第4話 ドリーム・カラー
ある日、私は学校に遅刻しそうになっていた。朝お母さんが起こしてくれなかったからだ。目玉焼きを食べて、トーストを食べて、野菜ジュースを呑み下す。宿題忘れてるわよ!と言われて、昨日やった宿題のノートを持って、家を飛び出した。
空は青く、風は爽やかで、たくさんの生徒たちが行き交う道を、わたしは走っていく。
けれど、途中でふっと違和感を感じて、立ち止まった。
私はぽつんと取り残されたように立っている。自分の体を見下ろすと、当たり前のようにセーラー服を着ている。白いセーラー服に、紺色のリボン。心許ない服だ。足元がすうすうする。
でも、まばゆく白く見える服はなんとなく気分を浮き立たせる。きれいで、かわいくて。ひらひらしていて。
「明日の中間試験がさー」
「期末で頑張ればいいじゃん?」
ちゅうかん。きまつ。聞いたことがあるような、ないような、遠い言葉。
さっきまで、宿題が身近に感じていたのに、おかしい。
この状況もおかしい。私のことを誰も見ない、誰も振り返らない。少女たちの、さざなみみたいな笑い声。蝶々みたいにひらひらと横を抜けていく、細いツインテールの女の子の赤いリボン。横の並木道からひらひらと落ちる桜の花びら。
ああ、あんなスカートでいたら、足を傷つけてしまいそうなのに。あんな無防備に肌を出して、防塵マスクもしないで、外を歩くなんて、危ない。
危ない?何が?ここはこんなにも平和な世界なのに?
「……あなたたち、マスクを、しないと、」
反射で絞り出した声はかすれて、彼女たちに届いたようだった。振り返った眼差しは無機質で、少しだけのわたしへの嫌悪をはらむ。
わたしは、少しだけ怯む。女の子って、こんなにも無機質な眼差しをしただろうか。
「え?なに?」
「変な格好……」
「ぶかぶかの男物のコートと……なに?あのぼろぼろの革ブーツ……」
ひゅっと息を飲んだ。自分を見下ろす。まばゆいばかりの白いセーラー服姿だったはずの私は、いつもの服に戻っていた。男物の、ポケットがたくさんついた丈の長めのコート。黒い革のブーツ。は、と吐息を溢すと、硝煙の香りがふわりと臭った。
焦げ臭い。土と、鉄と、炎の匂いがする、この体。目の前の、作り物みたいに綺麗な少女たちとは、全く違う。さらさらの髪で、綺麗なリボンをつけて、桜の下を学校へと歩いていくのが当たり前の彼女たちとは、わたしは、何もかもが違う。
「あのさ、どこのクラスか知らないけど、お風呂に入った方がいいんじゃない?まだ学校始まるまで時間あるし」
「言いにくいんだけど、そのぉ……ちょっと、鉄くさい……かな?って……」
剥き出しの悪意でない分、胸に刺さった。
優しく遠まわしに言われる言葉は、時に投げつけられる暴言よりも心に来ることがある。わたしは曖昧に微笑もうとして、失敗する。年下の子供に向けるような笑顔なんて、ここ数年浮かべていなかったのだから、当たり前かもしれない。
うん、だとか、ありがとうそうするね、だとか、いくらでも社交辞令は口にできた。だが、喉は凍りついたように音を出さない。
わたしが立ち尽くしていると、少女たちは気味悪そうにわたしを見てから、行ってしまう。
わたしは桜の世界でひとりになる。
ひとりに。
不意打ちで、後ろから抱きしめられた。
振り返らなくても誰だか、わかった。赤いコートの袖が、わたしを後ろから抱きしめている。
ふっと、孤独感がやわらいだ。あたたかなひだまりに足を踏み入れたかのように、安心がそっと心を包んだ。
「……リリ」
「何やってるんですか、ゆーさん。ちょっと深く潜りすぎじゃないですか?」
「……昔の人たちの記録を体験したかったから」
わたしは、——半透明のログアウトウィンドウを出して、桜降る町からログアウトした。
ヘッドセットを外して、身を起こす。目を開くと、リリが心配そうに覗き込んでいた。
埃だらけのラボの一室だ。周りにはたくさんの機械があり、ヴァーチャルリアリティを研究していた施設だという。壁に備え付けられた本棚には、様々なヴァーチャルワールドのダウンロード用キューブが収められていて、その中でわたしは「二十一世紀の学校生活」というものを選んだ。
「二十分もヴァーチャルに潜ったまま出てこないなー?と思ったら、取り込まれかけてるじゃないですか」
「……ごめん。あんまりに、……」
あんまりに、そう。しあわせな世界だったから。
わたしはぽつり、ぽつりと語った
白いセーラー服はきれいで、桜は美しくて、空は麗かだった。朝はおいしい目玉焼きを食べて、トーストを焼いて、野菜ジュースも飲んだ。わたしには家族がいて、その家族もわたしに優しくて、何もかもがしあわせだった。
「……ボクだってそれぐらいできますよ?」
リリが言うので、埃だらけの暗いラボの中、わたしは笑う。
「目玉焼きだって焼けますし、トーストだって焼けますし。桜は……植えなきゃ見れないかもですけど。セーラー服はどこかで掘り出し物で売ってたりしないかなあ……」
家族はどうするの、と冗談まじりに聞きながら、わたしはダウンロード用の桜色のキューブを本棚に戻そうとする。
リリは満面の笑みを浮かべた。
「ボクたち、もう家族じゃないんですか?」
わたしはキューブを思わず取り落としてしまって、桜色のキューブは床に落ちて割れてしまった。きらきらした電子回路と、桜色のガラス片が飛び散る。
「ちょ、っと、ゆーさん何してるんですか!」
「……少し驚いただけ」
「家族でしょう、ボクたち。そんなに驚きました?」
「リリがそう思ってくれているとは、思わなくて」
「ボクそんな薄情じゃないですからー!……ところで、指は大丈夫ですか?
「大丈夫」
桜色にばらばらに砕けた硝子を、わたしはもう手に取らなかった。
あの夢の世界より、きっとリリが見せてくれる未来への展開図の方が、きっと、わたしにとってはずっときれいなのだ。
リリとわたしの夢をキューブに閉じ込めたのなら、それは、何色だろうか。
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