3. 言語学習1:短単語リスト

 昨夜、緊張の疲れからベッドに入るなり寝てしまったタクミは次の日の朝、まだ日も上らぬうちに目が覚めてしまって、腕時計を見ると四時だった。暗闇の中でベッドに伏したままぼんやりと、そういえばこういう時は、変な夢を見たななどと独り言をこぼして、しかし昨日の出来事が夢ではなかったことを確認して改めて驚いて見せるというのが定番だったなと思った。「変な夢を見たな」と呟き、それからニヤリと笑って、そして意外と自分は落ち着いているものなのだなと、そう思った。暗闇を何とは無しに見つめていると頭の中を由無し事が次々と浮かんでは消えてゆく。魔法と呼称された謎技術と、それに加えて文化の違いにもだいぶ驚かされた。現代人が魔法世界へ迷い込むローファンタジー、あるいは異世界召喚モノの常識では主人公と読者にその不思議な世界を紹介する案内人なり解説役なりがつくものだが、メグ・イシアンの要請をアキラという少年に押し付けてしまって、そうしたら彼女の他に言葉の通じる人がいなかった。夢の中に解説役が出てきてなぜ彼がこの世界にやってきたのか、何をするべきなのかを教えてくれたりもしなかった。そもそも今朝は夢を見なかった。「リアルはクソゲーだな」と呟いて再びニヤリと笑う。教えてもらえなくても、異世界に迷い込んだのは不幸な事故のようなものだし、やるべきことも言語の学習をしながら彼女たちの帰還を待つというのでいいだろう。彼は、やけっぱちの開き直りにしろ、存外自分がこの状況を楽しんでいることに驚いた。

 楽観的というわけではなく、好奇心の方が勝っていたのだろう。好奇心を持っていたのは、彼にとって幸運なことだった。悪い魔法使いを追跡しようというメグの語り口調や準備の仕方からなんとなく予想されていたことだが、事件はすぐに解決するということはなくて、彼はその未知の言語を充分に学ぶことができたし、その甲斐あってそれなりに難しい会話もなんとか交わせるようにはなった。そうやって活動を維持することが彼の精神の、ひいては身体の健康を維持させたのだろう。ただ、教科書もない、教師もいないで、それで異世界の言語を独力で学ぼうというのは予想以上に困難なことだった。それでも、衣食住が保証され他に仕事もなかったので学習に集中することができて、おかげで一ヶ月ほどで簡単な会話ができるところまでは来れた。ここにその大して効率的でもない彼の奮闘の様子を伝えよう。


 ベッドの中でゴロゴロしているうちに空が白んできたので、シャツとパンツを着て、気温は暖かだったのでジャケットはクローゼットにしまったままで、恐る恐る表の客間の方へと出た。それなりに大きな窓から斜めに入る朝日のおかげで室内は明るく、昨晩とはだいぶ異なる印象を与えた。清潔感があってしかし装飾が過度ではないところは第一印象と変わらないが、カーテンの縁や絨毯の模様を見るに高級感がある。わずかに波打つ窓や鏡も、もしかするとこの世界では貴重なものなのかもしれない。窓の外には小綺麗な前庭と屋敷を囲む塀、そしてその向こうには街の風景が広がっている。庭木は灌木が多く、それほどきっちり刈り込まれてはいなくて目に優しい。

 部屋に目を戻すと、昨夜に少女の寝室の扉に挟んだ紙が消えているのが認められた。彼が寝ている間にでも彼女が起きだすことがあったのだろうか。耳をすましても寝室から何か物音が聞こえるということもないし、客間に特に変わったところもないように見えるので、少女が今寝室にいるのかもわからないが、しかしやはり扉を叩いて確かめるというほどの度胸もない。さしあたり昨夜の続きとして、机の上に出したままであった本を開いて、しかしどうするでもなくパラパラとページをめくっていると、間も無くして扉を叩いて執事が入ってきた。執事は今朝は、昨夜見たジャケットの袖を落とした、灰色のウェストコートのようなものを着ていた。にっこり笑顔を作って迎えると、執事も微笑んで「メアドレーア、ダ・タクミ」と挨拶をした。「メアドレーア」という挨拶は、朝限定の「おはようございます」か、いつでも使える「こんにちは」か、あるいは「よく眠れましたか」みたいなものだろうか。語尾は上がっていなかったが、昨晩のわずかな会話からでは疑問形がそのような語調になるかどうかすらもわかっていない。とりあえず、わずかに首を傾げながら「メアドレーア、バートル」と返すと、執事は「エイ」と言って頷いた。どうやら挨拶の言葉らしい。挨拶は大切だ。挨拶ができないと、敵だと思われてしまう。

 執事が再び客間の扉を開くと、廊下で待機していたのであろう、使用人がお盆に朝食を乗せて入ってきた。やはり大きめの皿に、サラダとハム、それに平べったくて薄いパンが乗っていて、そしてマグカップにはハーブティーが淹れられていた。朝食は二人分あり、それが部屋の真ん中のテーブルの上に置かれた。執事が扉の閉じられている、少女の使っている寝室の方を見てから彼の方を向いて首を傾げたので、ノロノロとその扉の前まで行ってノックをした。案の定すぐさまの返事はなかったが、小さく深呼吸してから、

