第16話

一年目の夏はすぐやってきた。

八並朝美は寮の窓を一杯に開け、暑い夏を乗り越えようとしていた。テレビはつけっぱなしていたが、彼女には慣れない東京の夏の暑さしのぎにはならなかった。

榊原京子は和歌山に帰っていた。夏は南紀の海の匂いをたまらなく嗅ぎたくなる、と言っていた。

「ふうん、そんなものなのかな」

と朝美は言ったが、朝美には京子の気持ちが理解出来なかった。母由紀子は五月の連休もこの夏も帰っておいでと言ってきた。だが、朝美は帰らなかった。

寮の学生、全部が故郷に帰ったのではない。何人かが残っていたが、朝美のように何もしないで遊んでいるものはいなかった。何かのバイトをして、学費の足しにするものもいれば、いうより遊びの金を稼ぎに毎日働いていた。

八月の初め、朝美は郵便局のATMで由紀子から金が振り込まれているか確かめた。彼女は五、六、七月と月の初めに確認している。これからしばらくこの習慣は続くことになる。朝美は、このまま故郷の大台町に帰らなければ、母由紀子は送金を止めると思っていた。それもいいと彼女は観念していた。しかし・・・そうはならないという理由のない確信があった。

父修は、そんなことはしないと彼女は自信を持っていた。卒業したら帰って来いという修に、彼女は否定も肯定もしなかったが、思い出してみると、彼女は頷いたような気がした。修は在学中帰って来いと言っていない。だからというわけではないが、彼女はこれからも帰る気はなかった。

このことが送金を止められる理由にはならないとは思っていたが、彼女はやはりいつもその不安を持っていた。仕方ないという諦めと不安という感情で朝美の心は揺れていた。

その夜、寮に電話があった。朝美に、だった。携帯はあったが、朝美は出るのを拒否するかも知れない、それを警戒しての作戦だった。朝美も由紀子の気持ちというより性格を知っているのか、もうそろそろ掛かってくると思った、ちょうどいい時期にしか掛かってこなかった。いつものようなはっきり返事をしない言葉のやり取りになると思った。時間は午後の十一時十分だった。

「えっ」

朝美は、びくっ、と体を震わせた。相手は、一幸だった。一幸だった。由紀子ではなかった。そろそろ夏休みの帰れという要求はまだ掛かってきていなかったから。

一幸の短い言葉に、朝美は深く息を吸い込んで、

「いいわ」

朝美も短い返事をした。なぜ、携帯にかけて来なかったのか?母由紀子とおなじように拒否されるのでは・・・というおどおどした怖さがあったのか。そうだ、そうに違いない、と彼女は確信した。

この後、二三言朝美は一幸と言葉を交わした。電話を切った後、堪え切れない笑いが朝美を襲った。

一週間くらい前、夕方朝美は新宿のホームにいた。何もすることがなかった。だから、新宿に来た。そこにいたのは、それだけの理由だった。ふぅっと彼女は顔を左右に振った。誰かに見られているような気がしたからだった。気のせいというより、彼女を知っている人の感情の強さを感じたのだった。

朝美の行動は動き始めて、すぐに止まった。彼女の視線の先には、佐野一幸がいた。彼は朝美とは反対側のホームにいた。一幸は朝美より前に気付いていたようだ。彼の会社は品川にあり、この時間ここにいるわけがない。

(どうして・・・)

と彼は考えた。

朝美は一幸に神経を集中させた。一幸の今考えていることを読み取ろうとした。彼との距離が離れているというよりホームに人が多く騒がしく見えたのが、朝美を苛立たせ、神経を集中させることが出来なかった。

朝美のホームに電車が来たので、押されるように電車に乗った。彼女は奥に押され窓際に立った。一幸がホームを走り、彼女の乗った電車のドアまで来た。

(どうしたの?)

