(4)

 翌日、阿賀那は統星彦を送り出すと、女中のテルを伴って、第二夫人・戯瑠子の居室を訪れた。テルは怯え切ってどうしても部屋に入ろうとしなかったので、阿賀那は仕方なく彼女にはこれから出るであろう芥(ゴミ)の始末を任せる。


「な、なにをなさるんですか……?」


 顔を青くして恐々と尋ねてくる女中のテルに、阿賀那はにっこりと笑って返してやる。


「掃除よ」

「そ……掃除ですかぁ?」

「そうよ。こんな埃っぽい部屋じゃあ、戯瑠子様がお可哀想でしょう?」


 まったく、微塵も、阿賀那はそのようなことを考えてはいなかったが、適当なことをベラベラと並べ立てるのは、実は大得意だった。しかし女中のテルは得心しているわけではないようで、阿賀那の返答を得ても煮え切らない顔をしている。


「まあ、どうでもいいじゃない。とにかく掃除よ。掃除をするのよ」


 見るからに高価そうな調度品で埋め尽くされた戯瑠子の居室は、その豪奢さに見合わずすっかり埃をかぶってしまっている。戯瑠子が亡きあと、戯瑠子付きだった女中ですらだれも足を踏み入れなかったと言うのだから、致し方ない。


 死してなお勘気を恐れ戯瑠子の居室へ足を踏みいることすらできない女中たちは、阿賀那からすれば大変な意気地なしに見えた。だれかひとりでも戯瑠子のためにと向かった者はいないのだろうか? ……いないのだろうな。なにせ、気位が高そうな顔をしているし、実際にそうだったのだろう。


「お可哀想」と心にもなく口にしていた阿賀那であったが、そこまで考えると本当に第二夫人の戯瑠子を哀れに思う感情が芽生える。わざわざ妓館から娶った統星彦でさえ、戯瑠子の居室には入っていない――いや、入る気などハナからないのか。


 だれからも真に慮られることのない存在――。それは断片的ながら戯瑠子の性格に触れた阿賀那には、自業自得とも言うことはできた。けれども、やはり、まあ、人心あればひとりくらい、掃除をしてやっても良いのに、と思わなくもない。戯瑠子とて、憎らしい阿賀那に大事な城を触られるのは嫌に違いない。


 しかしそういう巡り合わせになってしまったのだ。許しておくれとは言わないが、諦めのひとつくらいつけておくれと、阿賀那は両の手を合わせながら、心中でそう戯瑠子に語りかけた。


 頭巾をかぶり、手ぬぐいを口元に当て、着物の袖をぐいと襷で引き上げる。阿賀那はとうとう第二夫人・戯瑠子の居室の掃除にかかる。


 まずは上から順に積もった埃を払ってやる。舞い上がった埃は、かすかに差し込む光の中で、幻惑的にキラキラと輝いた。いっときだけそうしていられるのは、まるで戯瑠子のようだった。


 既に無い者も同じ、いずれは捨て置かれて行くことを暗示させる扱いの中で、我が物顔で屋敷に現れるときだけ、彼女はまたかつての栄光を手にすることができる……。しかしそれは、自然の摂理に反していることだ。あっては、ならないことなのだ。


 阿賀那もひとの母親だ。第二夫人の戯瑠子が好きで妓女になったわけではないだろうことはわかっていたし、そんなところへ彼女を売り払った人間がいるのだと思うと、やる瀬無い気持ちになる。


 感傷的な気分に浸ってはいたものの、しかし阿賀那はひとの母親であるから、心を鬼にせねばならなかった。娘の麻耶葉の今後のことを思えば、この馬鹿馬鹿しい事象は仕舞いにしてやるのが、いずれは先に逝く親として、残して行けることのひとつだろう。


 だからこの一大掃除は己のためでもあり、娘のためでもあり――哀れな戯瑠子のための、阿賀那によるささやかな弔いでもあった。


 埃を畳に落として箒で外に掃き出せば、第二夫人・戯瑠子の居室はまあまあ見れるようにはなった。問題は、ひどくごちゃごちゃと引き出しなどが散乱している点だ。引き出しがこのような惨状であるから、当然、その中に収められていたのだろう数々の物品も、そばに散乱している。