「スズさん、おはようございます。あの、朝食を持ってきてくれているのですけど、どうですか、食べれますか」

と、声をかけた。すると、ややあってから小さな声で「はい」と返事が聞こえてきて、間も無く扉が開いて少女が出てきた。沈鬱な表情であるが、ひどく疲れているというほどではなく、一応眠れたらしい。服は昨日の制服のままで、しわくちゃになっているところを見ると着替えずにそのまま眠ったようだ。執事はそんな彼女のみすぼらしいなりを気にしたふうでもなく微笑んで、

「メアドレーア。アレノドフェイデゥラックサアブ?」

と挨拶した。少女は自分が直接声をかけられたことに少し驚いて緊張したようで、不安げに彼の方を見てきたので、「メアドレーア」というのは挨拶だということを教えると、蚊の鳴くような声でその挨拶を繰り返して俯いてしまった。その様子を見て、執事は一礼して部屋を出ていった。

 執事が出ていっても、少女は落ち着かない様子で立ち尽くしていた。無理からぬこととは思いつつ、しかし彼とて特に何ができるわけでもないので(言葉の通じない相手とコミュニケーションをとるのと落ち込んでいる相手を励ますのは別の能力で、彼は後者に乏しかった)、さしあたっては席について朝食を取ろうと促した。初めこそ恐る恐るといった様子であったが、少しずつ口に入れて、それで安全な食べ物であるとわかると、少女は空腹を思い出したように一生懸命食べ始めた。ハムは分厚いのが二枚あったし、パンもそれなりに大きくて量的に足りないということはなかった。

 お互い無言で朝食を食べ終わって一息ついたところで、少女の方からおずおずと彼が扉に挟んでおいた手紙についてお礼を述べてきた。やはり、夜中に目が覚めたらしい。彼の方は、何気なく手紙の内容は十分にわかりやすいものであったかと尋ねそうになって、その前にそれがこの場の話題としてふさわしくないことに気がついて、「ああ、うん」などと曖昧に返事をした。

「まあ、不幸中の幸いは、彼女が、あのメグさんという方が、お金持ちの貴族だったってことでしょうね。とりあえず、この事件が解決するまで僕らは生活に困るってことはなさそうですから。でも、ほんと、驚きですよね。驚天動地だ。だって、こんな、まだ夢見てる気分ですよ。ほっぺたつねっても痛いんで夢じゃないんでしょうけど」

もちろんそんなことを言っても、少女を励ますことなどできない。仕事の相手だったら仕事の話をすればいいし、親しい相手だったら趣味の話でもいいが、世代の違う異性相手に何を喋っていいのかわからない。少しの居心地の悪い沈黙を挟んで、今後の行動の指針についてとりあえず表明でもしておくかと思いついた。

「ええとですね、今後のことなんですけど、日本に帰れるまでどのくらいかかるかもわからないですし、やはり言葉が通じないと不便なので、僕はこの国の言葉を研究しようかと思います。他にすることもないですしね。スズさんは、まあ、好きなように過ごしていて大丈夫でしょうけど、その屋敷の外に出るときにはできれば声をかけてください。治安は悪くないって言ってましたけど、日本ほど安全かもわからないので」

少女は小さく「わかりました」と答えたきりで、まだ俯いている。執事との方がうまくコミュニケーションを取れていた気がする。


 少女は再び寝室に引きこもったので、呼び鈴を引っ張って使用人に朝食の跡を片付けてもらってから、タクミは早速机に向かって昨夜の続き、言語の研究を始めた。もちろん執事かあるいは他の使用人に協力を請いたいが、今呼び出しても何をどうすればいいかもわからずただ困惑してしまうだろう。彼らだって従来の自身の仕事があるだろうし、本音のところ、初対面の相手は怖い。まずは自分一人でできること、言語学者ではないが、理系だが、それでもそれならば科学的に、論理的に、学習のアルゴリズムを組み立てることはできるはずだ。協力を要請する前にプレゼンの準備をしなければならないのだ。

