三話 麗しい人
<一>
一月も終わりに近づいたある晴れた日の、夕暮れ前。
手が空いた子釉は二胡を抱え、宮城の北側に広がる禁苑の、とある庭園に来ていた。
禁苑には四季を堪能するための庭が幾つもある。季節ごとの花を愛でる庭や、船を浮かべて涼を楽しむ池の庭など、趣向を凝らした庭園が宮城を取り囲む様に点在している。
その中でも子釉が足繁く通うのは花咲き乱れる華美な庭ではなく、自然をそのまま移したような長閑な庭だ。場所柄あまり人が来ないので、密かに薬草を植えて植生の観察をしている。土のせいか珍しい色の花が咲くこの庭が、子釉の宮廷生活唯一の息抜きの場所だった。
その庭の一番奥に、幹の太い大きな槐がある。空に無数の葉を広げ、柔らかな木陰を作る木だ。この木の上から眺める景色が、子釉のお気に入りだった。
四方に伸びる枝を伝って登り、樹高のちょうど中間にある枝に腰掛ける。葉と葉の間から南の空を望むと、皇城の殿舎の屋根が連なる先に育った街が霞の中に浮ぶ。更にその奥には、深い森を抱く紺碧の山々が悠々と大地に手を広げている。その泰然とした景色を眺めているだけで、胸につかえていた色々なものがふっと軽くなる気がする。
しばしの間、子釉は遠く広がる雄大な景色に心を遊ばせる。やがてゆっくり息を吐くと、膝に二胡を乗せ、弓を取った。
奏でるのは妓楼の親しい小姐から教わった、西域の曲。過ぎ去った人の幸せを願うというその曲は、仕事で少しくたびれた心を優しく包んでくれる。
気持ちの良い風を受けながら、子釉は鼻歌交じりに弾き続けた。
「―尊貴の木で奏でる者よ」
「…えっ⁉」
突然響いた自分を呼ぶ声に、慌てて後方を顧みた子釉は重心(バランス)を失った。元々枝をまたぎ片足を組んで座っていたせいで不安定な体勢だった。よろめき落ちそうになり、咄嗟に枝を掴む。どうにか踏ん張り事なきを得たが、手から二胡が滑り落ちた。
「あっ―」
―二胡ぉっ!
子釉はのけ反り、二胡に手を伸ばす。急激に載った体重で枝がざざっと上下に大きくしなる。
―危なかったぁ…。
伸ばした右手は、辛うじて糸巻を掴んでいた。
「大丈夫ですか?」
声の方向を見ると、そこには背の高い見目麗しい貴人と、その従者らしき人が立っている。衣の色から察するに、かなりの高官だ。
「は…い…。どうにか…」
枝を足で挟み、逆さまにぶら下がったままの体勢で答える。だいぶ気まずい。
「すみません、驚かせましたね」
後ろに立っていた男が前に出て、子釉に語りかけた。なんだか見覚えのある顔だ。
「いえ…」
「まずは降りては、どうです?」
「あの…」
言葉を詰まらせた子釉を見て、この体勢では下りられない事を察したらしく、彼は両手を伸ばした。二胡を掴んだ手を離し、向けられた手に託す。そして自分は枝に両足を揃えて勢いをつけると、前方に一回転して飛び降りた。着地したまま地に膝をつけ、礼を組む。
「礼を解いてくれ。今は仕事ではない」
言葉にゆっくりと顔を上げ、低いが滑らかに響く声の方を見ると、美しくも他を寄せ付けない空気をはらんだ姿があった。緋色の官服を纏ったその人のあまりの麗しさに、子釉も咄嗟に言葉が出せず、その顔をただじっと見つめた。
周りの空気も一瞬のうちに緊張させる、凛とした佇まい。今まで見たことのない品格のある威厳を纏っていた。
「御前とは気付かず、大変失礼いたしました…」
緊張のあまり、冷たいものが背筋を流れる。
「構わぬよ」
そう言う表情は硬く、抑揚のない声は淡々としている。
「はい…」
言葉とは裏腹に、不機嫌にも見える貴人の表情に子釉は戸惑い、硬直する。
だが、次に発せられた一言は意外なものだった。
「そなたの二胡を、もう一曲聴かせてもらえぬか?」
声色も変わらず、ゆったりとした調子(トーン)で、貴人は言う。
木に登っていた事を叱責されるものと怯えていた子釉は「ふぅっ」と安堵の溜息を漏らした。
顔を上げて、にこりと笑顔で答える。
「私の音でよければ、喜んでお聞かせ致しましょう」
「では、こちらへどうぞ」
二胡を持った従者が柔らかい表情を見せて、子釉の背に手を添える。
無表情の貴人とは対照的な感じの良さに、子釉も「はい」と、笑顔で返す。
にこやかに先導する彼の背を見て、子釉は思い出した。確か彼は尚書省の都省(としょう)のお偉いさんだ。
見目麗しい二人の若者に挟まれやって来た場所は、先程の槐の木から見えていた四阿(あずまや)だった。
どうやら二人はここで話をしていたらしく、卓子にはいくつか巻子が置かれていた。子釉は示された椅子に座る。円卓をはさみ、二人も腰を下ろした。
足を組み、二胡をその上におろす。依頼主に視線を向け、お伺いを立てる。
「何か、ご所望の曲はございますか?」
「そなたの好きなもので構わんよ」
相変わらず声は低く、淡々とした印象を聞き手に与えるが、その表情は幾分和らいだ様にも見える。
