十二話 後悔
<一>
翌週は忙しかった。
昼餉もろくに食べられず、官舎に帰ると爆睡する日が続いた。
そのせいか、普段なら耳にするのが早い噂話も、いつもより遅かった。
三日に一度訪れる刑部で、久々に会った顔馴染みの武官から聞いた話が子釉に与えた打撃は計り知れない。
「宮女がひとり、自殺したってよ」
「そうなんですか…。不幸が続きますね…」
「流石にここは、打ち止めだろうけどなぁ」
「そうですか。なら、まぁ、良いですよね」
そう前向きな表現で答えた子釉に
「口止め、されてるんだけどさ」
と前置きをして、男は小声で耳打ちする。
「…よその宮女を魘魅で殺したらしいよ。その女の部屋に色々、残ってたって」
「鬼やら呪術やら、宮廷は色々ありますよね」
「もしかしたら、それが原因だったのかなぁ、あの鬼って。今回は証拠があったから、揉み消せなかったみたいだけど」
「もう、宮女の醜聞はお腹いっぱいですよ」
まだ二か月しか経っていないのに、うんざりといった表情で子釉は言う。
「だよな。その宮女の仕えてた妃も出家だってさ。そりゃ、いられないよな」
「…妃って、どこのです?」
聞き返しながら、子釉は奥歯が震えるのを感じていた。
「承恩殿の妃だって」
「そんな筈無いでしょう‼」
机を叩き、子釉は叫んだ。
殴り込みのごとく秘書省に駆け込むと、人目もはばからず高策に食って掛かった。
あの侍女、珠蘭が遺書を残し、自殺したと聞いたのはつい先程のことだった。
哀れな姫を守るため、あの女は人を手に掛けた。
妃を守ると頷いた目は狂人の物ではなかった。あの女の覚悟だった。
なのに、だ。
「あの女が自ら死を選ぶ筈がありません!」
子釉の言葉に、高策は目を伏せる。
「この件は、もう終わりだ」
眉をひそめ、溜め息交じりに言う。
「どうしてですかっ!」
「これ以上、どうしようもない」
「何故ですか!」
いくら特段の扱いを受けているとは言え、宮廷では上官に背く事などあってはならない。
だが、ここで引き下がる訳にはいかない。
子釉はあの女の覚悟に掛けようと思った。
他の妃が皇子を産んでくれるのを、待とうと思った。
悲恋を屠るには、それしかないと。
もう、無駄な死を重ねない為に。
それなのに。
「あの女が自殺なんて、する訳がないんです!」
「―」
「高様!」
「…もう、諦めてくれ」
「それでいいのですかっ!」
握り締めた拳を振り上げそうになるのを、子釉は必死で堪えていた。
高策は椅子から立ち上がると、子釉に背を向けた。
「宮廷内が乱れることを、我々がする訳にはいかない」
その一言は子釉を一瞬で沈めるに、十分過ぎるものだった。
「分かりました…」
奥歯を噛み締め、子釉は言葉を絞り出す。
「それが高策様の答え、なんですね」
高策は無言だった。
「—見損ないました」
吐き捨てるように言うと大きな足音を立て、子釉は部屋を出ていった。
どんっ、と叩きつける音が柱を震わせた。
拳を握りしめたまま柱にもたれ掛かり、高策は天を仰いだ。
「高策様」
ずっと黙って二人のやり取りを見ていた葛白が、漸く口を開いた。
「貴方は、間違っておりませんから」
「あぁ…」
高策も事実は異なることなど、百も承知だ。
だが、醜聞を白日の下に晒すことなど出来ない。
主上には、全てを伝えて自殺として片付ける事とした。
政に携わる人間には、正義よりも守るべきものがある。
今回の犠牲はやむを得ない。
頭では理解している。
悔しい—。
黒幕が誰か、見当はついていた。だが、自分では手が出せない相手を前に、徒に騒ぎたてることは出来ない。
「我の力では、どうにも出来ないのだ—」
「良いのです」
葛白は二人の気持ちを、誰よりも理解している。
そして、他に手段が無い現実も。
これ以上、どうにもできなかった。
諦めるしかない。
純心なままで生きていけるほど、この宮廷は甘くない。
「政の前では人の命など、軽いものです」
「あぁ…」
そう呟くと高策は靴を脱ぎ捨て、長椅子にどさっと寝転がった。
わかっている。
正義を叫んでも、ここでは何の意味も持たない。
