第3話
栃川町本里の中には、まだれっきとした古い慣習が随分残っていた。
(この時代になっても、である)
人々はみんな互いが信頼していたが、
(誰もが・・・)
この不自由さが残っていると、はっきりと認識していた。
《そういうこともあって》
テレビなどで報道されているような不吉な恐ろしい事件など起こる可能性なんてゼロの地域だった。この辺りではそんな不吉で恐ろしい事件は、誰もが起こるようなことはないと信じていた。大体、夜にも家には鍵を掛けない習慣がまだあった。
そう信じてはいたが、今、不吉な事件が周りで起こってきていることも、誰もが知っていたのだが、本里の誰もがその事件を口には出さなかった。本里の古い慣習の塊である女たちには、不吉な事件より、本里の人間の噂話の方を好んだ。
だが、何事も起こらないという事実は今までずっと存在し、今まで家に泥棒が入ったなんて聞いたことがなかったのである。本里の外れにある駐在所の巡査ものんびりとした日々を満喫し、煩わしいことなどを持って来たら、(もちろん彼にとってである)そいつを一刻も早くここから追い出してやろうと心に決めていた。
栃川町本里は、詰まる所そういう所たった。
《ここはどこかというと》
紀伊半島をぐるりっと海岸沿いに走る国道四十二号線は、一年を通してそれ程渋滞することのないちょっと不思議な道路だった。松阪市を南下すると多気郡、しばらく走ると大台町に入る。栃川町本里は国道四十二号線沿いの大台町の栃原から南に折れて、大分と奥に入った所にあった。字本里の中を、伊勢神宮には神聖な河川である宮川がくねるようにゆったりと流れている。
確かに静かな所ではあったが、この頃の旅行ブームで道に迷いこんで来る車が多くなった。特に、伊勢神宮に行く抜け道のためだが、県外ナンバーの旅行客を見かけることが多くなった。
不吉な事件は、その国道四十二号線を南下する形で起こっていた。
まず、起点となるのは松阪市で、ここ六ヶ月の間に四人の少女が消えていた。まだ彼女たちは見つかっていなかった。
警察の捜査の方も思うようには進んでいないようであった。ただ、時間が経つにつれてもう殺されているんじゃないのか、と人々の口に堂々と上り始めていた。そして、二ヶ月前、五キロばかり離れた相可という所で、今度は六歳の女の子が消えた。水谷昌子という子で、その子の青い靴が宮川の支流である櫛田川の河原で見つかっていた。
近隣の松阪市、相可の在所である多気郡、そして大台町の人たちに大きな衝撃を与えた。だが、冷酷にも時間は容赦なく進んで行った。
当然本里の人は、これらの事件を知っていたはずである。だが、誰も日々の話題にすることはなかった。不安はあったと思われるが、誰もそのような不安を口にすることはなかった。多分、日々の安寧な生活を壊されたくなかったのだろう。そう理解するしかない。
そして、彼ら・・・退屈な人々には、秀雄という男の人柄をもてあそぶ方が、よっぽど楽しかったのである。
「朝美」
修は大きな声で叫んだ。
「はい」
と、朝美は振り返り、元気な声が返ってきた。
朝美はまだそんなに遠くにいっていなくて、普通の声で十分聞こえる所を歩いていたのだが。修ははっきりと確認したかったのか、大きな声を掛けたのである。朝美は楽しそうに歩いていた。修にはそう見えたのだった。
「お母さん、行って来ます」
朝美は裏の畑にいる由紀子に聞こえるように大きな声で叫んだ。
「気をつけて行くんだよ」
と、朝美に負けないくらいの大きな声をかえしていた。
修はほっと安堵した。なぜ、今日に限ってこんな気持ちになったのか分からなかったが、この時の自分の不安が少なからず当たっていたのを知るのは、二十数分後のことである。
朝美が用事に出て、少ししてから、
「行くか」
と、自分に言い聞かせるように力を込めた。彼は壁掛け時計を見た。七時になっていた。いつもは六時二十分なのに、今日はなぜこんな時間になったのだ、と考えた。彼は首を捻ったが、はっきりとした答は浮かんで来なかった。
八並修はいつものように鎌を持ち、田んぼと畑の見回りに出た。仕事に行く前に、先祖から受け継いだ田畑を見回るのは自分の役目だと思っていた。親父というよりお袋からくどくど言われて来たことだった。
それに、鎌を持つのはそれなりの理由があって、途中朝っぱらから猪や野兎に出くわすことがあった。大概見逃すが、時には闘いになることもある。そんな時、鎌は大いに役に立った。鎌の使い方もお袋に教えてもらった。他人に好んで自慢はしないが、十分役立つ知識だと彼は思っている。時々、血にまみれた野兎を振ら下げて帰って来た修を、由紀子は嫌った。まして仕事に行っている間に畑にいる猪を家に運んでおいてくれと頼まれることがある。由紀子は初め首を振るが、仕方なしに軽四の荷台に引っ張り上げ運ぶ。どんな生きものでも死んだ姿を見るのは、由紀子は嫌いだった。
山も田畑は先祖さんからもらったものだ。お前のものじゃない。受け継いだ田畑だから、次の世代にそのままの状態で渡すんだ、と修に何度も言われていた。
修はお袋のいうことに肯定も否定もしなかった。親父もお袋ももういない。もう誰にもあれこれ言われることはなかったのだ。
八並朝美が家に戻ったのは、修が家を出て四十分位いしてからであった。
(お母さん・・・)
はいなかつた。
だが、
(おとうさん)
は違った。優しいお父さんであったし、急に怒り出すお父さんでもあった。朝美は、そんなお父さんにいつも怯えを感じていたのだが、今も、いるのか気になった。ちゃんと用事をして来たか、聞かれるのは分かっていた。朝美は、
「うん」
と元気良く答える気でいたし、そう答えた自分を誉めて欲しかった。
しかし、
修はまだ帰って来ていなかつた。彼女は家の中を覗き、誰もいないのを確認した。彼女は空ろな表情をしていた。心の中が震えていた。それ以上に幼い体が小刻みに震えは続いている
(なぜ、こんなに震えているの!)
その理由を考える余裕もなかった。
誰かに・・・誰?彼女の目は何かを考えているようだった。
でも、すぐに気を取り直し、
(お父さん、もう行ったんだ)
と彼女は自分に言い聞かせた。
朝美は修が朝早く仕事に出かけることを良く知っていた。だけど、なぜ毎日田んぼや畑を見回る必要があるのか、彼女にはその理由が分からなかったし、改めて聞くことはなかった。彼女はそんな父を見て、将来自分もそうしなければならないのかな、と漠然と思ったりもした。
朝美は裏に回った。やっぱり、母由紀子はいた。
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