第一章『七月六日(現実)』その4

 病院の廊下という空間を歩くことには、何度繰り返しても慣れない気がする。

 昔から体は健康だったから、僕自身はあまり病院に馴染みがない。特に入院施設のある大病院には。こうして通うようになったのは、高校に進学する直前くらいからだ。

 リノリウムの無機質な廊下を歩く。

 やけに静かだ。もう面会時間も終わりが近いからか、普段よりもひと気が少なかった。

 小織は僕を見上げながら、なぜか悪戯っぽい笑みを浮かべて。

「そういえば、倒れていた生原小織を病院まで運んでくれたことについては、まだお礼を言ってなかったね。今さらだけど、あのときはありがとう、伊織先輩」

「……礼が受け取りづらすぎる」

「あははっ! まあ……じゃあ、そうだね。そういえば私も、一度だけ具合いが悪そうな伊織先輩を助けたことがあったし。それで借りを返したってことにしておこうかな?」

「ああ、灯火の……こっちこそ、あのときは助かった。ありがとな」

「どういたしまして! ふふ、なんだかちょっと、気恥ずかしくなっちゃうね?」

 そんなことを言われては、僕のほうが恥ずかしくなってしまう。

 感情を表に出さないよう苦慮しながら、それとなく話題の矛先をずらした。

「今思えば、灯火のときもまなつのときも、小織には助けられてた気がするよ」

「それは、ふたりが星の涙を使ったとき?」

「まあ、そうだな……いや、助けられてたのは、これまでずっとだった気もするけど」

 僕は言う。本心だった。

 ただいっしょにいてくれたこと。

 そのことが、あるいは救いになることもある。僕はそれを知っていた。

「……それはこっちの台詞だけどなあ」

 小織は軽く首を振って、苦笑するようにそう言った。

 僕自身は特に、何かをしたつもりはない。けれど、そういうものかもしれない。

「にしても、やっぱり小織は事情を知ってたのか」

「ああ、言っておくけれど、別に私だって詳しいことは知らないよ? ただ、なんとなく伊織先輩の顔を見て、そういうことかなって思っただけだから」

 少なくとも灯火の件のとき、小織は僕を見失っていた。

 まなつの件のときは、そもそもほとんど関わってすらいない。

 それでも小織が気づいていたというのなら。

「僕、そんな表情に出してたのか?」

「ううん。──ただ真面目で、格好いい顔をしてたから。誰かのために動いたんだなって」

 その言葉に僕は顔を顰めてしまい、それを見て小織は笑っていた。

 小織はいつも僕を持ち上げてくれるから、思わず本気に捉えてしまいそうだ。

「まあ、私としては少し複雑な気分なんだけどね?」

 続けて小織はそんなことを言う。

「複雑って……」

「ちょっとした嫉妬というか、独占欲かなあ。伊織先輩を取られるみたいで、ほんの少しだけ面白くなかったってのが正直な感想。だから今回は、帰ってもらっちゃったりね?」

「……、お前、僕のこと好きなの?」

「大好きだけど、言ったことがなかったかな?」

「……悪かったよ……」

 ものすごく当たり前みたいに言われてしまっては勝ち目がない。

 負けを認めた僕に、小織は楽しそうな笑顔を浮かべる。むずむずする気分だった。

「まあ、しばらくは独り占めさせてよ。この件が終わるまでの間だけ、ね?」

「……そのつもりだよ」

「あははっ。まあ、思いっきり迷惑をかけることにはなっちゃうけど。そこは面倒な女に掴まったってことで諦めてもらうとして、っと」

 言っている間に、病室に辿り着く。

 小織はそっと中を窺って、

「よし、ちゃんと誰もいないね。よかったよ。ここに近づくのは難易度が高くてさ」

「そりゃ、その顔が普通に院内を歩いてたら驚かれるよな」

 僕には認識できないが、同じ顔をしているのは間違いないのだろう。

「外なら他人の空似で通せるけど、さすがに病室まで来るとね。特に両親と鉢合わせるのだけは避けたいから、実は私、ここには一度しか来たことがないんだよね」

「……一度しか……」

「ていうか、生まれたとき? 的な。そういう意味では正確にはゼロかも」

 逆を言えば、こちらの小織は文字通りに、この場所で生まれたということなのか。

 ──どういう気分なのだろう。

 起きている小織は、眠っている生原小織のことを、どこか自分とは違う存在であるかのように語っている。ぼくも倣っているが、そちらを指すときフルネームで生原小織と呼ぶことからも、それは明らかだ。自分ではない、けれど自分である誰か。

