ニュートン

 ヴェラスケスの妻の頭には、動物の耳が突き出していた。猫耳に見える。彼女は獣人系の先祖返りだったのだろう。笑顔が優しい女性だった。


「よく見たら壁に貼ってあるの、全部絵なんか……あっ、あれ。シャバーニ君の絵ちゃう?」


 タキシードが指し示した壁の絵を、エイジャが取り外してシャバーニに手渡した。


 シャバーニはその絵を口が触れるほど近くに寄せて、じっと無言で見つめていた。


 ゴリラは表情を作れない。無表情に絵を見つめ続ける彼の横顔は、そこにあるはずのなげきが読み取れないが故に、むしろ哀れに映った。


「――色んな絵が、あるね」


 そう言ってエイジャはシャバーニから視線を外し、壁を眺めた。そこにはヴェラスケスの妻の絵、猫の絵、様々な動物の絵が貼られていた。ヴェラスケスは動物好きだったことが窺える。しかし、その絵は壁の上から下の方にいくほどに内容が崩れていっている事に、タキシードは気が付いた。


 写実的な絵柄から、下に向かうに従って徐々に細部が失われていき、失われた線の代わりに幾何学的な模様が補完されていた。そうして段々と現実的だった絵は記号的に変わっていき、床近くの絵はもはやおどろおどろしく、十人見れば十の解釈が生まれそうな、逆に病の奥から何かを伝えようと必死に描かれた、示唆しさ的な内容にすら見えてくる。


「――これも、絵だったんか」


 おそらくは最後の絵――机の上に残された絵は、不思議としっかりと意味の伝わってくる絵面となっていた。ぐちゃぐちゃに書き殴った筆跡で、暗い中に佇む老人の後ろ姿が描かれていた。タキシードはその絵に、得体の知れない薄気味悪さを覚えた。


 ――これが虚骸コーマに落ちた者の見る黄昏たそがれなのだろうか。


 タキシードはそら恐ろしくなって身震いした。


「――シャバーニ君、その絵、持ってってもええけど、雨に濡れたら一発で台無しになってしまうな……エイジャ、絵の防水加工って誰に頼めばええかな?」


「えっと……ライチなら防水加工出来るかも。雨具の防水とかもやってるから」


 するとシャバーニがタキシードの近くまで歩み寄り、ゥホと声を上げてタキシードの頭に指を乗せた。


「……ああ、それでもええよ。いつでもおいで」


「シャバーニ君、なんて言ってるの?」


「絵は、ワシらに預かって欲しいって。あと、また事務所に来てもええかって。ええやんな? 帰ったら飾っといてやろうか、エイジャ」


「……うん。そうしよう」


 エイジャがそう言ってひとつ深呼吸をし、自分の胸元を見た。そこには事情をまったく分かっていなさそうなキュートな顔つきのニュートンがいた。


「――さてっ! ニュートンはどうしよっか。私達で面倒見る?」


「そうやな、ワシらで引き取って、大きくなったら好きに……へっ⁉ シャバーニ君が連れて帰るの?」


 シャバーニに指でツンツンされたタキシードが、驚きの声を上げた。


「まぁ、ワシらはええけど……どうする、ニュートン? って、まだ分からんか」


 意見を求めようとタキシードがエイジャを見ると、彼女はどこから見つけてきたのか、ひとつの指環を手に取って凝視し、口元を手で押さえて固まっていた。


「――なんや? エイジャ、どしたん?」


 すると、エイジャが「これ……」といってその指環をタキシードに見せてきた。




 シャバーニはニュートンを背中に乗せて森に帰っていった。


 彼の後ろ姿を、南バミューダの門の外で見送るタキシードとエイジャ。


 ニュートンの件については、エイジャが猫好きなせいもあって、彼女は遠回しに引き取りを主張してきたのだが、最後はタキシードの「ニュートンに近いのはワシらよりもシャバーニやから、シャバーニの意向が優先されるべきやろな」というひと言で決着がついた。


「――ニュートンとシャバーニ君、大丈夫かな?」


「おお、大丈夫やろ。シャバーニ君は天才やで」


 シャバーニはイケメンで、強く、賢い。ニュートンを任せることに心配はない。狩人ハンターに狙われないかだけが心配だが、狩人はよほどの事態にならないと類人猿は狙わないというから、大丈夫だろう。


 エイジャがヴェラスケスの部屋で見つけた指環は、親猫の首輪につけてシャバーニに託した。そのリングの内側には名前が二つ掘られていた。ニュートンとヴェラスケスだ。


 ニュートンは親猫の名前ではなく、ヴェラスケスの妻の名前だった。とはいえ不都合はないので、名前はそのままでもいいだろうという結論になった。


 森の影に消えていくシャバーニの背中を見送るタキシード。今ひとつ腑に落ちない。ニュートンのことだ。


 ヴェラスケスの飼い猫は子猫を咥えて彼の元に訪れていたらしいが、なぜだ。何のために子猫を連れてヴェラスケスに足しげく通ったのか。目的が分からない。一匹で来ればいいのに。


 ニュートンはタキシードを見て、おとーちゃんと言った。親猫と毛の色が同じで勘違いしたとも考えられるのだが、匂いがまったく違うはずだ。


 そもそも、親猫が黒い長毛種なのに、ニュートンがヒョウ柄のショートヘアーというのが似つかわしくない。


 ――ニュートンは、本当にその猫の子供なのだろうか。違うとすれば、ニュートンは何者なのか。なぜあの猫はニュートンを命がけでシャバーニに届けたのか。


 親猫がニュートンをシャバーニに届けた、というのもタキシードのフィクションに過ぎない。考えすぎだろう。白猫の子猫が黒猫だったりもする。だが、妙な胸騒ぎを感じてしまう。そんな妄想の産物が消化不良のかすとなり、タキシードの腹の隅でわだかまっていた。


「――晩飯はバワーズんとこで食べよ」


「そうだね……行こっか!」


 二人はそう言うと、きびすを返して緑色グリーン尖晶石スピネル通りに足を向けた。


 街にはもう蛍石フローライトの街灯が灯っていて、二人の背後の森には、じんわりと闇黒くらやみが染み込み始めていた。

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