わたしは・・・だあれ?

青 劉一郎 (あい ころいちろう)

第1話

「朝美、朝美、こんな所にいたのか。ちょっとお父さんの傍に来なさい」

父は居間の箪笥の影に隠れている朝美を見つけると、両手を大きく広げた。もう絶対に逃がさないというのだ。

「ごめんなさい、ごめんなさい。もう、しません。悪いことはしません」

五歳の朝美は身体を丸め、小さくなりぶるぶると震えている。そして突然父修を睨み、朝美の小さな反抗は近くにある物を手当たり次第修に向けて投げ付けるだけ。彼女は泣いていた。しかし、修は飛んで来るものを避けようともせず、顔に当たっても表情を崩さなかった。

朝美の目はそんな父を睨んでいた。何度も何度も手で目涙をぬぐった。父の目は時々朝美の夢の中に出て来る怖い生きものの目に似ていた。だから、この人はいつものお父さんではないと自分に言い聞かせていたが、五歳の朝美にはなかなか自分を納得させることが出来なくなっていた。朝美は何度も何度も父の目を見つめ、許しを請うた。彼女の心の怯えはなかなか消えない。そんな中、朝美は時々自分に投げかけてくれる優しい父の目を確かに感じ取っていた。この先、彼女はこの時の父の目をずっと忘れないでいる。

「あなた、あなた、待つて。待って下さい。この子を許してやって下さい」

妻の由紀子は修の腕を引っ張って、娘を守ろうとしていた。しかし、彼女は夫がこのようになってしまった時には、とても止められるものではないということを知っていた。

「あっ」

由紀子は大きく目を見開き、悲鳴に似た叫び声をあげた。

朝美の耳には、今も由紀子の叫び声がはっきりと残っている。修の手は小さな弧を描き、娘の頬を捉えていた。しかし、朝美はこれ以後のことは何も覚えていなかつた。なぜなら、朝美は気を失ってしまったからである。

朝美が何をやって、修の怒りをかったのか。朝美には全く覚えていない。ただ、この日の父修の冷たい目だけが朝美の心の奥に残った。しかし、彼女はけっして母由紀子にどんな理由がで、修があんなに怒ったのか聞くようなことはなかった。


「行ってくるよ、お父さん」

少女は小さな唇に笑みを浮かべ、恐る恐る覗き込むように父の顔を見た。

⌒今日のお父さんの機嫌はどうなのかな?いつものようにちょっと怖いのか、それとも・・・優しいお父さん?)

そこには、彼女の好きな優しい父の顔があった。彼女は、

(ほっ)

とした。

だけど、一瞬、彼女は戸惑いを覚えた。彼女が見た父の顔が意味もなく変わる時に見る顔に似ているようにも見えたからである。

少女は父の顔を見つめたままだった。しかし、父の表情は変わらず、彼女の好きな優しい顔をしたままだった。

「あいよ。頼んだよ。朝美、気をつけて行くんだよ」

父はこう言って、朝美を送り出した。もちろん、父は自分の出来る限りの最高の笑顔を作ることを忘れなかった。この子は俺が突然怒るのを怖がっていて、今またそうなるに違いないと見ていたようだったから。彼はもう一度精一杯の笑顔を作って見せた。

 朝美はそんな父の笑顔をもう一度確認すると、小さな身体を弾ませ家の外に出た。

 数秒後、家の中に静寂が生まれた。

 八並修は、突然家の中から五歳の娘がいなくなり、もう二度と会うことがないのでは・・・そんな不安に駆られた。

(なぜだ?)

なぜ、そんな不吉な想像をする。

「えいっ」

と彼は声を出し、立ち上がった。

修は急いで外に出た。そして、娘が行ったであろう方向を見た。だが、もう娘の姿は見えなかった。

(何だ、この不愉快な感じは)

八並の家では、この頃良くある風景だった。朝美も五歳になったのだから簡単な用事をさせてもいいだろうと修は由紀子と相談し、初めは簡単な用事からさせることにした。

五歳の朝美は、今まで何回となく簡単な用事をしていた。今日の用事は、修の甥にあたる亀谷秀雄の家まで茄子の種を届けることだった。朝美も何回となく叔父の家まで行っていた。秀雄を良く知っていて朝美もなついていた。

修の父の姉と秀雄の母の弟が姉弟だった。修は一人っ子だったが、秀雄は、修が訊いている限り、一卵性の双子がいたという噂がある。だが、一人は死産だったようだ。修には詳しいことは分からないし、確かめたこともない。

亀谷秀雄は三十二歳で、まだ独り者だった。秀雄の両親はもう亡くなっていた。幸いなことに一人っ子だったから、本当の意味で自由に事を振舞えた。修は、

「誰かを世話しようか」

結婚相手を、である。修は何度も言ったが、秀雄はまったく受け付けなかった。

「このまま一人でずっとおる気なのか?」

修は語気を強めて言ったことがある。

「俺は一人の方が気楽なんだよ。お前にどうこう言われる筋合いはない」

秀雄は平然とこう言い放ったことがあった。修はちょっといらっと来て、秀雄を睨み付けたが、それ以上の言葉が出て来なかった。

どっちも互いに尊敬なんてしていない。修は母の弟の子だという義務感からか、秀雄の何事にもつい口を出してしまう。誰からも頼まれたわけではない。秀雄のことを心底心配などしていない。

亀谷秀雄はこの時何も仕事はしていなかった。毎月入って来る収入はなかった。自分が食べる分だけ、田畑で野菜などを作っていた。秀雄は本里の厄介者ではなかったが、誰もが気にしていた独り者だった。

修は、

(気にしていた・・・)

つまり、秀雄は何かにつけて本里の暇つぶし人たちの俎上にのり、格好の餌食になっていた。それを、修はよく知っていた。

八並修と亀谷秀雄の関係は傍目にも、つまり字本里の人々にも目立った存在ではなかった。ごく普通の村人だった、外目には。だが、八並修は内心叔父にただならぬ憎しみを抱いていた。しかし、修はその気持ちというか感情を一度も表すことはなかつた。二人の間に何があったの・・・少し時間を戻ることにする。


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