 本物の、自分。

 己が偽物であるという、自覚。

「……あ、れ……?」

 そのとき僕は、気づいてはならない──けれど気づかなくてはおかしい違和感を、自覚してしまった。無意識に、考えないようにしてきた、ある事実だ。

 眠っている生原小織を起こす。

 それはいい。当然、それはやるべきことだろう。

 だが。

 その場合──今ここにいる小織は、いったいどうなるというのだろう。

「中に入ろう、伊織先輩。廊下にいると視線がある」

 そんな小織の声が、僕の鼓膜を揺さぶった。

 言われた通り病室へと入る。早く確認しなければと思う傍ら、僕は病室の中の別の違和感に気がついて、言葉を失ってしまった。

 いや、違和感がなくなったというほうが、あるいは正確なのだろうか。

「……小、織……」

「そう。それが私だよ。予想通り、伊織先輩も認識できるようになったみたいだね」

 白く簡素な、清潔で飾りのない病室のベッド。

 その上に横たわっているひとりの少女。──少女。

 そう。その顔が、その存在が、今の僕には認識できるようになっていた。確認し忘れたが、あるいは病室前のネームプレートも読めるようになっているかもしれない。

「……っ」

 咄嗟には言葉を作れなかった。

 見慣れた表情。知っている少女の顔。

 けれど決定的に違っていて。

 ……弱々しかった。あまりにも。今にも壊れそうなほど、生原小織の姿は脆く見えた。

 だが当然だ。だって彼女は長い昏睡状態の中にあり、まったく動いてはいない。それはゆっくり、けれど着実に彼女を衰えさせている事実のはずで。

 その期間を思えば、あるいは驚くほど健康に保たれているのかもしれない。眠っている小織をそれだけで見るのなら、むしろ綺麗に思えた。

 だが、比較対象がすぐ傍に立っていると、どうしても違いのほうに目が行ってしまう。

 まず痩せている。いや、やつれているのかもしれない。そもそも細身な小織だが、輪をかけて細く、折れそうに見える。肌は白く、雪像を思わせる脆い印象。

 触れることどころか、この場で息をすることすら躊躇われた。

 たったそれだけで、眠っている小織が砕け、壊れてしまうのではないかと恐ろしい。

「大袈裟だよ。先輩が思うより遥かに健康体だからね、その私は。だって、そうでなきゃ願いが成立しないからね。体の維持は、医者以上に星の涙が担保してる。起きればすぐに動けるよ。もちろん多少のリハビリは必要だろうけど──言ったってその程度だね」