「では…」
―自分の好きな曲にしよう。
右手に持った弓を引き、弦を振るわす。十の国よりも遥か西にある、波(は)の国の恋の歌を奏でる。
音は風にのり丘を駆け、都を望む緑の空に溶け込んでいく。
何処までも続く砂漠に想いを馳せ、歌われただろうこの曲。子釉が未だ知らない恋という感情に、曲を奏でながら思いを馳せた。
この曲を教えてくれたのは妓楼の楊凌小姐(ねえさん)だ。彼女は子釉の数少ない理解者だった。
ある雪の日、掌を冷たくして訪ねてきた子釉に、彼女はこの曲を歌って聞かせた。それは胸の奥に密かに抱く、もう会えない者への想いを歌う曲だった。
四阿の横に流れる水路に、滔々と水が流れていく。
柔らかい風が四阿にそよいで、泰然とした時が三人を包んでいた。
「よい曲だな」
「ご満足頂ければ幸いです」
弾き終えた子釉は貴人の言葉に素直に微笑んだ。
先ほどの緊張が嘘のように、今は穏やかな気持ちだった。
「そなたの音を聴いていると、風に吹かれているような心地になる…」
貴人は宮廷の屋根を遠くに眺めながら、静かに呟く。
「よい音ですね」
向かい側に座る尚書省の彼も、菩薩のような笑顔で頷いた。
「ありがとうございます」
世辞とわかってはいるが、麗しい二人組に褒められ、子釉はついにやけてしまう。
―結構、面食いなんだ、我も。
照れていることを悟られたくなくて、手で頬の緩みを正すように押さえる。
「楽しい一刻であった。また聴かせておくれ」
「では、また…」
そういって貴人たちは立ち上がると、四阿を去っていった。
子釉は二人の背が見えなくなった後も、そこに座ったまま余韻に浸っていた。
「あの者に菓子でも渡してくれ」
長く高策に着き従う葛白は、そう言う主の意を酌んで頷いた。
―身元を確認せよ、葛白はそう受け取った。
「珍しい―。稚児にご興味を」
いつもの様に穏やかな笑顔の中にひと匙の毒を交ぜ言う。
主はその言葉にふっ、と口元を緩めた。
「あの見事な二胡に加えて、軽やかな身のこなし。珍しいと思わぬか」
「そうですね…。使える人物か、詳細を調べましょう」
「そなた、心当たりは?」
高策は葛白の脳内に宮中の人材情報がほぼ完璧に格納されている事を知っている。
葛白の卓抜した技量(スキル)は尚書省の吏部(りぶ)という、人事を扱う部門に於いて、遺憾なく発揮されていた。
「恐らく、太常寺の医工で入ったばかりの者だったと」
「医工か。意外だな」
「そうですね。それなりの出自のようにも見受けられますし」
楽典・楽奏に秀でるにはそれに見合う環境、いうなれば時間と金が必要になるのは、いつの時代も変わらない。
庶民がそれを楽しむ様になるのは、この国においてはまだ先のことだった。
「確か、子の姓だったと」
「子の一族…。珍しいな」
「子」の姓を名乗るのは、この国ではひとつの家しかない。
先々帝が武勲を称え、姓を贈った将軍の一族。代々優秀な武官を輩出する名家で、その存在は宮廷内で異彩を放っていた。
一族の筆頭は将軍である子舜だ。彼は先々帝の戦の時代に名を馳せた人物だった。尊敬と畏怖から「冥府の番人」とも呼ばれている。そしてその一族の多くは、未だ緊張が続く国境周辺を治める要職についていた。
「えぇ、姓との違和感があったので記憶には間違いない、かと」
「確かに子家で流外は相当な的外れだが…。そこまでの愚息には見えなかったが」
医工は流外官であって、正式な官職ではない。官職、いわゆる国の役人に付随する専門職掌であって、政からは遠い。あの利発そうな顔をした者には不向きな職のように思えた。
「明日にはご報告できるように致します」
「そうだな。あの者の演武も、見てみたいしな」
子家といえば剣の名家だ。一族であれば、演武の腕もそれなりだろう。
高策はいとも涼しげに言うが、実は面倒な依頼事を受けているのを知っている葛白は、嫌味を込めて返す。
「使いたいのでしょう。面倒な“積み残し”も溜っていますし」
「はて、そうだったか?」
何食わぬ顔で、主は言ってのける。
育った環境故に感情を表に出さない主だが、とぼけたふりをしているのか、素で答えているのかぐらい、長年その背に従う葛白にとっては嚢中の物を探るが如く、だった。
物珍しい芸達者な子犬に、興味本位で餌付けをしようと思い立ったらしい。
―いずれにせよ、我が君が他人に関心を示したのは良い傾向です…。
冷静沈着、と言えば聞こえはいいが、実際には他者との関わりを極端に避けている結果であり、感情の制御が得意な訳では無い。そんな自分の主に、葛白は懸念を抱いていた。
政に任る際、統率力は必須だ。その為の人心掌握も指導者として欠かすことができない重要な素養だ。
