第十話

その時、その瞬間、朝美の細い身体に冷ややかな電流が走ったのである。彼女は立ち止まると、空を見上げた。黒い何かが見えた。彼女は顔を背け、目をつぶった。その後、彼女の身体がぶるぶると震え出した。

「何?」

と朝美がすれ違った家族に、赤くべとべとした何かが粘り付くような不信感を抱いたのは一瞬だった。この上半身の小刻みな震えに、彼女は微かに覚えがあった。なぜか彼女は自分の不可解な震えを納得してしまった。夫婦と子供が二人。姉と弟だろう。家族の構成は朝美の家族とそう違わなかった。夫、佐野一幸、妻、圭子、姉、良子、弟、洋一の四人家族。その四人の内、一幸が彼女とすれ違った時、彼の笑い声が聞こえたのである。その時訳の分からない苛立ちや憎しみが、朝美を襲って来た。彼女は三つか四つの時野良犬に襲われ逃げ回ったことがある。とても野良犬から逃げられる足の速さはないから捕まった。上に乗られ、彼女は歯をむき出し怒っている犬の形相と面と向かうことになった。犬の唸り声が彼女の気力をそそいだ。彼女は今でもその時の犬の唸り声や形相を思い出してしまうことがある。

朝美は両手で耳をふさいだ。彼女はうずくまった。

「どうしたの、朝美ちゃん」

京子はうずくまった朝美に駆け寄った。朝美の返事はなかつた。

朝美は心配してくれている京子より、自分など気にせずに歩いて行く男の後姿を追っていた。

「何!今の、誰なの」

朝美の答えは出て来ない。だけど、彼女は自分の知っている人に違いないと思った。彼女はそれ以上深く考えようとはしなかった。何かが彼女のそれ以上の思考を止めていたのかも知れない。朝美はすぐに立ち上がり、男の後を追い始めた。

「朝美」

京子は自分のことなど無視している朝美に頭に来たのか、彼女の腕を引っ張った。

朝美は京子の手を振り払わずに、強引に行こうとした。

「待って、待ってよ、朝美ちゃん」

京子は引っ張れながらも朝美に声を張り上げた。少し頭に来ているような高ぶった声だった。

それでも朝美は経ち止まろうとはせず、京子を引っ張った。しかし、自分の側に京子先輩がいると気付いたようで、

「ごめん、ごめんなさい。私、ちょっと用事が出来たので、先に帰っていて下さい」

と言葉では謝っていた。朝美の身体がビックリするほど膠着しているのに、京子は戸惑ってしまった。

京子は朝美の視線の先に目をやった。彼女には初め朝美が何を見ているのか、はっきりと分からなかった。

「ねぇ、ねぇ

朝美は京子の手を振り払った。」

 京子は声を掛けながら朝美を追い駆けた。

朝美は京子の声は良く聞こえていた。うるさい、ともちょっと静かにして考えたいことがあるのと怒鳴りたいとも思わなかった。彼女の神経は今その家族連れに集中していた。

「京子、ねぇ京子先輩、私、ちょっと用事が出来たからバイバイするね」

朝美はどうしても京子に目を向けなかった。

「ねぇ、何なの。どうしたの」

京子は食い下がった。別にそうする必要もなかったのだが、このまま引き下がるのもいやだった。

「だめだよ。そう簡単に帰らないよ。あんた、まだ東京の何も分かってないんじゃない。何処に行ってもいい。あんた一人で帰って来れるの。東京はそんなに甘い所じゃないからね。あんたの両親に頼まれたわけではないんだけど。まだまだあんたを一人にするわけにはいかないから」

京子は少し離れて朝美の後を付いて行くことにした。

朝美は遥か遠くの一点を見ているように京子には見えた。初めは何なのか、朝美が何を見ているのか分からなかった。しかし、少しずつ分かってきた。

朝美が目を奪われているのは、一つの家族連れだった。ごく普通の何処にでも居るような家族だった。

「誰・・・朝美の知っている人?」

京子は言葉に出し、

「ねぇ」

京子は言葉が続かなかった。今朝美の他人を寄せ付けない雰囲気が、それを許さなかったのだ。それ程朝美の後姿には異様な雰囲気が漂っていた。

父と母、娘と息子。この四人が何処へ行くのか京子には分からないが、今彼らは新宿の西口を楽しそうに歩いていた。朝美たちと同じように、休日の一日を家族で過ごそうと来ただけなのか。夫は佐野一幸、妻圭子、姉良子、弟洋一。一幸と圭子の間を良子が歩いていた。良子は圭子と手をつないでいた。

「あっ」

京子は朝美の顔を覗き込むと、表情が変わったのに気付いた。

「何、何が気にくわないの」

京子は声に出したが、朝美には聞こえない声の大きさだった。京子が朝美と知り合ってまだ二ヶ月ほどだが、もう十分この変な友達の感情を知ってしまっていた。それほど朝美は素直に自分の感情を吐露していた。


京子は再び前を歩いている家族に目をやった。まだ父と母の間を娘が歩いていた。自分と同じくらいに見えるが、まだ学生、高校生にも見えた。弟、男の子と女の子がどのくらい離れているのか分からないが、はっきりと男の子は弟のように見えた。彼が少し離れて歩いているのは、同じに歩くのか恥ずかしいのかもしれないと京子は思った。

京子が見ても、いい家族に見えた。だが、京子には朝美が自分とは同じように見ていないと思った。そのような雰囲気が伝わって来た。

「どうしたの、朝美?」

京子は声に出した。間違いなく朝美には聞こえているはず、と彼女は思った。だが、朝美の反応はない。

朝美には京子の声は聞こえていた。だが、京子に訊き返さない。また、その気もなかったようだ。

京子は朝美の腕を強く握った。そうしなければ朝美はこっちを向いてくれないと思ったからである。

朝美は京子の手を振りほどき、いいのよ、付いて来なくても、といった。その言い方が余りにも素っ気無く感じたので、京子は寒気を感じ、身体を引いてしまった。殺されるという脅迫感はなかったが、彼女の手が殴り掛かってくるような迫力を感じたのである。

佐野の家族はガストで昼食を取り、午後の三時少し前にマクドナルドでハンバーガーを食べた。朝美も彼らに従った。京子もいつの間にか朝美の行動に興味を持ち出し、あれこれ聞かなくなった。

ガストでもマクドナルドでも朝美は佐野の家族の近くに席を取った。何度か朝美は一幸と目があった。初めはほんの一二秒だったが、マクドナルドでは何度か目が合い、一幸の方が怪訝な目をすることがあった。この時、朝美は軽く笑顔を見せた。

京子は、おやっと感じ、一瞬変な気分になった。が、朝美に問い詰めることはなかった。


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