力が全てだ。その力をより多く得ようと、何千人が命懸けで争うのが宮廷だ。
—一体、何のために。
時折、自分のしている事が無意味に思えてくる。
高策は自分の右手を見た。
叩きつけた拳は爪が割れ、紅くにじんでいた。
「虚しいな」
それでも、逃げることなど出来やしない。
「我は、ここで生きていくしか、ないのだな」
葛白は何も言わず、窓の外の空に目を向けた。
いつも通り、天はこの地の上に広がっている。
何があろうと変わらない姿で、ただそこにあり続ける。
その下で命ある限り、足掻き藻掻くのが、人という生き物だ。
好きなように、踊り遊べば良い。
青史の中で人の命など、水面に漂う泡沫でしかない。
滝から注ぎ、岩に打たれ散る飛沫のように、踊り、舞い、散ってゆく。
それでいい、と葛白は思っている。
瞬きのような命ならば、それを使い果たすのみ。
この宮廷で、主を護る為に戦い続ける。それが唯ひとつの、果たすべき役務。
「我々は皆、この修羅の庭で、踊り狂う運命なのですから」
子釉が出ていった扉に目線を移す。
「あの者も、分かっているはずです」
大常寺に戻った子釉だったが、暴れる感情を未だ押さえられずにいた。
顔面蒼白、鬼気迫る姿に、誰もが声をかけるのを躊躇する程だった。
暫く大人しく仕事をしていたが、突如として強烈な眩暈に襲われ、子釉は厠に走ると嘔吐した。
普段、健康そのものの人間が見せた醜態に、周囲も動揺したのだろう。誰が呼んだか、上官の徐長がやって来た。
顔は青白いが目が血走る子釉に、彼は迷うこと無く暇を出した。
「そんな姿では、医局で仕事をさせられないよ」
「…申し訳、ありません」
怒りが収まらない子釉の全身は、ずっと強張ったままだった。
徐長は察しがいい。時に過ぎる程に。
「宮廷で生きる以上、全て飲み込みなさい。それが出来ないなら、もう帰りなさい」
「…はい」
厳しいが適切な指導だった。
子釉は頭を下げ、大人しく引き下がった。
片付けを済ますと上衣を投げ打ち、太常寺を後にした。
このまま官舎に戻る気もしなかった。
行くべき場所は、ひとつしか思いつかない。
この汚濁のような気分から逃れる術を、求めに行く場所。
皇城を出るとその足を青柳楼に向けた。
「そう、か…」
徐長からの文に目を通すと、高策は顔を曇らせた。
子釉の怒りが何処から来るのか、理解していなかった。
自分の愚鈍さに驚くと共に、してしまった間違いに気づき、臍を嚙んだ。
「諦めてくれ」
彼の者に、言ってはいけない言葉だった。
子釉を自分の指揮下に入れると決めた時に、予め徐との間で情報共有を条件とした約定を結んでいた。
高策の持つ案件は突発的かつ、緊急度の高いものが多い。
子釉を必要に応じて直ちに招くには、上官である徐長の協力が不可欠だった。
彼とは既知の仲であり、日頃から支援を得ていたが、話を切り出すと徐長は渋った。
携わる事案は宮廷の表には出せないものが殆どだ。
裏を返せば、知ってはいけない世界に触れる事と同義だ。その身が危険に晒される事態に遭遇する事も、想定の範囲内だ。
それ故に高策本人を初め、関わる人物は皆、相当な手練れである。
葛白でさえ外見からは想像のつかない程、武術に長けていた。子釉を引き入れたのも、子家という出自だけでなく、特筆すべき運動神経の良さを目の当たりにした結果でもある。
かといって、手傷を負わないで済む保証はどこにもない。
まだ髪を上げる前の子供をその任に充てること、徐長としては避けたいと思うのは当然だろう。
しかも、あの若さで医学を及第する者だ。上役としても、子釉は手放したくない部下の一人だろう。
本当は自分が使うことも、本意でない事は理解している。
徐長は人物を良く観る。それ故、自分のような若造に彼の者は勿体ない、とでも思っているのだろう。
その徐長から来た文は報告というより、遠回しに高策を責めるものだった。
散々釘を刺した彼の、言いたいことはひとつだ。
「その揚げ句、この様か」、と。
少なくとも、今回の一件に巻き込んだのは自分だ。
どんなに失望されようと、責任は全て自分にある。