将来、人の上に立つ者として、彼の学ぶべきことは学問以外にあると、葛白は感じていた。人間の欲望が渦巻く宮廷では、生々しい人間の姿を理解しなければ上手く泳ぐことなど出来ない。彼のように、他者と距離をおいていては、自分の持つ醜い感情さえ把握できず、いびつな人間になってしまう。印象とは裏腹に幼さを残す主に、他者との関係構築の訓練をさせねばと常々考えていたところだった。
―これは、絶好の機会かもしれませんね…
葛白は緋色の背中を見ながら、口元を緩めた。
事実、才気煥発な子家の童顔の少年に、二人とも興味を抱いた。
いかにして自分の下に優秀な人材を抱え込むか。これは政に携わる者にとって永遠の課題だ。
「ただ少し、幼過ぎはしませんか」
「十三、四だろう。もう子供とは言わない」
十の国では男子の成人式、冠礼の儀式を行うのは齢十五だが、十三くらいで働き始めることは珍しいことではない。
「全く、お人が悪いですね」
「面白い拾い物をしたものだな―」
その日の主は執務室に戻るまで、珍しく上機嫌だった。
次の日、高策が朝の謁見(えっけん)を終え中書省の執務室に戻ると、葛白が報告にやってきた。
「徐の下におるのか」
高策は渡された報告書に目を通して言った。
「はい。そしてやはり子家の人間でした。医学所への推薦は子将軍のご子息、東宮右春坊(うしゅんぼう)の子鄍(しめい)殿となっております」
「子鄍か」
高策もその人物には覚えがあった。
子家の総領となるべき長男だが、武芸を好まず文官となった人物だ。
その父と違って、穏やかで詩を愛する文人だ。今は皇太子付きの文官で、高策も幾度か政の席を同じくしたことがある。
自分に武芸は似合いません、とある宴で笑っていたその横顔を思い返した。
「どんな家にも異端はおるのだな」
「それは私のことをおっしゃっています?」
葛白が不機嫌そうな声色で返す。
「そなたは異端、ではなく、例外だろ」
高策は悪戯っ子のような顔をして葛白を見た。
「清廉で名高い親の跡目を継がずに、自由に身一つで官吏などしているのだから」
「私は田舎が嫌いなだけですよ」
葛白の父は安平王といい、白江河口に近い北東の地を治めている。通常は嫡子も付き従い、その地で一生を終えるのが普通だった。
「遊べないから、だけだろう」
葛白は稀代の遊び人として、一部の宮廷人の間では有名だった。
その見た目と詩の才を最大限に活用し、妓女を篭絡するともっぱらの噂だ。
「遊んでいる、のではなく、女と酒が無い生活が、私には有り得ないだけですよ」
「菩薩が聞いて呆れるよなぁ」
高策は机に肘をついて、溜息をつく。
「菩薩の微笑みは仕事用ですので」
葛白には尚書観音と言うあだ名がある。仕事中も万人に優しく接し、穏やかで笑顔を絶やさないことから、そう名付けられたらしい。
もう記憶の無い頃から自身に付き従う男の、世間が知らない本性をずっと見てきた高策にとって、「菩薩の微笑み」と称される葛白の笑顔は胡散臭いものにしか見えなかった。
「世間は見た目に騙されすぎだ」
釈然としない気持ちと共に、高策は飲みかけの茶を一気に飲み干した。
〈二〉
「子釉殿」
自分の名を呼ぶ声に顔を上げて振り向いたその人は、葛白を見ると目を丸くした。
「葛白様」
そう言って手にしていた筆を置くと、いそいそと葛白の前にやってきて行儀よく礼をした。
「お気になさらずに。今日はお礼に参りました」
突如職場に現れた笑顔眩しい尚書観音を、子釉は訝しげに見上げる。
「お礼、です、か…?」
「えぇ、昨日の」
ー二胡のことね。子釉はようやく意図を理解した。
「そんな、大したことはしておりませんので」
「いえいえ。私としても、またお願いしたいので。少し、私の執務室にいらっしゃいませんか?」
高位の者の言葉は、宮廷内では例えどんな言い方であっても従うべき”絶対”だった。
ここで否、という選択肢は子釉に与えられていない。
「はい。伺います…」
上長には後で言うしかないかな。子釉の心配はそこだけだ。
「では、参りましょう」
葛白に背中を押され、子釉は戸惑いながらも太医署を後にした。
「ここの生活は慣れましたか?」
葛白に先導されながら、承天門街(しょうてんもんがい)と呼ばれる皇城の表通り(メインストリート)を歩く。朱雀門と宮城の正面玄関、承天門を結ぶ大通りだ。
「はい。皇城はおおよそですが、配置を把握出来ました」
太常寺は朱雀門を入ったすぐ右手に位置する。
皇城はいわゆる官庁街で、三省六部をはじめとした全ての省庁が立ち並ぶ区域だ。省庁ごとに区画が割り当てられ、それぞれの名を掲げた門を構え、権威を主張している。街には無い巨大な殿舎が整然と立ち並ぶ様子は、この国の国力を来訪者に誇示するかのようだ。朝貢の使節団が頻繁に訪れるこの国では、それは外交面において肝要な点でもあった。
皇城の中は広く、太常寺から尚書省の都省までは十分ほど歩く。
その間、葛白は菩薩の微笑みを絶やすことなく、たわいもない話をし続ける。