 本を開くと、昨夜見た通りアルファベットに特殊文字が混じった言語が書かれている。幸いにして、特殊文字の頻度は高くないから、最初のうちはその特殊文字を含む文は丸ごと無視しても問題ないだろう。アルファベットは表を作っておいて、後で執事に一文字づつ発音を教えてもらおう。表の文字を指差しながら首を傾げてアーだのウーだの言えば、きっとこちらの意図を了解してくれるだろう。次に、単語だ。昨夜は、ぱっと目についた出現頻度の高いものを書き出したが、いずれ辞書のようなものを作る必要があるのだから全ての単語を書き出したほうがいいだろう。そして、出現頻度に加えて、文中でのおよその位置も記録する必要がある。文中で同じ位置を占める単語は同じ品詞である可能性が高いはずだ。短く頻度の高い単語は冠詞、助詞や前置詞などの接置詞、「ある」、「する」や"be", "do", "can", "will"などの助動詞や基本的な動詞の可能性が高いが、文中の位置からそれらを分けることができるかもしれない。パラグラフや節、章単位での頻度もいい推測材料になる。固まって現れる単語は、その文章が話題にしている何かを指す名詞かもしれない。名詞を見つけることができれば、他の文の中で同じ位置を占める出現頻度の高い短めの単語が代名詞であると推測できる。名詞と代名詞を見つけることができたら、次は疑問形の文法だ。フとレに似た記号が終止符と疑問符であろうことは昨夜発見してある。レのついた文の中での名詞または代名詞の位置から疑問形の文法を推測できるかもしれない。また、疑問形の文に高頻度で用いられる代名詞があれば、それは「何」や「どこ」、「いつ」、"what", "where", "when", "why", そして"how"に相当するものかもしれない。さしあたっての目標は、「これは何ですか?」と聞けるようになることだ。「これ」と「何」が分かれば、「これ、何?」または「何、これ?」と言いながら首を傾げれば通じるだろう。簡単な質問ができるようになれば、言語の学習は一気に進むだろう。少なくとも、名詞と形容詞は簡単に調べられるようになるだろう。

 どのようにこの未知の言語を解読するか、その計画を立てていると、何だかうまくいきそうな気がしてきた。少なくとも、頭足類のような宇宙人と墨流しのような文字で筆談するのよりかは簡単だろうし、強面の軍人から早く解読しろとプレッシャーをかけられているわけでもない。代わりに彼には、未来視というファンッタジックな体験もないのだが。いやいや、そんなものは必要ない、たとえ宇宙人とだって、科学だけで相手の言語を解読できるはずだ。未来視その他のインスピレーションはいらない、インスピレーションは科学ではない。何かパッと思いついたことがあっても、実証しなければならないし、思いつくのにだってそれ以前に収集された、解析された大量の材料が土台として必要なのだ。実際の科学なんて、相当泥臭いものなのだ。さしあたって、このままこの未知の言語が書かれた本をただ眺めていたって突然にその読み方が内容が頭の中に流れ込んでくるということは起こりえない。必要なのは正しい作業の方法と実際の作業なのだ。彼はこれから始めようとしている仕事のその莫大な量について考えないように、考え出してしまう前に、腹に力をためて紙とペンを手に取った。

 しかし、一文字目を書く前にすでに手が止まってしまった。紙がいくらあっても足りないと、にわかに思い当たった。まず、当たり前だが一つの言語の、全てではないにしろ実用的な量の語彙を得ようとしているのだから、辞書を作ろうとしているようなものだ。調べようとしている単語が新しいものなのか既出のものなのかが簡単にわかるように、既出単語のリストはアルファベット順になっている必要がある。一枚の紙に順番に書いていくと並び替えができないので、紙を切り分けて小さなカードを作り、一枚に一単語書いていけばいいだろう。カードには単語とその意味がわかったときのための空欄、出現回数を正の字で書き加えていく欄、文中の位置を記す欄が必要だ。出現頻度に関しては、パラグラフや節が変わる毎に正の字の脇に小さく印を入れていけば頻度の偏りもわかる。文中の位置というのが、少し曖昧だった。文頭か、二番目かぐらいであれば文法を解析する上で妥当な位置といえるだろうが、それ以降の順序については、ぱっと本のページに目を走らせただけでも様々な長さの文があることがわかるし、単純に頭から何番目かを記録しても意味はないだろう。だとすれば、先に助詞や助動詞などを見つけ出してしまって、それからそのうちのどれの前後にあるというふうにまとめるべきではないか。そんなことを考えていると、机の引き出しから取り出した、おそらく手紙でも書くためのものなのであろう、数十枚きりの紙に迂闊にハサミを入れるのも躊躇われてきてしまった。パソコンが使えないのがどうしても痛い。パソコンさえ使えれば、単語リストを表計算ソフトに書き込んでいってもいいし、なんならhtml形式でリストを作って解析プログラムを自分で作っちゃってもいい。パソコンさえ使えれば。げに、科学者というのは、パソコンを取り上げられた途端に何もできなくなってしまう、機械に依存した、機械に隷属した哀しき存在なのである。