それなのに、彼の者の怒りがその裡から産み出されているのであるなら、それは間違っている。
話がしたい。
言い訳をしたいのではない。ただ、謝りたかった。
部屋の入り口に控える侍従を呼び、指示を出す。
「太常寺の者を追え。我も後から行く」
青柳楼。
金光門街から西市に向かう、ちょうど中間の位置に一大歓楽街がある。その一角にある殊更派手な楼閣がそれだった。
子釉は青柳楼の門をくぐった。
父の仕事の得意先のひとつが、この妓楼だった。幼い頃から父について客先を回っていた子釉はここで、ひとりの妓女と出会った。
楊凌と呼ばれる彼女は父に代わって薬を届けに来た子釉を一目見て、部屋に招き入れた。
二人は初めて会った日から、すぐに打ち解けた。それからというもの、仕事以外でも、暇を見つけては通う様になった。
二胡を教えてくれたのも、舞踏を教えてくれたのも楊凌だった。
様々な人種が訪れる楼の人間模様を話聞かせ、世知辛い現実を上手く立ち回る知恵を授けたのも、紛れもなく楊凌だ。
母のいない子釉にとって、唯一の、心を開ける同性が彼女だった。
五つほど年上のその人は、子釉と同じ瞳をしていた。
夜を基準とする妓楼の一日は昼過ぎから始まる。
日はまだ中天前だった。
裏に回り、階段を上る。楼閣の最上階の端が彼女の部屋だった。
「起きてる?小姐(ねえさん)」
部屋の前で声をかける。
かたかたと錠を外す音がすると、扉が開いた。
「入り、小清(清ちゃん)」
気だるい声と共に、甘く湿った香りが戸の隙間から流れ出た。
部屋の中に入るとそれは更に濃さを増す。
西の国の香か、乳香か、それともこの蝶から匂い立つものなのか。わからない。
その香りを鼻から吸い込み、ゆっくり吐き出す。繰り返すと自然と気持ちが落ち着く。
妖艶な空気だが、ここに来ると素の自分を出せる気がしていた。
「甘えてばかりで、ごめんね…」
小清と呼ばれた子は楊凌に抱きついた。
楊凌はいつもと同じ様に、その頭を撫でる。
「ええよ、苦しいんだろ」
「うん…」
この人にしか、言えなかった。
「行くか、大青寺に?」
「うん…」
大青寺に行くようになったのは、楊蝶がそこの僧の講義を受けたのがきっかけだった。会わせたい人がいる、と紹介してもらってから通っている寺だった。
「服を用意する、待ってな」
そう言うと、禿を呼び出し耳打ちした。
暫くすると、禿が衣を持って戻ってきた。
白地に灰色の模様、黒の囲いに銀の刺繍が入った上衣下裳、女物の衣だった。
「これでどうだ?」
「さすが小姐―。色は着たくなかったんだ」
笑顔を見せたかったが、いつものように上手くは出来なかった。
「無理はいい」
楊凌はいつも彼女が言葉にできない感情を、何も聞かずに掬いあげてくれた。
初めて出会った時からそうだった。都で一二を争う伎女と街の子供の、不思議な縁だった。
「帰りに寄るね」
着替えて礼を言い、青柳楼の門を出た。
先に行かせた者から知らせを受けた高策は、青柳楼から出てきた背格好の似た女が、子釉本人だと、直感的に合点した。
時々、違和感を覚えることがあった。
見つめたその瞳に、誰かの面影を見たのは確かだったが、それ以上に惹かれるものがあった。
もしやと感じた事なかった訳でない。
言動と行動は子家の男子そのものだが、その姿に思わず視線が留まる事が何度もあった。
桃の花の下、頬を同じ色に染めて微笑んだ顔。
その姿に、胸の裡に生々しい衝動が走ったのを、無理やり喉に押し戻した。
突発的な感情を、悟られたくもなかった。
―では何故、あの時、あの髪に花をかざしたのだろうか。
無意識のうちに、手を伸ばしていた。
「美しい」
目の前の姿に、言葉は自然と口からこぼれていた。
風に髪をなびかせる横顔や、細い手首から延びる白い指。柔らかな線を引いたような唇。
華奢な体に濡れたような睫毛と、抱えた時にほのかに漂った、甘い香り。
ふとした瞬間に、自分の裡に熱く滾る衝動が駆け巡った。
それは未熟で、そして凶暴だった。
―やはり、そうだったか—。