「医局では普段、どんなことをなさってるのですか?」
―新参者らしく、謙虚に言うべきですよね。
子釉は少し用心して、過小に、かつ手短に説明する。
「まだ、医長の往診のお付きと、薬の調合程度しかしておりません。今は沢山学ぶ時期、と師に言われております」
「以前から医術を?」
「はい、町の小さな診療所ですが、幼い頃から手伝いをしていました」
「それは期待できますね」
―お礼を、と言ってたのに、何を期待されているのでしょう…。
葛白の言葉に子釉の不安は大きくなるばかりだ。
三本目の横道を曲がると、尚書省六部の殿舎が見えた。自分が担当する刑部は日に一度は訪れるが、その隣の兵部から先は未踏の地だった。
―帰りに子舜様にご挨拶していこう…。
兵部の隣の建物が都省だった。ここは尚書省全体の管理部門といったところだ。その二階の奥にある葛白の執務室に子釉は通された。柔らかに立つ香が心地よい空間だった。
どうぞ、と葛白に促され、部屋の真ん中に置かれた長椅子に子釉は腰を下ろした。
窓際に座壇があり、文机が置かれている。書類が沢山積まれた書棚を眺めながら、茶が入るのを子釉は背筋を伸ばして待つ。
「二胡はどこで学んだのですか?」
宮女が持ってきた湯に削った茶葉を入れながら、葛白が尋ねる。
「本家や、知り合いからです」
「本家、とは子家のことですよね」
「はい」
「東宮右春坊殿、ですか」
子鄍のことだ。推薦状に名を貸してもらったから、と子釉は察する。
「はい。基本的な事は全て、子家で学んでおります」
「武術もですか?」
子家は武官の名門、その質問は想定内である。だが、子釉は大っぴらにしたくはなかった。
宮廷内での子家の知名度は低くない。その姓を名乗ることは、それなりの注目を集めてしまう。それをこのひと月弱の宮廷生活の中でひしひしと感じていた。出来れば目立たず過ごしたい、それが本音だ。
「剣は一応、最低限ですが…」
少し困った顔をして、言葉を濁す。
「最低限とは、ご謙遜を」
そう言う菩薩の微笑みに、少し不穏な色が混じった瞬間を子釉は見逃していた。
「…茶が入りましたよ」
「ありがとうございます」
机に茶器を乗せた盆を置き、葛白は茶碗を子釉に差し出した。
次の瞬間、流れるような動作で腰に挿した剣に手をかけると、その刃を陽の光の下にさらけ出した。
下を向いていた子釉だったが、かちっ、と剣が鞘に当たる音に身体が条件反射で動いた。
茶を取ろうと伸ばした手を返し、体勢を変える。とんっと手で椅子を押しやり、身体を後ろに反らすと衣の裾が白く大きな弧を描いて、その姿を長椅子の陰に隠した。
着地と同時に剣の柄に手をかけ、刃を半分抜いて低い位置で構えた。相手の動き次第で、直ぐにでも斬りかかる体勢を取っていた。
一連の無駄のない動きは日頃の鍛錬の賜物だ。
子釉の目は真っ直ぐ不埒者に向かう。
その目に瞬間、紫電が走ったのを葛白は見逃したりはしない。二人の視線はお互いの肚を探るように、相手に向けられていた。
数秒の沈黙の後、先に剣を下ろしたのは葛白だ。
「何が最低限、ですか―」
その顔面には先程までの菩薩の微笑みは無く、狡猾さが透けて見えるような目で子釉を見返していた。
「えっ…」
子釉は未だ自分の置かれた状況を呑み込めていない。
理解しろ、という方が間違っている。突然剣を見せつけられて、驚かない方がおかしい。
「どういうこと、でしょうか…」
「その反応では、貴方がただの流外官だとは、誰も思いませんよ」
「は…」
「刺客と疑われても、無理はないでしょう」
「―」
「子家は、どういうご教育をされているのですかね」
「…つまり私は今、嵌(は)められた、ということですね」
彼の意図を理解した子釉は、大きな溜息をつくと抜きかけの剣を鞘に戻した。
「嵌めるなんて、人聞きの悪い。確認しただけですよ」
葛白はふふふ、と口元を袖で隠して笑った。
―技量を見極める為の詭計に、我はあっさり陥った訳か…。
子釉は天井を見上げ、心の中で子舜に弁明する。
―老師(先生)、子釉は早速やってしまいました…。
でも、咄嗟の反応だから仕方ないですよ、ね…。
「お付き合い、頂けますよね?」
にっこりと微笑むその顔に、恨み事を言いたい気持ちをぐっと堪え、子釉は長椅子にまた腰掛けた。
「お茶が冷めますよ、どうぞ」
「…それは葛白様のせいですよ…」
しょげる様子を隠そうともせず、子釉は唇を尖らせた。
「まだまだ、ですねぇ」
「…未熟者でして」
茶碗を手にとり、一口啜った。存外に美味しい。
「美味しいです…」
こんな時でも、素直に反応してしまう自分の単純さが悲しくて、子釉はまた溜息をつく。
「茶は湯の温度が大切なのですよ」
「左様で…」
また一口、啜る。
「菓子もありますよ」
「…全部頂きますっ!」
―もう、全部食べてやる…。やけ食いですよっ!