 立っている小織は僕に言った。

「……そう、なのか?」

「私が保証するよ。ある程度、私と共有しているものがあるんだ。私が食事から摂取したカロリーとか、そっちに渡ってるんじゃないかな。詳しくは知らないけどね」

「そんな、無茶苦茶な……」

「今さらでしょ。どうも星の涙ってのは、変換器みたいなものっぽいし」

「……変換器? それ、どういう……」

「対価の分だけ願いを叶えるってのは、つまり供出した対価の分だけ、そのエネルギー分だけ別の事象を起こしてるってコトでしょ? エネルギーなんでも変換器、みたいな?」

 言われてみれば、そういう考え方もできるのか。

 星の涙はあくまで変換器であり、対価として渡したエネルギーを別の何かへ変える。

 これまで、考えてもみなかった観点だ。

「さすがに筋量の低下とか、どうしようもない部分もあるだろうけどね。少なくとも健康であることは間違いないから、安心してくれていいよ」

「……わかった、とりあえず納得する。命に関わるようなことがないなら、今はいい」

「ありがとう。……度し難いね、私って奴は」

 言って小織は、眠る生原小織を見下ろす。

 どこか冷たい表情で。けれどすぐさま首を振って。

「さて。じゃあどうやって、この私を起こすかだけど」

 と、ここへ来た本題に入った。

 僕は問う。

「実際のところ、どうすればいいんだ? 揺り動かせば起きるってわけじゃないんだろ」

「それで済むなら楽だったけどね。伊織先輩に助けを乞うまでもなかった」

「僕に、できることがあるんだな……?」

「それはもう。伊織先輩にしか、できないことがあるんだ」

「わかった。それなら、それは僕がやる。──だけどその前に、ひとつ確認させてくれ」

 さきほどの衝撃で聞きそびれてしまったが、やはり確認しないわけにはいかない。

 その答えが、果たして僕の選択にどう影響するのかはわからなくても。

「……お前はどうなる?」

「お前、って?」

 わかりきっていることを小織は訊いた。

「当然、今ここで話している小織……眠っているほうじゃない、僕と話しているお前だ」

 ただ僕のほうも、答えを貰う必要はないのかもしれない。

 考えればそれは自明だからだ。

 生原小織を起こすということは当然、星の涙の働きを止めるということ──願いを捨てさせるということだ。ならば、その願いの結果として生まれている、目の前の小織は。

「──

 確認するまでもないことだと、彼女は語った。

 僕の表情は、果たしてどうなっただろう。わかりきっていた答えを聞いて、ならば僕はきちんと、感情を表に出さず氷点下に保てていただろうか。

 自覚はできなかった。ただ小織は僕を見て、薄く笑ってこう続ける。

「けどそれだって、別に先輩が気にするようなことじゃないんだ」

「……小織、それは……っ!」

「いや、本当のことだよ。だって初めから、私のほうがイレギュラーなんだから。記憶を失ってるからわからないだけで、先輩にとって《生原小織》ってのは元から私のことじゃない。そこで、眠っているほうのことを言うんだよ。私のほうが偽物なんだ」

 ……偽物なものか。

 強く、僕は奥歯を噛んだ。

 少なくとも今日までこうして、ここに存在してきた彼女に、嘘も本当もありはしない。

 眠っている小織を思い出したとしても、その結論は変わらないだろう。この二年弱、僕と共に過ごしてきたのは、目の前にいる小織のほうだ。その事実は揺るがない。

 第一、小織はそれで納得できるのか?

「お前だって……お前には、記憶があるんだろ? 自分が、生原小織だってわかってるんじゃないのか。お前も、《小織》であることには、違い、ないんだろ……?」

「……そうだね。私にはきちんと記憶がある。少なくとも星の涙を使う、その直前までは生原小織として過ごしていた記憶が」

「なら──」

「でも同時に、自分がそのとき生み出されただけの偽物だってこともわかるんだよ」

 さして悲しむふうでもなく。

 諦めと呼ぶには未練のなさすぎる様子で。

 小織は笑った。

「気にしてくれてありがとう──でも、いいかい伊織先輩、その危惧は的を外してる」

「……、どういう意味なんだ?」

「消えるってのは、まあ言葉の通りだよ? でも別に、私の存在がこの世から完全に消滅するってわけじゃない。単に、元いた場所に戻るだけのコトなんだ」

「元いた場所に、戻る……?」

 それは、つまり。

「言ったろ? そっちの私とこの私は、どこかで繋がっている。棄てられたとはいえ元は同一人物だ。願いを捨てれば当然、元の私という場所へ、帰るってだけの話なんだよ」

 小織の言葉を、少しの時間、噛み砕く。

「つまり、なんだ。それは、ふたりの小織が合体する……みたいな話、なのか?」

「あははっ! いいね、合体か。それはいい。──うん、でもまあそういう話。分離していたものが元に戻る。ふたつに分かれていた小織は、融合して完全体になるってわけさ」

 ならば問題ないのだろうか。

 どうなのだろう。判断するだけの情報が僕には足りない。

「まあ、とはいえ確かに、それは全てが上手く運べば……という前提での話だね。そこは否定しないよ。実際のところ、私だってこの先、どう転ぶかまではわからないんだし」

「どう、転ぶか」

「眠っている私が、それをよしとするのか、って話。そう、私が伊織先輩に頼みたいことというのは、つまりがなんだ。わかっているとは思うけど、目覚めることに積極的というか、それに肯定的でいるのはこの私のほうだけ。そっちの私は、たぶん違う」

 眠っている小織。

 その意識は夢の世界にあり、醒めない眠りにずっと耽っていようとしている。

「棄てられた、って言ったでしょ? 私は、なにせ私だからね。私には当然、それが現実逃避で、どうあっても行き詰まりにしか続いてないことがわかってた」

 考えなかったわけではない。

 眠っている小織を見た瞬間に、僕も思い至っていた。

「……もし小織が、このまま眠り続けていたら」

「そう。当然、死ぬでしょ。普通に。いくら星の涙の力でカバーしてるからって、身体のほうが弱っていくのは間違いない。彼女の夢の世界は、初めから永遠には続かないんだ」

「…………」

「ネバーランドってわけさ、言うならばね。私はそこから追い出された。夢の世界にいるためには、彼女の中の──私という要素が邪魔だった。さっき言ったのはそういう意味」

 夢の世界であり続けるために。

 不要となった、元々は持っていた自分の要素。

「大人の自分と子どもの自分。理性的な自分と感情的な自分。強い自分と弱い自分。賢い自分と愚かな自分……正確な分類はともかく、生原小織は夢の世界に相応しくない自分の要素を追放した。それが私。だから逆を言えば──」