 なるほど、賊に入られたあとであるな。阿賀那はごく当たり前の事実を再確認する。高価な引き出しがぐちゃぐちゃになっているのは、賊が入ってからそのままにされていたからなのだろう。この居室は本当に戯瑠子が亡きあとで、時間がぴたりと停まってしまっていたのだ。


 阿賀那はそれを引き続き片づけにかかる。


「あのう、この着物は……」

「全部燃やしてしまった方がいいでしょうけど、統星彦様にお伺いした方がいいわよねえ」

「え! 燃やしてしまわれるのですか?」


 女中のテルが廊下へ無造作に積まれた戯瑠子の豪奢な着物の数々を見て、憧憬に満ちた眼差しを送る。女中奉公をする年頃の娘からすれば、煌びやかな着物の数々は、喉から手が出るほど欲しくても致し方はあるまい。


 阿賀那はそれを微笑ましく思いながらも、テルに釘を刺すことを忘れなかった。


「そうねえ。勿体ないけれどねえ。……女の着物には持ち主の情念が宿るものよ。特に、こんな豪奢な仕立ての着物にはね」


 阿賀那にそう言われたテルは、さっと顔を青白くした。今しがたまで羨ましげな目で見ていたのが、あの第二夫人の戯瑠子の持ち物だということを思い出したのだろう。恐る恐るといった様子で、一歩、横に移動して着物の山から距離を取る。


「だから着物はそこに置いておきなさい」


 そう言い置いて阿賀那は再び掃除に戻った。


 そして阿賀那は――恐らく、この馬鹿馬鹿しい一連の出来事の数々の、元凶を見つけた。


 それは、ひとつの箱に納められていた。


「阿賀那様~? ……ヒッ! な、なんですか、これは……!」


 箱へじっと視線を落としていたので、訝った女中のテルが声をかけて阿賀那の手元を覗き込んだ。そこには、一見すると人間の子供の頭蓋に見える黄ばんだ骨が、小さな紫色の座布団に鎮座していた。


「こ、ここここれって――」

「猿の骨ね」

「――え?」

「人間にしては形が違いすぎるわ」

「さ、さる……!」


 顔を青白くして震えていた女中のテルは、阿賀那の言葉を聞いてホッと安堵の息を漏らした。しかし次なる阿賀那の言葉に、彼女はまた顔を青白くさせるハメになる。


「タチの悪い呪いね、これは」

「の、呪い?! 呪いって、まさか――」

「……もう、当人が死んでしまってるから確定はできないけれども……。もしかしたら……かもね」


 阿賀那とテルの脳裏をよぎるのは、第一夫人である結樋の臨月間近の子が流れてしまったという、不幸な出来事。もしそれが、第二夫人の戯瑠子が望み、仕組んだものだったとすれば――。


「な、なんて卑劣なんでしょう!」


 憤る女中のテルに対して、阿賀那は淡々としていた。開いていた箱を仕舞い込み、豪奢ながら無造作に積まれた着物の横にそれを置く。


「……でもまあ、恐らくは一足早く返ってきてしまったのね」

「……え?」

「不幸な風を吹かせたから、その風が返ってきてしまった。そして結局、だれも幸せになることがなく、みんな不幸になってしまった。――可哀想なことに、ね」

「それは……」


 女中のテルは、なんとも言えない顔をして小さな箱を見る。


 阿賀那はこのことを夫の統星彦にも、第一夫人の結樋にも言うつもりであった。そうすればようやく、この屋敷の呪いは解ける。そんな気がした。


 統星彦はマトモな神経をしていれば、生まれてくるはずだった我が子を害した女を許せないであろうし、結樋も一連の出来事が呪いであり、その呪いの根拠を燃やしてしまえば少しは気が晴れるだろう。女中たちもそうだ。気味の悪い荒れた戯瑠子の居室がなくなれば、少しはその今も続く恐れを取り除けるかもしれない。


 ――たった、ひとつ。この小さな箱。この小さな箱のせいで、おかしなことになっていた大屋敷。それは外から見ればお笑い草であろうが、阿賀那はどうしても、この箱に触れる前までのような、笑い飛ばしてやるような気にはなれなかった。

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