子釉は半ばやけくそで、出された菓子を口に押し込んだ。小麦を練って鶏卵と混ぜて焼いたものだった。
生地に干した果実が混ぜ込まれている。噛み砕くと少しの塩気に果実の糖分が重なる。ただ甘いだけではない複雑な味わいに思わず目を見張る。美味しい。
こう言った組み合わせもありだな、と口をつけた断面を眺めながら感嘆の吐息を漏らす。宮廷で食べるものは驚きと発見に満ちている。
「お口に合いますか?」
子釉に対峙する位置に腰を掛け、葛白が聞く。
「大変、美味しゅうございます」
子釉の言葉に嘘は無い。本当に美味しい。
「何よりです」
彼は自分も茶を飲みながら、相槌を打った。先程ちらと見せた狡猾な表情はもうそこには無かった。
「で、貴方は何者なのですか?」
唐突に、でも核心を突いた質問に、子釉は「ぶっ」と、茶を吹いた。
「おやおや、お行儀悪いですよ」
微笑む葛白の顔を見て、子釉は嫌な予感が正解だったと、今になって気づいた。
―う~ん。困りました、ね…。
この菩薩の微笑の下には、かなりの怜悧狡猾な顔が隠れていたとは…。
子釉は懐から手拭を出して、口を拭った。
ここをどう乗り切ろうか、と考えても、目の前の人を欺ける程の策は出てきそうに無い。
「単なる新米医工です、という回答ではないんですよね」
「えぇ、もちろん」
そう言って、にっこりといつもの笑顔を見せる。
―笑顔が黒い。この人は、黒い。
今まで見せていた、あの菩薩の微笑は仮面でしかないことを子釉は悟った。
こんな顔をする人を、もう一人知っている。
その人には嘘は何一つ通じない。お手上げ状態だ。
「葛白様は、意地の悪いお方ですね」
つい、無遠慮な言葉で言ってしまう。
「そう言われたことは、ありませんが」
白々しい声色で返された。
でしょうね、と心の中で頷く。皆あの菩薩の微笑みに囚われて、本当の顔が見えていないだけだ。
「かような属吏を捕まえて、意地の悪い事をなさいます」
茶碗を両手で包む様に持ち、ごくっ、と飲み下す。
「私は単なる子家の端くれです。それ以上でも、それ以下でもありません」
すこし不貞腐れた口調で続ける。
「剣と演武が人よりも得意、というだけの人間です」
子釉は母親の生き写しのようだ、と母を見知った人達は口を揃えて言った。
しかし、その中身は全く違うらしく、その血の気の多さと非凡な身体能力の高さについては、誰に似たのかわからない、と周囲に散々言われてきた。
だが、その運動神経のおかげで、子家の役割の一端を担うことが出来ていると子釉は思っている。何より自分に必要なものは、この運動神経だと。
「二胡も、でしょう」
葛白が付け足す。
「厳しい師匠でしたので」
老師役を買って出てくれた小姐は舞踊と楽奏を得意としていた。特に舞踊においては都で一、二を争う妓女だ。剣舞と二胡は彼女の“手ほどき”というには些か語弊のある、泣く子も黙る容赦ない指導の賜物だった。
「何故、才を生かそうとしないのですか」
「才という程のものでもありませんし」
実際、剣も二胡も老師たちには勝てない、と子釉は思っている。
そして、自分にとって宮廷に上がる事は手段であって、目的は別にある。
誰にも言うつもりは無い。協力してもらう気も無い。真相は自力で掴んでみせる。そう心に決めていた。
憮然とした表情の子釉に、ふうん、と葛白は鼻をならした。
「子家内で、貴方はどういった立ち位置なのですか」
「立ち位置、ですか?」
「えぇ、直系ではないでしょう」
調べたらしい。当然と言えば当然だが、やはり抜かりのない人だ、と子釉は思う。
「養子のような者、といえばよいでしょうか」
「ような、とは?」
「親がいないので、以前からお世話になっている子家で色々と面倒を見てもらっています」
「そうでしたか」
「子の姓は、剣術の師範代となった時に頂きました。今はこの名で呼ばれることしかありません」
「それで子鄍殿の下に入った、と」
「いえ、扱いは子舜様の直系となっています」
「子将軍の?」
葛白には思慮深い彼の御仁がこの様な年端も行かない子供を直系に立てるとは、到底信じ難かった。
―あの老練の知将がそれだけこの者を買っている、ということか…。
葛白の視線は目の前の男子に注がれる。その見た目はまだあどけなさの残る少年、という域を出ないものだ。
家長制の下では、男子は全員一族内での序列がつけられる。排行といって年長者を敬う習慣のひとつだが、必ずしも生まれの順とは限らない。一を家長とし、二がその兄弟または嗣子、それ以降は一族内の立ち位置に準ずる。また、親しき仲になると呼び名も姓とその数字を合わせて呼ぶ事が多い。