 さて、今度こそ正しい作業の方法を整理しなければならない。単語の文中での位置を記録するためには助詞(日本語のてにをは)や前置詞(英語の"at"や"for"など)、冠詞(英語の"the"など)、助動詞(日本語の「~ている」や英語の"can"など)などの、名詞や動詞などの前後にくっついたり、それらの間に入ったりして単語同士の関係を指定し文脈を整えるもの、そういったものとの前後関係に注目したい。それらは、使用頻度の高さから短い音が用いられているはずだ。日本語の「においては」とか英語の"throughout"とか、そんな子なんて知らないし。とりあえず、文の先頭か二番目か文末かそれ以外かのいずれに現れたかを記すチェックボックス四つと、前後に隣接する五文字以内の単語を記す欄を二つ作ることにした。最後の二つの欄のために一枚のカードがだいぶ大きくなってしまい紙がもったいないが、いかんせん五文字以下の単語が本当に助詞や助動詞なのかもわからないし、またそうであったとしてもそれらを文中の大まかな位置や出現頻度だけから助詞ごと、助動詞ごとに分類する方法もわからない。何かもっと賢いやり方があるのかもしれないが、このまま悩んでいても「インスピレーション」が得られるとも限らない。頭が煮詰まる前に手を動かし始めたい。さしあたっては、空欄の大きさを決めるために、五文字以下の単語がどれくらいあるのかおよその当たりをつけるために簡易リストの作成だろうか。昨夜何とはなしに作っていた頻出単語のリストに書き足す形で早速作業に取り掛かることにした。

 言語学の専門家だったらもっと簡単にスマートに解読をやってのけるのだろうか。彼はもともと人間関係に積極的な性格ではなかったし、文系はウェーイって言うもんだという先入観をもってあえて彼らと関わろうとはしてこなかった。会社に入社し、同期とお昼を一緒に食べに行った時も、文系の連中が何語が話せるだのというのを話題にしている時に、

「あー、それだったら俺は、C言語とかできるよ」

と言って、数人のウケを取り、その他全員を微妙な顔にさしめたこともある。文系連中とはその後自然に疎遠になってしまった。まあ、たとえ言語学者と友人になっていたとしたって、ここに同席していないことには意味のないことなのだが。どれだけ非効率的であろうとも遠回りであろうとも、彼は彼ができるやり方でしかこの異世界の未知の言語を解読することはできないのだ。

(少しばかり注釈的なことを書かせてもらうと、未知の言語はこれこれこのように解読するのが正解だよというのを述べるのは、小説ではなく言語学の啓蒙書であり、それは私の書かんとしているものではない。私に専門的な知識がないので書けないというのもあるが。これは、偏ったある程度の知識しか持たないタクミという人物が与えられた状況でどのように考え振る舞うかを描いた物語だから。)


 慣れない文字と格闘していると、いつの間にか随分な時間が経っていたようで、使用人が扉をノックして入ってきたので腕時計を見るとすでに二時を回っていた。使用人の持ってきたお盆にはお茶とパンケーキのようなもの、それにクリームが添えられていた。少女の寝室の扉を叩くと、客間の方の物音に気がついていたのか、今度はすぐさま返事があり、出てきた少女の表情は朝見た時よりかは幾分かマシになっていた。使用人に日本語でお礼を言うと、曖昧な顔をして一礼し部屋を出て行った。それほど量もない昼食をまた無言でモソモソと平らげて、それから無言でお茶をすすりながら彼は少女に何と声をかければいいか、ぼんやりと悩んでいた。まだ彼女に披露できるほど、この異言語について何かがわかったわけではない。相手が研究者的な思考の持ち主であれば、些細な成果でもできる限り共有して議論していきたいところだが、それは期待できないだろう。

「スズさんは、ホビットの冒険とか、読んだことあります?あと、他に何でもいいけど、こういう魔法の世界が舞台の、本でも映画でもゲームでも漫画でも」

 少女は少しだけ驚いたように顔を上げて、それからボソボソと週刊少年誌で連載されている有名な漫画のタイトルをいくつか挙げた。タイトルは知っているが、残念ながら本編は読んだことがなかった。

「ああいうので、言葉で苦労するの、あんまり見たことない気がしますけど、ほら、ローファンタジーでもなんか適当な魔法とかでパッと通じるようになっちゃうの、昨日のメグ・イシアンさんみたいなの。あれ、でも思い返してみると不思議ですよねぇ。どういう仕組みだったんだろ。幻覚とか幻聴とか、基本元々頭の中にあるもので、できても誘導するぐらいかなと思ってましたけど」

そこでおずおずと少女も口を開いた。

「えと、だから魔法なんじゃないですか?あの人、自分のこと魔法使いだって言ってましたよね?」

「そう、魔法、魔法なんだよな。せめて執事さんが同じことできたらよかったんですけどね」

魔法というのは、何かを説明するものではない。

「スズさん、スズさんは、何か魔法使えます?」

はじめ怪訝な顔をしていた少女も、たっぷり五秒たってからそれが冗談だということを彼の表情から読み取って、「こっくりさんは、魔法って言ってもいいですか?」と返してきた。学校のクラスにそういう古めかしい占い遊びが好きな友人がいたのだという。

「ゲームとか映画とかだったら、異世界人とか宇宙人の言葉って、適当なアナグラムとか逆再生だったり、それこそファンタジーものだったらドイツ語とかラテン語とかだったりするんですよね」

 ドイツ語が日本のファンタジー作品で多用されるのはグリム童話のイメージだろうか。凝った作品だと、架空の言語を創作していたりもする。トールキンのエルフ語や、大作sci-fi映画の異星人語など、熱心なファンがそれで会話ができるほどに作り込まれているという。けれども登場人物がその異言語に悩まされるということは少なく、もともと母語か、または習得済みで物語がスタートするのだ。ご都合主義だと思ったことはないが、いざ自分がその異世界に放り込まれて言葉が通じないということを経験すると、それはそうだよなと妙に認識を改めることになってしまった。

