第12話 〜あるカラオケシンガーのメモワール〜

   〜フィリピン〜


     =一九八四年=


        八月  



       〈一二〉



  ショー・レストランの中にいるのは、相変わらず、わたしたちだけだった。


  「初めての休みの日…」。メルバはつづけた。「田舎の家までの三時間がかりの旅は、どう言ったらいいのか…。とにかく、ふつうではありませんでした。働きだしてから初めての帰省だったでしょう?ほとんどはミスター高野と話しながら過ごしただけだったんですけど、とにかく、[さくら]で二週間働いたあとでしたから、何百ペソかの現金を持っていましたし…。ハンドバッグの中には、妹たちへのおみやげ―チョコレート―が詰まっていて…。

  「いえ、そういうのより何より…。わたしはもっと大きなものを胸に抱いて家に向かっていました。両親に対する、とてつもなく大きな〔反乱〕計画?…バスに揺られているあいだに、わたしには、自分のしようとしていることがそんなふうに見え始めていたんですよ。

  「バスが田舎の町に近づくにつれ、心臓の鼓動がだんだん速くなっていきました。バスを降り、トゥライシクルに乗り換えて家に向かっているあいだには、もっと気持ちが昂ぶって、わたし、〈もう決めたことだから、後戻りしちゃいけない〉〈わたしに公平じゃなかったってことを継父に分からせるんだ〉〈カレッジで勉強したいという思いを、今度こそ、大きな声で、強く両親に伝えるんだ〉と、何度も何度も自分に言い聞かせていました。…母の病気が二週間前より悪くなっていない限りは、絶対にその〔反乱〕計画を実行するんだって」

          ※

  「学校に行っていたバーニーとロビンを除いて、家族みんなが温かくわたしを迎えてくれました。ローサの両腕に抱きかかえられたエレナも含めて、いまは経済的にすっかりわたしに頼りきっているみんなが、小さな借家の前に出てきて、二週間ぶりに戻ってきたわたしを取り囲んで…。エレナは別にして、全員が嬉しさ、期待、気づかい、好奇心、そんなものが入り混じったような表情をしていました。

  「わたしが最初に注目したのは母の様子でした。…体の具合はその後どうなんだろう?わたしの〔反乱〕に耐えるだけの体力と気力はあるのだろうか?

  「母は思いのほか元気そうでした。二週間前より状態がいいようにさえ見えました。…それがあまりにも楽観的な見方、希望的観測だったってことが分かったのは数時間後のことでした。

  「みんなの前でそうしていいかどうかが分からないまま、わたしは[さくら]で稼いだお金を母に手渡しました。…感謝と安堵?母はそれまでわたしが見たことのなかった類の笑みを浮かべ、胸の前で十字をきりました。継父は、母のその仕種から目をそらせ、空を仰いでいました。

  「家の中に入ると、昼食が用意してありました。ふだんよりは皿数の多い、お祭りめいた雰囲気の食事でした。食べながら、わたし、マニラでの新しい暮らしがどんなものかを、できるだけ楽しく描き出しながらみんなに話しました。ローサとマリアは目を輝かせながら聞いていました。それから、わたし、例のみやげのチョコレートを持たせて妹たちを食卓から遠ざけ、[さくら]での仕事のことを両親に話しました。…〔反乱〕開始のときが近づいていました」

          ※

  「わたし、とうとう口火をきりました。…いえ、両親がわたしに〔ありがとう〕ってあまり言わないうちに、そんな両親―特に母―の姿をみてわたしの決心がぐらつかないうちに、話を切り出さなきゃならない、それも断固とした口調でって、わたし、分かっていたんですよ。でも、実際にそのことを話しだしたときには、わたし、違っていました。…自分がどんなに若くて弱い人間か、というんじゃなかったら、どれほど両親に従順な娘であったか、まだそうであるかを改めて思い知らされてしまいました。

  「両親への最初の言葉を、どんなふうに切りだすべきかを、わたし、バスの中で、トゥライシクルの中で、何度もくり返し考え、それが言えるよう何回も練習さえしていました。…こんなふうに切りだすつもりだったんですよ。〈お父さん、あなたが働いて。中東に行ってだろうと、肉体労働者としてだろうと、家族のためにお父さんはもっともっと働くべきだわ〉

  「ショッキングに聞こえませんか。効果的に?…でも、現実にわたしの口から出た言葉は、そんなのじゃなくて、〈お母さん、わたしね、それはとても親切で、いい日本人とお店で知り合ったのよ。その人はね…〉というものでした」