 ──夢の世界にいる生原小織は、夢の世界を肯定している生原小織。

 なるほど、僕にもようやく理解できた。夢の世界へ逃避するには、きっと小織はもう、精神が大人になりすぎていたのだろう。だからその要素を捨て、子どもへと戻った。

「そういうわけだよ。わかってもらえたかな?」

「……だいたいのところはな。それで僕は、どうすればいい?」

 結局、やってみるしかない部分が多い。だが、そんなのはいつものことだろう。

 元より選択肢はないのだ。僕は、それをやるということだけは決めているのだから。

「眠り姫を起こすには、王子様のキスが妥当なところだけど」

「おい……」

「冗談。──夢の世界に入るんだよ」

 果たして、小織はそう言った。

 なんだかファンタジーなその言葉は、言葉ほどには軽くない。

「私が持っている繋がりを利用して、私たちを夢の世界へと叩き込むんだよ。眠り続ける私とコンタクトを取るには、こちらも同じ世界に入るしかない」

「……できるのか?」

「さあ? ただ、ときどき彼女が見ている夢を、私も見ることがあってね。それで、その混線を利用することを思いついたんだ。だから伊織先輩には、まず寝てもらおうと思う」

 僕が眠っただけで、小織の夢の世界へ入れるだろうか。

 なんだろう。小織が自信満々に見えるから勘違いしていただけで、これ実は。

「……なあ。まさかとは思うが、小織……」

「うん。──実は、作戦らしい作戦なんてほとんどないんだ」

「行き当たりばったりで試すだけかよ……とんだ話になってきたな」

「確証はないけど確信はあるよ」

「それ、より厄介なだけだろ。──やるけどさ」

 試してみなければわからないなら、試してみるだけの話。

「伊織先輩なら、そう言ってくれると思っていたよ。大丈夫、大丈夫さ──先輩ならね」

 小織は笑うと、それからポケットに手を差し入れ、中から透明な小瓶を取り出す。あの露店で売っていそうな、デザイン性のある小瓶だが……中には白い錠剤が入っている。

「言っておくけど、何もかも確証はない。ここで眠って、入れもせず普通に起きてしまうなら幸運なほうだと思う。場合によっては夢の世界に閉じ込められるかもしれない」

「そんなのは脅しにならねえよ。──それに」

「……それに?」

 それに、きっと小織は、そんな真似をしないと思う。

 僕らは友達で、たとえ忘れてしまったのだとしても変わらないと──僕は信じよう。

「いや、なんでもない。それより、その小瓶は?」

「毒薬ってわけじゃないさ。睡眠薬だよ」

「おい……」

 まさか睡眠薬を飲む羽目になるとは、僕も想像していなかった。

「ナナさんに頼んで用意してもらったんだけどね。まあ、必要ないなら飲まなくてもいいだろうけど、すぐに眠るにはいるかなって。──ふたりで飲む勇気、あるかな?」

「やっぱりやめたくなってきたんだけど。大丈夫なんだろうな、それ……」

 などと言いつつ、どうせ毒薬でも飲まないわけにはいかないのだ。

 僕は小織に手を差し出す。彼女は苦笑して、それから僕の手に錠剤をふたつ乗せた。

 自分でもふたつ手に取ると、鞄から水のペットボトルをふたつ取り出した。

「準備のいいことで」

「だって、さっきまで準備してたんだし、そりゃね。──覚悟はいい?」

「念押ししなくていいよ。問題ない」

「じゃあこっちに来て、そこに座って。そう」

 壁際にある小さな椅子。図ったようにふたつあるそれに、並んで腰を下ろした。

 少し低くて、座るにはともかく寝るにはちょっと不便だったが、パイプ椅子より遥かにマシだ。そんな贅沢は言っていられない。

「……行くよ、伊織先輩」

「おう。……なんか、心中でもしてる気分になるな」

「あはは。それは面白い。当たらずとも遠からずな気がするよ。……んっ……」

 錠剤を二錠、ミネラルウォーターで一気に流し込む。

 左隣に座った小織が、そのとき僕に言った。

「ね、伊織先輩」

「なんだ?」

「手、繋ごう? そうすれば、きっと同じ夢を見られる気がする」

「……わかった」

 椅子に並んで、横は向かずに。

 目に入るのは眠る小織がいるベッドだけ。

 それでも、差し伸べた左手にそっと──小織の右手が触れる感触がして。

 確かにそこに彼女はいるのだと、温かな感触に教えられ。

「伊織先輩」

 声が聞こえる。

 だがその瞬間には、僕はもう眠気に襲われていた。

「なんだ……?」

 声だけで問う。意識を奪うような強烈な眠気ではなく、微睡むような心地のいい朦朧。

 睡眠薬の効果にしては早すぎる。直感だが、そうではない気がした。

 ──そうだ。まるで、誰かに呼ばれているかのような──。

「伊織先輩……ねえ、伊織先輩……」

「……ああ……」


「今まで、私といっしょにいてくれて、本当にありがとう」


 その直後。

 僕の意識は切断された。

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