 彼の方をチラチラと窺っていた少女がおずおずと聞いてきた。

「あの、この世界の言葉は、どうですか?」

どうやら朝食時の会話で彼が言葉を研究すると言っていたのを覚えていたらしい。

「ああ、まださっぱりです。とりあえず今わかっていることは、エイが肯定でニーが否定。メアドレーアが挨拶で、おはようかこんにちはかはわかんないですけど。それとセッチャンがトイレってことだけ」

彼はなるべく少女に不安を与えないように努めて明るく喋った。

「今は、あそこの本棚の本を使って、基礎的な単語のリスト作るのと、できれば文法も調べられたらいいんですけど。幸い使われてる文字はほとんどがアルファベットみたいな単純なやつでしたから、読む、っていうか見分けるのは簡単にできそうですけど」

漢字などの表意文字や、表音文字でもハングルのような複数の構成要素を組み合わせて一文字とするような、数千、数万、あるいはそれ以上の文字数を持つ文字体系であったなら、紙とペンしか使えないこの状況では、言語研究をテキストの解析から始めようとは思わなかったろう。親しくもない人と喋ることがどちらかというと得意ではない彼にとっては幸運なことだった。

「まあ、言葉がわからなくても、こうして十分な衣食住が確約されてるわけですし、どうしても困るってわけじゃないですけど。あれです。日本に帰る前にある程度会話できるようになれば、こんな未知の体験してるわけですし、この世界の観光もできるかもしれないじゃないですか」

 もちろんそんなことは考えていなかったし、ただ口から出まかせに喋っているだけで、実のところ本を手に取ってみたのも、その異国語を研究しようと思ったのも、何か手を動かしていないと落ち着かなかったから、他にすることが思いつかなかったからに過ぎない。昨晩のお手洗いの一件で恥ずかしい思いをして、片言でも喋れるようになりたいとは思ったが、強い危機感を抱いたというほどではなかった。しかし、自身が口にした楽観的な予測は大きな不安を呼び起こすものだった。考えてみれば、彼らが日本に帰れるという確約は無い。本当にメグ・イシアンの言う通りならば、彼女らの追跡が失敗に終われば彼らは帰る手段を失う。彼女に同行した男たちは武装していたし、その追跡に危険がないとも限らない。最悪の事態として、追跡が失敗したら、いつまでこの屋敷で客として世話になることができるかもわからないし、彼女が戻らなかったら、その時言葉が通じないままだったら。

 それ以上悲観的にならないよう(そうなったら少女の前で表情を取り繕えない)、彼は思考を中断した。


 悪い予想に不安を掻き立てられて、その不安が動機となって、昼食後はますます精力的に言語の解読に取り組んだ。いざという時に自分たちの食い扶持を自身で何とかできるようになっていなければならないし、身一つでこの異世界に迷い込んだ彼には元いた世界の科学知識ぐらいしか武器にできるものがないが、その武器はこの世界の言葉をある程度操れなくては使うこともできない。この屋敷の主人や他の貴族連中が学会のようなものでも作っていれば、知識人として食客にもなれるかもしれないが、それもこの世界の科学水準による。

 数学は、たとえ宇宙人が相手でも、同等以上の数学的知識があれば、記号の見た目は問題にならないという。式の中の記号、数字や変項(xなどで書かれる、変数とも呼ばれているやつら)、演算子(+などで書かれる、演算、写像を表すやつら)を猫ちゃんやリンゴの絵に置き換えても、その並び方からそれぞれの持つ意味を決定することができる。同等以上の数学的知識があれば、だが。大昔には、数式なんてものなかった。「1+1=2」と書く代わりに、「ある一つのものにもう一つのものを加えると二つのものになる」なんて書いていたのだ。+の記号が初めて使われたのは14世紀で、-の記号はその100年後、=の記号はさらに100年後だという。×や÷の記号は17世紀から、高校の数学で習う記号の登場など18世紀まで待たなければならない。記号の見た目と意味が分離したのは、数学が綺麗になれべられた記号になったのは、すなわち宇宙人が相手でも数学を議論できるようになったのは集合論や記号論理学によるものらしいが、それらは19世紀の産物だ。この産業革命以前ぽい見た目の世界で、数学だけ発展してたら超ラッキー。けれどもしかし、前近代的な貴族さんたちが使う言葉が修辞に彩られた詩歌のようなものだったら、式を書いて見せるだけでは理解してもらえないかもしれない。

 そもそも、もし貴族や知識階級の興味の対象が文学や神学、歴史、古典研究などだったら、彼の持っている先進的な科学知識なんて何の役にも立たない。そしたらどうしよう。腕時計を質に投資してもらって起業でもしようか。工房か農地でも経営すれば、何とかなるかもしれない。経験はないが、化学の知識はガラス製造などには応用できるだろうし、土壌改良や品種改良、接木など、聞きかじった程度の知識でも試行錯誤して行けば、きっとうまくいく。

