十四話 従兄妹の君
<一>
「そうだ」
にやりと笑った高策が腰に回した手に力を入れた。
「そなたの
「へっ…?」
唐突な発言に、理解の追いつかない子釉が首をかしげると、彼は含みのある瞳で見上げ、添わせた手のひらを上下に動かした。
「たおやかな女子だったな…。紛れもなく二胡の名手。従兄妹なんだろう?」
「あ…」
ようやく察した子釉が苦虫を噛み潰したような顔になるのを見て、彼はふっと口角を上げると、至って真面目な表情を作った。
「大理寺正の宴での演奏は、宮廷の楽士にも引けを取らないものだった。彼女の二胡をとあるお方に一度、お聞かせしたい。いいだろう?」
「―」
本当にもう、この人は…。
当の本人を目の前にして、いけしゃあしゃあとのたまう彼に子釉はあ然とするしかない。
避けていた事への仕打ちか。
従兄妹だと言いはったのは確かに自分だが、それを逆手に取って女の姿を見せろと言うなんて、どれだけ人をからかえば気が済むのか。
腹立たしそうな顔で唇を結んだ子釉を、彼は愉しげに眺めては美しい顔で微笑みながら追い詰めていく。
「そなたの従兄妹だと、本人が言っていた。―大変美しい娘、だったぞ?」
「あぁ…。従兄妹…、ですね…」
意地が悪いにも程がある。
こんな気まぐれに付き合わされる羽目になるとは。これも甘やかされたお坊ちゃま故のお戯れか。子釉は蹴り飛ばしたい気持ちをぐっと抑え、唇を噛みしめる。
「頼まれてもらおうか」
余裕の笑みを見せつけて、高策は駄目押しをする。
「…わかり、ました…」
分かっていて言う台詞。言い返せない子釉は頬を紅く染め、小さく頷いた。
まさか娘姿で宮廷に足を運ぶ日が来るとは―。
天井を見上げ、子釉はため息をついた。
着慣れない女子の装束。誰が見てる訳ではないけれど、やはり気恥ずかしくて落ち着かない。
「なんでこうなるのかなぁ…」
ひとり残された部屋で、椅子にもたれ天井を眺めながら、子釉はぼやく。
「馬子にも衣装…でもないな」
そう呟いて自身に視線を落とすと、香油を塗り込まれた胸元が過度に存在を主張してきた。いたたまれない気持ちになり、手のひらを重ねて視界から抹消する。すると余計に甘い香りが立ち上がって、どんよりとした気分が身体を覆い尽くした。
「…」
パタン、と力なく座面に横たわる。
流行りの淡い色を重ねた絹の袖が空気を含んで、柔らかく揺れた。年頃の娘の肌にによく映えるのは、見立てた者の趣味の良さだろう。
「早く終わってくれないかなぁ…」
豪華な調度が誂えられた広い部屋ですることも無く、ただ迎えが来るのを待つ。
こうなったのも、遡ること二刻ほど前―。
初めて足を踏み入れた高級住宅街の一角で、子釉はある屋敷の門を見上げ、呆然と立ちつくしていた。
「えっと、何処の権力者の、お住まいでしょうか…」
葛白に指定されてやって来た先は、葛家よりも更に立派な文字通りの豪邸だった。
挙動不審になりそうなのを必死に抑えながら、門衛に言伝てを頼むと、暫くして年配の侍女が奥から出て来た。
「まぁまぁ、あなた様でしたか。ようこそいらっしゃいました。さぁ、どうぞ」
厳しそうな相貌に満面の笑顔を見せ、彼女は子釉を屋敷の奥へ案内した。
部屋に通され、出された香り高い茶で一服していると、侍女らの手によって、見るからに上質な衣が盆にのせられ運ばれてきた。
「失礼致しますよ」
先の侍女が子釉の横に立った。他の侍女たちを手招きし、差し出された盆から衣を受け取る。
彼女はここの筆頭侍女らしい。慣れた手つきで衣を上から順に子釉の肩に掛け、眺めてはうんうんと頷く。
「この濃い朱色もお似合いですね…」
「でも、流行りの黄色も捨て難い…」
色合わせを考えているのか。十枚以上用意された衣を何度も肩に掛けては見比べる。