「はい。ご子息方の次席となっております」
「何番目なのですか?」
「…五番目、です」
「流石、師範代ですね。子五ですが」
「…こんな見てくれですが」
ははは、と子釉は自嘲気味に笑った。
自分の容姿から、子家の師範代とは見られないことを承知しているらしい。子将軍からして、体格の良い一族だ。それと比べてこの者は明らかに華奢な身体だ。無理もない、と葛白は頷くと一息ついて茶を飲み干す。
「子釉殿」
茶番はこれまで、だ。
葛白は茶を置くと、本題に入った。
「その才、我々に貸してもらえませんか」
「え?」
意外な葛白の一言に、子釉は首をかしげる。
「我々は、色々と調べていることがあります。その協力者になってもらいたいのです」
―何だか厄介な匂いが、ぷんぷんします…。
怪訝な顔をする子釉の心理を汲んで、葛白が続ける。
「面倒なのは否定しません」
「ん、ん…」
―私、忙しいので…と言ったら逃げられるのでしょうか。
心の声は漏れていないはずだ。くさい物には近づかない。それが子釉の信条(ポリシー)だ。
だが、嫌がる気配をばっちり読んでくれる葛白は、甘い言葉を囁く。
「流外官では手に入らないような品も、希望があれば取り寄せましょう」
お取り寄せ、の単語に子釉の目が見開かれる。
「宮廷では茶でも薬草でも、果実でも、一流の品々が手に入ります」
続く言葉に鼻息が荒くなる。
「珍しい書物も、ここでは簡単に手に入ります」
―丁度欲しいのが、あるんですよ!
拳を握る手に力が入る。ほぼ、無意識だ。
「きちんと俸給も出します」
“俸給”。
その言葉に子釉の目は輝いた。
「乗りますっ!」
思わず両手の拳を握って叫んだ。
先程までのむくれ顔とは真逆の態度に、さすがの葛白も呆気にとられた様子で子釉を見た。
「…それは、よろしゅうございました。では」
苦笑いしたが一息つくと立ち上がり、右手の拳を子釉に向けて伸ばす。
「これからは、一緒に戦ってもらいます」
「はい、頑張ります!」
―銭の為なら!
子釉は自分の右手の拳を葛白のそれに合わせた。
「男に二言はありませんからね」
そう言って微笑んだ葛白の顔は、何故だかとても輝いて見えた。
「明日、仕事が終わったら、あの四阿にて話をしましょう」
昨日、葛白に言われた通り、子釉は四阿に来ていた。
一月も終わりに近づくと、日中の寒さは和らいでくる。風もなく、日が照っていて気持ちの良い昼だった。
まだ、人が来る様子はない。
手持ち無沙汰なので、太医署の書棚で見つけた薬草の書を開いた。
効能と絵が薬草の種類ごとに描かれており、禁苑の薬園で探す際の手助けになりそうだったので、借りてきたのだ。日頃扱わない種類の薬も沢山載っている。
痛み止めや止血、気の巡りなど、一つの薬草で幾つも効能があったりする。
混ぜたらどうなるのだろう、と興味が湧くところだ。
―それにしても、遅いです…
もう約束の時間から四半刻(三十分)が過ぎていた。確かにここだと言っていた。間違ってはいないはず。
温かい日差しに、背中が温められる。
小川のように庭を巡る水路が四阿の側を流れて、宮殿内の池に至る。流れる水はさらさらと心地よい音を伝えていた。
穏やかな時間だった。
子釉は段々と、うとうととしてきた。書に目を落とすと、文字が波の様に揺れている。
―駄目だ、寝ちゃう…。
目を擦りながら頁(ページ)をめくっていたが、いつの間にか意識は白い霧の中に溶けていった。
「―寝て…」
「…ますね―」
二人が四阿にやってくると、先客は椅子に横になり、目を閉じていた。
「待たせたか―」
高策はすぅすぅと寝息を立てて眠るその顔を、目を細めて眺めた。
長い睫毛が覆う目元は、柔らかな曲線を描いている。
「まるで幼子のようだな」
足を抱えるように小さく丸まって横たわるその姿は、なんとも可愛らしいものだった。
「無邪気なものですね」
覗き込んだ葛白も、余りにも穏やかな寝顔に思わず声を潜める。
「夢でも見ているのだろうか」
「悪い夢ではなさそうですね」
「―暫し、このままにしておこうか」
そう言うと高策は規則正しく上下する肩に、そっと手をのせた。
―よい香りがする…。
夢うつつに、その香りが何かを考える。
水仙のような、淡いが心に残る涼しげな香りだった。鼻から吸い込むと、ふんわりと胸に広がる。
―いい香り…。
その香りの方へ手を伸ばすと、なめらかな布に指が触れた。
―柔らかい…。
手繰り寄せようと掴んだ手に、温かいものが触れた。
―ん………?