 短期間のうちに事件が解決して帰国できればそれに越したことはないが、かの魔法具を奪った悪い男の追跡が長期に渡れば、いつまでもタダ飯食らいというのも気が引ける。もっと悪くして、取り返すことに失敗すれば、元の世界に帰る他の手段を探さなければならなくなったら。いざそうなってしまった時、会話ができるよう、交渉ができるよう、今のうちに言語を習得しておかなければならない。動機ができて、そしてどの程度まで会話ができるようになればいいかという目標も定まった。挨拶ができるだけではダメだし、腹が減ったと叫べるだけでも足りない。それなりの語彙と、それなりに複雑な構文を操れるようにならなければならない。二ヶ月以内には会話ができるようになって、それまでにメグが戻らなければ、何がしかをしてこの屋敷に世話になったお礼をしたい。

 そう思って気合いを入れれば、五文字以下の単語を見つけられる限り手で書き出すという気の遠くなる作業も続けようという気になる、というよりは、そう思わなければ続けられない。例えば英語に五文字以下の単語がどれほどあるか想像してみてほしい。ついでに、それらが見慣れぬ文字で書かれていて、文中に五文字以下の単語が出てくるたびに、その長大なリストと見比べて既出か新規かを確かめなければならないのだ。暇つぶしでやるには単調で意味不明で、しかし注意を要する。延々それだけをこなしていると、だんだん頭に霞がかかってくる。よく引き合いに出される、刑務所で穴を掘っては埋める、あの例えがよく当てはまる作業内容だ。もちろん本当に無意味というわけではなく、ただ紙の上をチカチカと瞬きながら転げまわる文字たちの意味がまだわからず、けれどその意味を調べるための作業であり、意義も必要性も明瞭なのだが。

 一人で黙々と作業しているうちに、頭にかかった霞の向こうから小人さんたちが現れて、彼の口からは独り言がぼそぼそと漏れ始めた。

「おっと、また君かい。そろそろ僕も君のこと覚えちゃったぞ」

「んん?君は新顔かな?ちょっと待ってくれ、今リストを確認するから。ほらここにあった……。いや、違うな。一文字違いとは、兄弟さんかな?」

「ふーむ、だんだん楽しくなってきたぞ。誰かが止めていいよって言ってくれたらすぐさまに止めたいな」

頭を二、三度振って、ついでにずっと机に向かっていたせいで凝り固まった肩をほぐそうと椅子に座ったまま大きく伸びをする。レターサイズの紙を埋めつくさんとする単語リストは、もう見るのもうんざりと思う反面、しかしそれは仕事が順調に進んでいることを示してもいて、喜ばしいことではあるのだ。新しい単語が発見されてリストに追加されるのも喜ばしい。喜ばしくないのは、どれだけの量を書き出せばいいのか、およその助詞、前置詞などの接置詞や冠詞の類を含めるには既に書き出してある百数十で十分なのか、あるいはその数十倍が必要なのか、それがわからず、また、ページを繰ってテキストを調べて行けばまだまだ新しい単語が次々に出てきて、終わりが見えないことだ。しかも彼の置かれた状況では、あといくつの単語を書き出したら紅茶を入れてプリンを食べるぞなんていうふうに自分を励ますこともできない。五文字以下の単語を書き出しているのは、これから作ろうとしている単語リストにおいて各単語の文中での位置を記録したいがためで、その指標となる接置詞などの品詞は使用頻度の高さから短い語が使われているだろうという予想に基づくものだが、もちろん冠詞や接置詞、代名詞以外にも五文字以下の単語はいくらでもあるだろうし、五文字よりも長い接置詞だっていくつもあるだろう。であるから、五文字以下の全ての単語を書き出すことは労力に見合わないし(そもそも何冊かの本を調べるだけでは不可能だろうし)、どこか適当なところで切り上げなければならない。

 では、その適当なところとは。単語カードにはスペースの節約のため、前後に隣接する五文字以下の単語を直接記載するのではなく、あらかじめ割り振られた数字を書き込もうと考えていた。それでもその書き込むための欄があまりにも小さすぎたら、ある同一の単語の前後に現れる五文字以下の単語の種類が多すぎたら、書き込みきれなくなるかもしれないので、どれぐらいの量があるのか見当をつけたかった。また、すでに書き出してある五文字以下単語に全て番号を振り、単語カードに十分に大きいスペースをとって、さらに新規の五文字以下の単語が出てくるたびに新しく番号を割り振っていくというのはあまり意味がない、というのは単語カードを作って文中で同じ位置を占めるもの同士、すなわち同じ品詞の単語同士をまとめることで文法を調べたいので、あまりに出現頻度の低い五文字以下単語をいちいち記載してもノイズにしかならない。出現頻度の高い五文字以下単語だけに1以上の番号を振って、出現頻度の低いものはその他として一緒くたに0を割り当てて記載すればいいが、しかし番号の振られたものが少なすぎると、多くの単語が0番の単語とのみ前後に隣接しているとなってはやはり意味がない。多すぎても少なすぎてもダメ。適当な短単語のリストとは、文中からある単語を選んだ時に、その単語がリストに含まれるか、またはそのリストに含まれる単語と隣接している確率がある一定以上になるという条件を満たし、かつできるだけ短いものがいい、ということになる。