          ※

  「実際に出てきた言葉は、どうしようもなく調子の低い、思いもかけなかった、おとなしいものだったんです」。メルバは数度、横に首を振った。「両親に面と向かうと、用意していた言葉なんか何も口から出てこなかったんです。…〈お父さん、あなたが働いて〉だとか〈働くの、なんでわたしなの〉だとか、そんなことを言うチャンスは、その後も結局、ありませんでした。

  「わたしが両親に対して企てた〔反乱〕は、実行に移される前に、そんな形であっけなく終わってしまいました。いえ、〔親切な日本人〕の申し出のことは何とか話し終えたんですよ。でも、わたし、〈家の経済状態が許すなら、申し出を受けてカレッジで勉強させてもらいたいんだけど〉みたいな、ひかえめな希望すら、最後まで口に出せませんでした。

  「どこか苛立たしげな表情でミスター高野の申し出の内容を聞いていた母はわたしにまず、〈気を確かにしてちょうだい〉と言いました。その言葉を何度もくり返しました。それから、〈あなたはからかわれているんだ〉〈そうじゃなければ、その人はあなたをだますつもりなんだ〉って言いました。〈見返りなしにそんな気前のいい申し出をする人間がこの世にいるわけはないだろう〉〈それに、そもそも、あなたはその日本人のことをまだ何も知らないじゃないか〉〈そんな人間の話をまとも聞いてくるなんて、あなたはどうかしている〉って言いました。

  「常識というんでしょうか。それとも、生きていくための知恵?…とにかく、母がわたしに言ったことの多くは、ミスター高野が援助の話を最初にしてくれたときにわたし自身の胸に浮かんだ思いとおなじものでした。  「両親にとってわたしはまだ説得しやすい娘でした、わたしを〔いい娘〕〔いい長女〕に戻すのに言葉はいくらもいりませんでした。

  「こんなことって信じられます?その日の深夜までに、わたし、ミスター高野の〔本当の意図〕について両親が昼間わたしに言ったことをほとんどみんな信じるようになっていたんですよ。その中には〈その日本人はあなたをだまして売春の世界に引っ張り込もうとしているのかもしれない〉〈そうでなければ、あなたを自分の妾にでもするつもりなのかもしれない〉なんてことまで含まれていたのに。…おかしいでしょう?」

          ※

  「おかしくはないわ、メルバ」。わたしは答えた。「高野さんの申し出は、ほかのだれの耳にも、多かれ少なかれ、現実的じゃないように聞こえたんじゃないかしら。まして、あなたのことを心から気づかっていらっしゃったご両親、高野さんにじかに会ったことがなかったご両親の耳には。それに、あなたはもともと、とても素直な娘なんだから、ご両親がおっしゃったことをみんな信じるようになったの、自然なことだったと思うわ」

  「母はわたしに」。メルバは言った。「人間がどこまで邪悪になれるかを、わたしの実の父親が母にしたことから学んだはずだろう、と言いました。〈わたしたちのあの家庭を暴力であんなふうに恐ろしい場所にしてしまったの、策略をめぐらせてわたしたちの家族をこんな状態に追い込んでしまったの、あなたの実の父親だったのよ。まして、その人は、あなたがほとんど知らない外国人よ。あなたをだますぐらい、簡単なんじゃないの?あなたは現実社会で働きだしたところで、社会というものがどんなところかまだよく分かっていないのよ。でも、あなたの父親がどんな人間だったかはちゃんと分かっているでしょ?この世界では、メルバ、そんなにしょっちゅう良い人間に出会うわけじゃないのよ。いいえ、悪い人間に取り囲まれて生きていると考えるのが賢いぐらいよ。ね、お願いだから、手遅れになる前に、そんな蜃気楼のようなカレッジ生活のことは忘れてちょうだい。少なくとも、わたしたちの暮らしがもう少し落ち着くまで。…わたしの体がちゃんと良くなるまで。…これから二年間ほどは〉。わたし、黙って耳を傾けていました。…母が言っていることは、ミスター高野の申し出よりはずっと理にかなっているように聞こえていました」

  メルバは言葉をとめ、大きく息をついた。「そのあとでした。母がわたしに、ちょっと申し訳なさそうに、〈実はね、メルバ、集中治療を受けるためにニ、三週間以内に入院しなきゃいけないって言われているのよ、わたし〉と打ち明けたのは」

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