何故だか安堵している自分に、高策は可笑しくなった。
名前も姿も偽り、宮廷に現れた小さな者。
だが今は、それを問い詰める事をしようとは、不思議と思わない。
―我にもまだ、言えない事がある。
あれが官舎に戻る前に、外で待ち伏せして捕まえればいい。もちろん、いつもの男装に着替えた後に、だ。
青柳楼から出たら押さえよと伝えて、高策はまた仕事に戻った。
<二>
久々に、大青寺の門をくぐる。
門で名を伝えると御堂に通された。
いつものように、まるで時が止まったかのような空気を纏った僧が如来像に向かって座を組んでいた。
敷居を跨ぐと、気配を察したのだろう。直ぐに身体を反転させてこちらに向きなおった。
「お邪魔致しました。外を歩いてまいります」
頭を下げた。
褐色の肌をしたその人は、立ち上がり穏やかな声で言った。
「お伴いたしましょう」
この僧の名は鳳明という。西域の国から経典と共に十の国にやって来て、紆余曲折を経て今はこの寺に居している。
「よろしいのですか」
彼はこの都でも指折りの高僧だった。
麒麟殿で官吏に講義をしているとも聞く。単なる一個人が突然訪ねて時間を貰うなど、烏滸がましいと思った。
「貴方のお顔を見たら、お話しせずにはいられませんよ」
全てを察しての、この慈悲だった。
二人並んで、庭を歩く。
いつもと同じ様に、裏の小高い丘に出る。そこに一本だけ立っている梨の木の下で、腰を下ろして手を合わせる。
ここから眺める都の景色は壮大で、美しい。
でも、それを真っさらな気持ちで見られない自分に気づき、黒々とした感情が喉元まで上がってきた。
飲み込もうと唇を噛み締めると、握りしめた拳が小刻みに震えた。
隣に立ちその様子を見ていた鳳明はそっと眉を寄せた。
理不尽に対する、また自分に対する、強い怒り。
子釉の中に渦巻く激しい感情、後悔と怒りを、彼は見ていた。
小さい身体はまた、その裡に大きな闇を飼っていた。
—これを逃がしてやらんとなぁ…。
高僧は心の糸を解くように、裡に蠢く感情をひとつずつ掬い上げ、正体を失くして彷徨うそれに名を与える。
「出せないのですね、裡のものを」
苦しみは向かい合わない限り、無くならない。
対峙して、漸く相手の大きさを知る。そこから始めなければいけない。
「悔やんでいる、のですか」
鳳明の言葉に、子釉の顔が歪んだ。
そう、後悔だ。
自分のした事は、結局誰ひとり、幸せにしなかった。
珠蘭はもう、いない。
「もう、取り戻せないのです…」
その先は言葉に成らなかった。
うわぁぁん、と声を上げ、大粒の涙を流し、子釉はその場で泣きじゃくった。
鳳明は子釉の手をとり、頭を撫でた。
「お泣きなさい」
不器用なこの娘は、怒りも悲しみも苦しみも、自分の裡に溜め込む。
育った環境がそうさせたのだろうか。
―気の毒に…
震えながら泣く背を撫でながら、鳳明はその内側にある深い混沌を見つめていた。
鳳明は言葉の世界に生きる者だ。
言葉が混沌に名前を与え、世界を作り出す。
名を与えられたものだけが言葉の光を呼び集め、その明かりの元に自らの輪郭を浮き上がらせる。
名無きものは自分の正体を掴めずに、音の無い暗い沼底を久遠に漂う。それがどんなに辛い事なのか、知る者は少ない。
悩みもがく者だけが、奥に眠る精神の深淵に触れることができる。
感情も名前を与えられ、初めてそれを知る事ができる。それを手に取り見つめることは、自分自身を見つめること。
ただ、自分を知る事は、時に大きな痛みを伴う。
「気が済むまで、お泣きなさい」
震える手を握り、鳳明は言う。
「貴方なら、越えられるはずだから」
—そしてまた、顔を上げ、進むのです。
この先も、きっとこの子は何度も転ぶだろう。
それでも尚、立ち上がり天に手を伸ばす。
泥の奥深くから茎を伸ばし、空に向かい清らかな花弁を開く御仏の花のように。
いつでも門を開こう。
そなたのゆく道をだれもが皆、見守っている。
我もその背を、ずっと見ていたいから。
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