「釉様はお好みの色はございます?」
「いえ、特に着るものにこだわりは無く…」
怠そうな顔を隠せず、子釉は苦笑いをする。
「まぁ、なんということ」
彼女は眉を上げ、咎めるような口ぶりで言う。
「折角抜けるような白肌をお持ちなのに―。この様な野暮な堅い衣なんぞお召しにならず、もっと装う事を愉しむべきです。良きものは使わないと勿体無いですわ」
「いや…。そういうのは、あまり性に合わないので…」
お世辞は有難く受け取っておくべきと分かっているが、如何せん不本意すぎる。着飾って生きる道など無い身には、華美は滑稽でしかない。それに普段は男子なのだから必要ないなんて、彼女に言えるはずもないが。
「何をおっしゃいますか。今が一番、艶のあるお年頃。これを使わない手はございませんよ」
「そういうの、ちょっと苦手で…」
「花は愛でられるからこそ美しく開くのですよ。坊ちゃまからも、努々申し付けられております。今日は徹底的に飾らせて頂きますから、お覚悟下さいな」
「は、はぁ…」
有無を言わせぬ迫力に、子釉の逆らう余地もない。
この年配の侍女は白鈴と言うらしい。彼女は衣を決めると、てきぱきと他の侍女に指示を出していく。
続いて湯殿に通された。あっさりと帯を抜かれ、当然の如く丸裸にされる。流石に子釉も抵抗するが、お構いなしに粛々と作業は進められていく。
湯浴みから始まり、髪から爪先まで丁寧に洗われる。湯から出ると、上気した身体を香油で隅々まで磨き込まれた。前後二人がかりで丁寧に全身の水分を拭うと、浴衣を着せられる。
「では、次に参りましょ」
白鈴の合図により、外に控えていた他の侍女たちが子釉を一斉に取り囲んだ。
「な、何事です…」
「我々の、腕の見せ所ですよ」。
白粉をはたかれ、目尻に朱色の線がはしる。唇には花びらのような紅がのせられる。
微笑む白鈴に、もう子釉はされるがまま。
髪は頭頂で2つの輪に結われ、簪が次々に刺されていく。
最後に額に紅で花鈿をいれると、あっという間に嫋やかな娘が出来上がった。
「ほら、ご覧下さいまし」
差し出された丸鏡に視線を落とすと、愁い顔の娘がこちらを見ていた。
満開の牡丹と羽根の飾り。鼈甲の簪が揺れ、これでもかと輝きを放っている。
「すごいですね…」
華美な存在感が、ずんと子釉にのしかかる。
頭が重い。
首が痛い。
やられ放題に、子釉は遠い目になる。
「―なかなか世の寵妃に優るとも劣りませんよ。坊っちゃまもよい素材をご用意なさること」
このベテラン侍女はとっても楽しそうだ。
「では、お着物に参りますか」
そういって浴衣を落とし、用意された下着を腰に巻く。途中、白鈴は背中の刀傷をちらっと見たが、何事も無かったように衣を重ねた。
牡丹の花弁を重ねた様な薄紅色から桃色の重ねに萌木色の羽衣を流す。
胸元は大きく開き、谷間が強調される。腰帯の位置も高く、柔らかい曲線が描く姿はまさに麗しい良家の子女そのものだ。
白鈴は出来上がった女装姿を見て
「まぁ、蓮の精ね」
と言って、ふふふと笑った。
皇城までは用意された馬車で向かった。
皇城の中書外省に通され、そこから役人に付き添われ宮城に入る。付き添いの文官は初めて見る顔だった。
承天門から先は基本、五品以上の官僚と許可された者しか入ることが出来無い。先導の文官が門衛との問答を済ませると、子釉に目配した。彼に従い門を通り抜けると石畳が広がる前庭に出た。正面には天子の執務の場である太極殿がそびえ立つ。更に石畳を進み、太極殿へと続く長い石段を横目に左に曲がると、中書省と額が掲げられた殿舎が現れた。
「こちらに」
先程の文官が先導し、奥へと進む。
