遊びに来て下さいね。お父さんもきっと喜ぶと思うわ」

千佳子は由紀子を見て、体を大きく伸ばした。


八並修は酒を飲んでいた。由紀子は今日健次のアパート行ったことは言っていない。修は健次が何処にいて何という名前のアパートに住んでいるのかはいってある。この人ことだから場所だけは確かめに行っているかもしれなかった。だが、由紀子は確信する。この人は健次を訪ねはしなかったと。

「俺が死んだら、あいつは来るさ」

修の口癖ではない。由紀子の前でぽつりと言ったことがあった。

由紀子は修を見つめ、心の中を読み取ろうとした。夫の表情に感情的な曇りはなかった。

「そんなことはありませんよ」

由紀子は酒を注いだ。修は、ビールは飲まなかった。好きで酒を飲むのではない。溜まらなく飲みたくなる時があるようだ。男の・・・人だったら、あって当然のむような気がした。国道四十二号線はそれほど交通量の多い所ではない。ゴールデンウィークとか盆休みとか正月以外車が渋滞することはまずなかった。その反面、車のアクセルは気にしていても深くなってしまうことが多い。今、由紀子の耳にその車の音は全く聞こえなかった。

「何歳だったかな?」

「誰が?あっ、健次ですか」

修の言葉数は少ない。由紀子はそれに慣れてしまった。

「今年に八月で、二十四です」

「もう・・・二十四か」

由紀子は、今は酒を飲まない。修と知り合った頃はビールとかワインとかを気取って飲んだ。けれど、健次が生まれると飲む時間が持てなくなった。もともと好きで飲んでいたのではない。若さのせい。かっこをつけて飲んでいる姿がかっこいいと思っていたに過ぎない。

「こっちからあの子の処へ行きましょうか」

由紀子は思い切って言った。

「来ると言って、来なかった。そうと違うか。行く必要ない。いつものように来る必要があれば、向こうから必ずやって来る」

由紀子は、修は怒ってなんかいないと見抜いていた。

「何か・・・そうね、急用が出来たのよ。子・・・」

由紀子は口をつぐんだ。行ってもいいことを、なぜ言わない。健次だってお父さんに言うなとは言わなかった。

「電話をして見ましょうか?」

修はテレビの画面に顔を向けていた。

由紀子の方は修に背を向けていた。呼び出し音は鳴っていた。受話器からはっきりと修の耳にも聞こえているはずである。修の表情は一変の曇りも動きもなかった。修と健次との間に感情的な争いはない。由紀子は二人を見ていてそう思う。好きだとかきらいだとか、難いとかの思いではない。二人の間にこくこくと流れている血という理由の分からぬ液体で繋がれているもどかしさが由紀子にはあった。修の言うように、死ねば多分二人は顔を合わすのだろう。由紀子はそれを認めなかった。

「誰も出ませんね」

「誰も・・・か!何処かに行っているんだろう」

誰も・・・と、オウム返しに、この人は言った。やっぱりこの人は健次のアパートに行っている。由紀子は修の心の動きを読み取ろうとした。


「そう、そうかもしれませんね」

「その時が来れば、来るだろう。それでいい」

修は自分で酒をついだ。

「それでいい」

修はついだ酒を一気に飲んだ。

由紀子は修の手が震えているのが分かった。


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