手の甲にとんとん、と温かいものが跳ねた。
まだ重い瞼をゆっくりと持ち上げると、自分の手が視界に入った。ぼんやりとした景色の中で目を凝らしてみると、自分が伸ばした手にもう一つの手が載せられている。
温かいものはそれだった。
―手の温度、だったか…。
深い緋色の布を握った自分の手がそれを着ている者の手と重なっている事に気づくのに、少しの時間を要した。
霧のように形のなかった意識が徐々に姿を得て、鮮明に現実を映していく。
それと比例して、子釉の顔から血の気が引いていく。恐る恐る視線を上げると、いつか見た冴えた花がこちらを無言で見下ろしていた。
人は本当に驚くと、咄嗟に声が出ないらしい。
子釉は絶句し、高策は無言のまま、二人はお互いを見ていた。
「起きた、か?」
その声に子釉の身体は青竹が弾けたかのように飛び上がったかと思うと、次の瞬間には叫んでいた。
「わぁぁぁっー!」
勢いよく後退りすると、どん、と大きな音を立てて背中を柱にぶつけた。痛い。
麗しい二人の、戸惑い気味の視線が子釉に注がれている。視線が痛いとはこの事か、と子釉は心で嘆く。
自分でもわかるくらい、頭の天辺(てっぺん)から全身が赤くなっていく。
「…一人で賑やかな子ですねぇ」
しばしの沈黙の後、葛白はそう言うと、けらけらと笑い出した。
「ご、ごめんなさいっ!」
―恥ずかしい…!消えたい、消えたい、いなくなりたいっ…!
心の中で絶叫するが、現実はそれを許してはくれない。
昼寝しているのを見られた上に、寝ぼけて衣を掴んで、挙句に絶叫する…。
この数分の自分の失態を脳が理解すると、身体は水を含んだ砂袋の様に重くなっていった。
「良い夢が見れたか?」
顔色ひとつ変えないで視線を送ってくる高策に「はい。」と蚊の鳴くような声で子釉は答えた。
「なら良い」
―本当に?
恐る恐る高策の顔色を窺うが、彼の顔には何の感情も映っていない。
怒ってはいないらしい。安堵の溜息をついて、子釉は下座の位置に腰を下ろした。
卓子(テーブル)には茶と菓子と巻子が置かれていた。
子釉の為らしき、器もある。
「どうぞ。喉も乾いているでしょう」
笑い止んだ葛白が勧めてくれる。気が利く人だ、と子釉は思う。
「いただきます」
少し冷めた茶が子釉の喉をさらさらと流れていく。
「子五、と聞いたが」
茶碗を置いたのを見計らって、高策が聞いた。
「はい、確かに」
答えながら、彼らが不信がるのも無理はない、と子釉は内心思う。
「身元については保証人の子鄍か、家長の子舜に、お問い合わせ頂ければ確か、かと」
老師こと子家の家長、子舜は尚書省兵部の長だった。同省の葛白なら面識はあるだろう。
「その必要はない―。そなた、剣の手ほどきは子将軍から受けたのか?」
「はい。一応、直弟子です」
一応、とつけてしまうのは謙遜でもなく、照れでもない。
未熟な事が、自分でわかっているからだ。
そうか、と言って高策は口を閉じた。
そして茶碗を取ると、一口茶を含んだ。喉に流れる温度を感じながら、彼は老将を思い浮かべていた。
子家―。
皇帝の背を託された、剣を星に掲げる一族。その長である子舜の存在は宮廷内でも稀有なものだった。
この一族が政治の表舞台に立つことは無い。彼らは皇帝、そしてこの国を守護する、という役目を担う。時に皇帝の刃として、その威信を汚す者を法に縛られる事なく、独自の判断で制裁する特権を与えられていた。
だが高策はその一族の、もう一つの姿を知る数少ない人間だった。
この一族は皇帝の目となり耳となり、この国の表と裏に目を光らせている。数多の隠密を束ねているのも、この一族だった。事情を知る人間の中には彼らの事を“天子の狗(いぬ)”、と揶揄する者もいた。
それだけ特殊な一族の、しかも五番目に列せされている、この小さな者。
葛白から子家の一族だと聞いた時、苦い記憶と共にあるその姓に、高策は鼻白んだ。
だが、琥珀色の眼差しで射貫くように自分を見つめるその姿に、躊躇よりも好奇心が勝った。
「その剣を、使ったことは?」
高策は子釉が帯びている剣を指さした。
子家の五名は王朝に代々伝わる宝剣を賜るという話を、兄から聞いたことがあった。
十の国は律令という法律が整った法治国家なので、徒(いたずら)に他人に危害を加えるような事は許されていない。
実際に真剣を使う機会自体、普通の人間ならば殆ど無いはずだ。
「これ、ですか」
子釉は問われた意図を察した。
子家は有事の際に勅命を受けて動く。一度だけ、子釉もその列に加わった事がある。
あれは二年前。
剣を拝受して初めて就いた役目は、澱んだ感情を子釉に残していた。
「…ございます」
低くなった声に、高策の眉が少しだけ上がる。
「…そうか。幼いのに忠義だな」
「子家の人間として、当然の事です」
子釉は動揺を悟られまいと、視線を下に落として平静を装う。
子家の役目を、子家の人間は誇りに思っている。自分がそれを欠けさせる訳にはいかない。