朝美は一幸に問い掛けた。彼女はいつもの笑顔を見せず、表情を崩さなかった。

(君に会いたくて。新宿にいれば君に必ず会えると思い、ずっと待っていたんだよ)

朝美は微かに唇を緩めた。

一幸は右手を軽く上げた。

朝美の乗った電車が動き出した。すぐに彼女の視界から男の姿が消えた。こっちから連絡しなければしないほど、あの男が私に会いたいという感情は高鳴るだろう。その時間は長ければ長いほどいい。彼女はそう思っていた。

あの男は、私を忘れられるはずがない。朝美の不思議な確信だった。彼女はまた一幸が自分のことを忘れてもいいと思ってもいた。その時はその時で、こっちからやることがある。 朝美自身よく分からない激しい憎しみや嫌悪が一幸に向けられていた。

「うっ!」

朝美は押されてドァに潰されそうになった。彼女は両手で押し返した。


 数か月後

朝美が新宿のホームを降りると、一幸はいた。わざわざホームまで彼女を迎えに来ていた。 一幸から、会いたいと連絡してきてから八九十、十一月と四か月経っていた。まだ完全に冬という季節ではなかったが、ホームを突き抜けた風は冬のささやきをしていた。

朝美は一幸に、

「こんにちは」

と、言った。

一幸は言葉を返さず、彼女が乗ってきた電車に押し込んだ。

「何処へ行くの?」

電車はまた走り始めた。

「何処だっていい」

一幸は興奮しているようだった。

「ふっ」

朝美は笑った。

「久しぶりですね」

「そうだよ。よく僕の心が読めたね。どうしてこんなに長く会えなかったのだ?」

「あなた、一幸さん言わなかった、奥さんに知られたら大変だって」

一幸は驚いた。そんなことを言った覚えは、彼にはなかった。だが、否定派しなかった。

「いっ、言ったが、余計な気を使わなくていい」

 ⌒ウソ)

一幸は語気を強めた。すぐにここが電車の中であることに気付き、

「すまない。悪かった」

と謝った。

「降りる」

と一幸が言ったのは、品川だった。一幸は新幹線に乗り換え、熱海までの切符を買った。

「私だって、会いたかった」

「だったら・・・」

一幸は興奮していた。小さな顔が紅潮していた。彼は心を落ち着かそうとしていた。それが、彼の表情からもよく読み取れた。

朝美は腕に手を当てた。腕時計は持ってこなかった。今、何時だろう?まだ完全に闇夜になるのには時間があった。新宿で見た空よりは空全体に薄闇が掛かっていた。新幹線の窓から見える風景は、前に見たことがあるような気がした。朝美はちょっと考えたが、記憶に黒い闇が掛かっていて思い出せなかった。彼女はすぐに目を逸らした。

「すまない。苛立って」一幸は謝った。「会いたかったから。本当に会いたかったんだ」

一幸は甘えるように彼女にすり寄って来た。朝美は男の頭を抱いた。

 

佐野一幸は朝美の肩を抱いた。

ホテルの窓から海が見えた。新幹線が西に向かって走って行くのが見えた。

(あっ!)

朝美はさっき思い出せなかったことを思い出した。今年の初め、一人、東京へ来る時見た風景だった。それが良く思い出せなかったのは、こっちに来る時とは違う反対側の風景だったからかもしれない。そして、季節はもう少し前である。

なぜ、あそこに帰らない。朝美にもはっきりとした理由は良く分からなかった。

「いいから帰っておいでよ。一度でいいから」

由紀子は娘を責める口調でいった。

「まだ、三年あるのよ。その内、帰るわよ」

昨日掛かってきた電話である。電話を掛けてくるのは決まって由紀子である。

「お父さん、心配しているよ」

(・・・)

「お前の顔が見たいんだよ」

「私、死んでなんかいないんだよ。今、今こうして話をしているじゃない」

しばらく、沈黙があった。

「お父さん、電話に出ようとしないんだよ。お父さんのためにも帰っておいでよ」

これまで四五回電話があつた。帰ってこいという内容ばかりではないが、必ず父修が心配していると由紀子は訴えた。

朝美が修の声を聞いたのは、東京に行ってもいい、だが、四年たったら帰ってこいと言った時である。だから、もう一年近く父の声を聞いていなかった。


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