 そんなことを考えながら紙と本をぼんやり眺めていたら、短単語リストの作成で注目すべきなのは五文字以下か六文字以上かということよりも、出現頻度と一文の中での散らばり具合だったのではという気がしてきた。腹の底の方から長い長い溜息が漏れてくる。実際、何か作業を始めてからその途中でもっといいやり方があったということに気づくというのは研究においてはよくあることだ。特に大学院時代の、何をどう研究するか全部自分で考えて決めなければならない時にはそうだった。紙をくしゃっと丸めてポイっと放る、ことはしない。この五文字以下の単語のリストにだって意味はあるし、出現頻度と分布をもとに新しい短単語リストを作るというのだって簡単にできるわけではない。パソコンが使えなくても、例えば本に直接色ペンで書き込むことができれば、頻出単語を順にマークしていけば(恐ろしく時間はかかるが)目的のリストを作ることもできようが、他人の本で、しかも貴重品かもしれないので、その手は使えない。どうしよう。このまま五文字以下という基準でリストを作ってしまうか、それとも新しくリストの作り方を考え直すべきか。

 窓の外を見れば、もうそろそろ夕日が差していて、すでに六時を回っていた。今朝から始めて、途中に昼休みを挟み、通算で七時間ほど作業していたことになるが、ちょうど良い切り上げどきだろう。慣れない文字とのにらめっこで、普段の仕事の倍も疲れた気がする。日が落ちてしまったら、ランプの灯火の下で仕事を続けるのもずっと効率が落ちるだろう。今日だけ根を詰めても、未知の言語の解読など一朝一夕でできるものではないし、今無理をしたら全体では余計に時間がかかってしまう。彼は椅子から立ち上がって大きく伸びをし、ついでに部屋の中をぐるぐると歩き回ってから窓辺へ行って外を眺めた。空には雲もなく澄み渡っていて、半分に欠けた月が太陽を追いかけてすでに空の頂上まで来ている。昨日、この異世界に突然迷い込んだのは、ちょうどこれぐらいの時間だったろうか。今頃、彼女らはどうしているだろうか。街のざわめきが聞こえてこないわけではないが、自動車の走る音がないのでやたらに静かで、風に揺れる木や虫の出す音がよく聞こえる。まだこの街の中にいるのか、それとも街の外まで出てしまっているのか、彼はこの街がどれくらいの大きさがあるのかも知らない。


 日が落ちてから間もなくして執事が夕食の準備ができたと呼びに来て、今度は少女も部屋から出て来たので、連れ立って食堂まで移動した。今日もやはり食堂で席に着いたのは彼らだけで、執事は先に少女を「コ・スズ」と呼んで椅子を引いて座らせてから、彼を上座に座らせた。出されたのはザワークラウトのような千切りにされた葉物野菜の漬物にスライス肉とナッツの炒め物、赤みがかった芋にハーブをまぶしてオーブンで焼いたもの、それに昨晩と同じくどっしりとしたパンとミルクティーだった。少女はチラチラと彼の方を窺っているようだったが、彼は昨晩に自分のテーブルマナーがそれほど間違っていないというのを確かめていたので、心に余裕を持って食べることができた(少女はどちらかというとマナーよりも見慣れぬ料理の味の方に不安を覚えていたのかもしれない)。スプーンとフォークを動かしながらポツポツと喋った感じでは、少女もだいぶ落ち着いてきたらしい。食後に出された果実酒を一口含んでアルコールに気がつき驚いたようだったが、彼が、

「まあいいんじゃないですか。多分そんなにアルコール度数はないし、一杯ぐらいだったら大丈夫だと思いますよ」

と言うと、ちびちびと舐めながら最後まで飲みきって、美味しい、気に入ったと言った。どうやら根は結構大胆で冒険好きらしい。

 部屋に戻ったところで、二人は衣装箱の中を改めて分別した。もともとクローゼットに入っていたシャツは彼にとっても少しだけ大きくて、少女が合わせようとすると袖がだいぶ余ったが、衣装箱には程よい大きさのものが数着入っていた。他には、ジャケットやチョッキ、袴のようなパンツ、部屋着と思われる白地で縁に白糸の刺繍の入ったパンツとローブなどが大小数点、。下着の類は、少なくとも二人に対しては同じサイズのものが用意されているようだった。それらを山分けしてそれぞれの寝室のクローゼットに運び込んだ。