「流石、子将軍のご教育の賜物だな」
常に淡々と、一定の調子(ペース)で語られる高策の言葉は、感情というものが全くと言ってよい程表れない。
世辞なのか嫌味なのか、はたまた本心から出た言葉なのか、子釉にはそれさえ読み取れなかった。
―この方はどうしてこうも、味気無いのだろう。
朴念仁とも言われかねない無表情さに、釈然としない思いで子釉は相手を見た。
「頼みがある」
高策が口火を切る。
「はい」
子釉は居ずまいを正し、真っ直ぐに彼を見た。
「力を貸して、もらえないだろうか」
「私に出来る事、であれば」
控え目に答えてみる。
「これを、見てほしい」
そう言って彼は絹の布を懐から取り出した。何かが包まれているそれを子釉に手渡す。
子釉は受け取り、包みを開いた。すると絹の中から、見事な大きさの乳白色の玉が現れた。
「羊脂玉(ようしぎょく)でしょうか」
「あぁ」
夜光玉とも呼ばれるその石はしっとりとした白色が美しく、古くから宝飾品として珍重されていた。
「この持ち主を探したいのだが」
「何やら高価そうですが…」
「禁苑で飼っている犬が小屋に集めていたものだ」
「女性の装飾品の欠片みたいですね」
「おそらくな」
「持ち主に返したいのだが、如何せん、何処から持ち出したかさえ分からん」
雫の形に削られ、金で出来た留め具がついている。この大きさでぶら下げるとなると、首飾りか、簪だろう。
「無くした人は大騒ぎしているのでは…?」
これだけでも、市で売れば三ヶ月分くらいの食費になる。庶民からしたら、一家総出で大捜索するぐらいの代物だ。
「…後宮では、失態を公にしないものだから」
「何故です?」
「それが主上からの贈り物だったりしたら、どうする?」
「…まさか死罪とか?」
恐る恐る、子釉が聞く。
「そんな理不尽な方でない」
少しだけ眉間に皺を寄せて、高策は否定する。
「なら、いいですが」
なんだか怒られた気がして、子釉は視線を外した。
「で、なぜそんなものが、高策様の手に渡るのですか?」
そんな面倒くさそうな事、子釉なら引き受けない。
「頼まれてな」
―もしや、この人、断れない人…。
若干半目になって彼を見たが、視線の先の人は気づかずに話を続ける。
葛白は子釉をちらっと見て、口元をそっと押さえた。半目の顔を見てしまい、笑いを堪えられなかったらしい。
迂闊だった。気を付けなければ。
「見つけた者が盗人と、疑われていてな」
それは当然だろう、と子釉は思う。こんな高価な物を、下級官吏は手にする事はできない。運悪く手にしてしまった者は気の毒だ。
「その者が盗んでいないという証拠がない」
「…と、どうなるのですか」
「罪に問われるのは不可避だろう」
「うわぁ…」
運が悪い。悪すぎる。
「その者が顔を見知った者でな。無実を証明してやりたい」
「そうですね、確かに」
子釉も頷く。この無表情の貴人は見た目と違って、意外といい人なのかもしれない。
「でも、無くした人は何にも言わないのでしょうか」
こんな高価な物が無くなったら、それこそ大々的に犯人捜しを始めそうなものだ。
高策は続ける。
「無くした本人は言い出せないだろうから、こちらから持ち主を見つけるしかない」
「言い出せないものなのですか?」
「女はそういうものだろう」
「え―」
一括りにしないでくれますか、と思わず言いそうになるのを子釉は寸でのところで耐えた。
女だから、とか性別で決めつけられると、無性に反論したくなってしまう。が、今はすべきではない。
「無くした、と言う話だけで足の引っ張り合いが始まるのが、掖庭宮(後宮)の常だろう」
「うわぁ…」
その言葉に、またしても子釉の顔が歪む。
そしてまた、葛白が口元を袖で覆う。
そんなに我は面白い顔しているのかな、と子釉は多少なりと気にはなったが、高官相手に問い詰めることなんぞ出来ない。
「頼めるだろうか」
「はい。俸給いただけると伺ったので」
率直に答える子釉に、高策の眉が少しだけ上がった。
余計な一言だったか、と子釉は心の中で舌打ちをする。でも、本当の事なのだけれど。
「そうか。もし必要な物があれば言ってくれ。手配しよう」
「はい。二、三日考えてから、お願いさせていただければと」
「承知した」
そう言って高策が立ち上がると、葛白も後に続く。
「では、連絡待っている」
「はい」
「何かあれば、私のところに来てくださいね」
「はい、葛白様」
子釉が頭を下げると、二人はよい香りを漂わせながら四阿を出ていった。
「なんか、取っつきにくい人、だなぁ…」
子釉は椅子にもたれかかり、空を仰ぎ見る。
職務質問を受けているような、淡々とした会話だった。
葛白の軽い、というか腹黒な、もとい率直なやり取りの方が気楽でいい。窓口が彼で良かった。
「帰ろっと」
子釉は立ち上がり、踵を返えして四阿を出た。
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