回廊から槐の揺れる庭に視線を向ける。なんとも優美な庭。内庭とは趣が異なるが、大層手が込んでいる。たったそれだけでも、ここが皇城のその他の官庁とは別格であることが察せられた。
先導する文官にすれ違う官吏が頭を下げて通りすぎる。手にした団扇を口元に寄せ、子釉も同じように頭を下げる。
「こちらのお部屋でごさいます」
回廊を奥まで進んだ角の部屋の前で足を止め、彼はこちらに振り返った。
「はい」
子釉が頷くと彼は袖の下に持っていた鈴を鳴らして両手で格子の扉を開き、中に向かって深々と頭を下げた。
「お呼びのもの、お連れいたしました」
そう告げると案内役の文官は子釉に奥に進むよう手で合図した。子釉も一礼し、戸の奥に歩を進めると後で戸が閉まる音がした。
一人残され、周囲を伺うと部屋の中は人払いがされているらしく、気配もなく静かだった。依頼主はどこかと見渡すと、部屋の奥に椅子にもたれて窓を眺める貴人の後ろ姿があった。
「お待たせいたしました」
近くまで歩を進め、また一礼をする。視界に入った自分の華美な衣が眩しくて、恥ずかしさに顔を団扇で隠した。
「…」
相手は無言だった。違和感に顔を上げ、袖から相手の様子を伺ったところで、子釉は気づいた。
その椅子に座っているのは、見知った貴人ではなかった。
「あ…」
子釉がこぼした声に、視線の先の人物がゆっくりと振り返った。
鋭い眼光。鷹に睨まれた獲物のように、子釉は思わず身を強ばらせる。
朱色の官服を身に纏った壮年の男性は、椅子からゆっくり立ち上がると子釉に視線を向けてふっと口元を緩めた。
「待っておったぞ、蓮の花よ―」
低く響く声。想定外の事態に黙ったまま棒のように突っ立つ子釉の前に、彼は悠然と立ちはだかる。
「…」
無言のまま見下され、思わずごくりと唾を飲む。
有無を言わせぬ、圧倒的な存在感。
高策とはまた違う、他者に何かを感じさせる圧力。
だが、それだけではない―。
威圧感があるのに、何故だろう。
琥珀色の瞳は映るものを吸い込んでしまいそうに澄んでいて、でもどこか懐かしささえ感じさせる。
思わず見入ってしまい、お互いを見つめたまま時が二人の間を流れた。
暫しの沈黙の後、御仁が口を開いた。
「そなたは母親似か?」
「その様に、聞いております」
「聞いている?」
「私が生まれて直ぐに亡くなったので、顔を知らずに育ちました」
「…そうか、難儀だったな」
そう言って、御仁は長椅子に腰を下ろした。
「二胡を、聞かせてくれ」
指差す先に螺鈿で模様が描かれた豪華な二胡が置かれている。
「畏まりました」
言われた通りに二胡を持ち、膝に立てる。
音合わせの弦を弾く。
「―」
自分が鳴らした音に子釉はほぅっ、と感嘆の息をこぼした。
何と良い音だろうか。
こんなに音が伸びてゆく器は初めてだ。これこそ名器と呼ぶべき一品なのだろう。初めて触れた子釉でも一瞬にして虜になる程のものだった。
さすが宮廷ー。
稀なる機会に高鳴る気持ちを抑え、音合わせを済まし、姿勢を正し、相手に向く。
「ご所望の曲は、ございますか?」
委せる、と返答がきた。
「では」
頷くと弦を押さえ、弓を引いた。
艶のある伸びやかな音が部屋に響く。豊かな音色に子釉は弾きながらうっとりと耳を傾ける。
きっと彼は高策の上長なのだろう。
二胡を弾かせるためにこの場を用意したのだと、一人合点した。
子釉が選んだ曲は貴人たちと初めて出会った時に弾いたものだった。
その時はまさか自分が、彼らとこんなに深く関わるなんて、予想もしていなかった。濃密なこの3ヶ月を思い出しながら、響く音に身を任せるようにして弓をゆらし続けた。
高揚している自分に気がついたのは、曲を弾き終わってからだった。
ゆっくりと御仁が顔をあげると、目尻を下げた。
「その二胡は褒だ。収めよ」
「賜ります」
子釉は立ち上がり、慇懃に礼をする。
「良い」
そう言うと紅い官服の御仁は席を立ち、足早に部屋を出ていった。
いつの間にか部屋の前に控えていたらしい数名の侍従が衣擦れの音も細やかに、従い去ていく音が聞こえた。
「終わったぁ…」
一人部屋に残された子釉は気の抜けたように椅子の背にもたれかかった。
「はぁ…」
無事、役目を果たしたはず。安堵のため息をこぼし、子釉は貰ってしまった二胡を眺める。
高価なことが人目でわかるそれには、美しい蓮の花が描かれていた。
それから半刻過ぎ。
高策は急ぎ足で部屋に戻ってきた。
部屋を見回すと待ちくたびれた子釉が長椅子で寝落ちしていた。その横にはいかにも上等な二胡があった。
高策はそれを手に取り、全体を隈なく確認する。
弦を張る柄の裏にそれはあった。
送り主を意味する龍を模した金の刻印。ふっ、と高策は笑うと、寝息を立てる蓮の花に自分の上衣をそっと掛けてやった。
<二>
明月 清風を払う。
清風 明月を払う。
良い夜だ。
喉に酒が心地よく流れていく。
向かいに座す弟が飄々とした風情で月を見上げ、風に鬢を揺らしている。
「知っていたのか?」
朝宜の後、官服に着替えて蓮の花に会いに行った。
弟の唯一の我儘は、父の其れを彷彿させた。
現れた小さな薄紅色の花に、我は初恋の人の面影を見た。
「何のことでしょう?」
「当て付けかと思ったぞ」
冗談半分、あとの残りは知らない。
「なんと?」
意外そうに見つめる。
その表情は何年経っても変わらない、可愛らしいものだ。その見た目と異なり、彼の心はまだ幼さを留めている事を、知る人間は少ない。
息子と変わらない齢の弟は自分が唯一、心を許せる人間だ。
帝位について三年。
弟を臣下に列したのは父の意向だった。
当人が望まなくとも、周りの思惑が争いを生む事を知っていた父は仲の良い兄弟の行く末を憂い、それを回避しようとした。
それでも自分には、彼が必要だった。
嫌がる彼に二つの肩書を持たせ、宮廷の荒波に放り込んだ。父に似て聡明な彼は、人の倍量にも拘らず当意即妙に動き、宮廷内でその土台を築きあげた。今では中書省の貴人、といえば高官の間で知らぬ者はいない。
この三年で政に携わる人間として、何の支障もない程に成長した。自分の手足となり、混沌とした宮廷でその衣を翻し、人知れず東奔西走している。
あと少しで次の階段に進む事を、弟は望んではいない。そんな事分かっているが、譲るつもりはない。それが我儘と罵られようとも貫くつもりだ。
我に逆らう者など、最早この宮中には存在しない。この三年ありとあらゆる手段を講じて、体制強化を計った。もちろん血を流す事も厭わなかった。その点では随分と子家に借りを作ったものだが。
権力という蜜に人は弱い。宮廷内の権力闘争が終わりを見る事など無い。玉座から見下ろす百官の面従腹背に辟易するのも、一生続くことだろう。
龍袍の、なんと重い事か。
それでもこの重さを背負って、我は生きていく。天地の中心を統べる者として、光り続けるのが我が生だ。
同じ道を、弟に歩ませようとしている。
父も彼も、望んでいないことなど、わかっているけれど。
…せめてもの、償いなのかもしれない。
無垢な花をひたすらに願う弟に、その我儘を許した。
色恋に疎い弟には、兄の複雑な心境はわからんだろうが。
「我らみな、求める者は同じなのだなー」
弟は知らないだろう。
父が、初めて愛を知った人のことを。
兄が、初めて恋を知った人のことを。
美しくも爽然とした花が散った日に、二人が一晩中涙したことを。
その花が遺した蕾は時を経て、この宮廷に咲き誇ろうとしていた。
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