 棒の先に小さな柔らかい丸いたわしがついたような歯ブラシで歯を磨いていたら、少女がおずおずと、今日はお風呂の準備はしてもらえなかったのかと尋ねてきた。昨晩は夕食の前に風呂を用意してもらえたが、今日にその気配はなく、現代日本のように風呂釜のスイッチを入れて給湯ボタンを押すというお手軽なものではないし、ここの文化ではどのくらいの頻度で風呂に入るのかもわからない。呼び鈴を引っ張れば誰かしらが来てくれて、衝立や棚の中の湯浴み用の桶を指差して見せればきっと風呂の用意をしてくれるだろうが、そのように頼んでみようかと提案したら、少女はしばらく黙って考えたのち、それならいいやと断った。

「今日は、タオルで拭いて着替えるだけで大丈夫ですから」

落ち着いてみれば、まだ学生ながらに分別もあるらしく、彼としても言葉の通じない相手に何かを頼むというのは勇気がいるので助かった。執事からは匂いがしたという気もしないし、かすかに香水らしい香りはしたが、それほど強くはなかったからそれでごまかしているというわけでもなさそうで、使用人でそれなりに風呂に入っているならば自分たち主人、客人連中はある程度の頻度で風呂に入れると期待できる。気温もそれほど高くはなく空気も湿ってはいないし、体を動かして汗をかいたということもないので我慢できる。

 少女がたらいとタオルを持って寝室に引っ込んだので、彼も早々に自分の寝室に移動した。寝室は本当に寝るため、着替えるためだけのスペースしかなくて、それが客間特有の間取りなのか、ここの文化圏で一般的なものなのか、そして夜更けにどこでどう過ごすのが通常なのか、そんなことは知れなかったが、彼としては広い空間よりも狭い穴ぐらのような場所の方が落ち着けるのだった。寝るにはまだ早いが、読める本も他の娯楽もないのだから仕方がない。寝巻きに着替えてベッドに寝転がり、ランプの代わりに小さなロウソクに火を灯して、そのゆらゆらと揺れる影を天井にぼんやりと眺めながら過ごした。普段は、つまり日本では、彼は六時か、遅くとも七時には会社を出て、帰りがけに買い物をしたりして、八時ごろに夕飯を作り、そのあとは小説を読んだりゲームをしたりアニメを見たり風呂に入ったりしながらゴロゴロ過ごすという生活を送っていた。今はその全てができないので、思索に耽るしかない。

 浮かんでくるのはこの不思議な世界や魔法のことでもメグらの追跡の行方でもなく、言葉の、短単語リストのことだ。単語カードを作るにあたって、ある単語が短単語リスト中のどれと前後に隣接しているかを記載したいのだから、つまりあらゆる単語が文中で短単語リスト中のいずれかと隣接していて欲しいのだから、文全体で、たかだか二単語を挟んでそのリストに含まれる単語が現れて欲しい、そのようなリストを作りたい。暗闇の中でインナーワールドに没入した彼の意識は、かく為すべく魔法の呪文(のように聞こえる専門用語)をプツプツと呟きだした(呪文みたいなものなので読み飛ばしてくれて構わない)。文は単語の列だ(日本の中等教育では数列以外の列は教えなかったと思うが、並べられるのは数に限らなくてもいいのだ)。世界中の本を全て集めても有限でしかないが、客間の本棚にある本だけでもその全てをくまなく調べ上げることは彼一人の手ではできないので、無限の長さの単語の列だと思っても良い(長さは考えない、という意味で)。集合V(vocabulary)の要素からなる列s = {s_i | s_i \in V, i \in \N}が与えられたとき、Vの部分集合A(adoposition)で\forall i \in \N, s_i \in A \lor s_{i + 1} \in A \lor s_{i + 2} \in Aとなるようなもののうち最も小さいものを求める効率的なアルゴリズムとは。もっと言えば、部分列{s_1, s_2, \dots, s_n | n \in \N}からそのようなAを予測するアルゴリズムとは。もっともっと言えば、数n \in \Nで得られたA(A_n)からn + 1で得られるべきA(A_{n + 1})を導き出すアルゴリズムとは。近似的にでもいいから、人の手でできるやつを。ちょっと難しすぎて、ノートを取らずにぼんやり考えているだけではわかりそうもない。二つの数m < nに対して、|A_m| \leq |A_n|だから、だから?列sの部分列{s_{m + 1}, s_{m + 2}, \dots, s_n}から得られたA_{mn}は、|A_m \cup A_{mn}| \geq |A_n|だから、だから、だから?集合Vの部分集合A'で\forall i \in \N, {s_i, s_{i + 1}, s_{i + 2}} \cap A' \neq \oとなるものの全体をC(candidates)として、数nで得られるものをC_nとして、そしたら\forall A'_m \in C_m, \exists A'_n \in C_n, A'_m \subseteq A'_nだから、C_m \supset C_nだから、難しくて眠くなってくる。そうか、A'_m \in C_mの内、|A'_m| > |A_m \cup A_{mn}|になるような奴は無視してよくて、ん?いや、s_m \in A_mかどうかで、ダメだ、わからなくなってきた。


 いつ意識を手放したのかは覚えていなかった。けれども、気が付いた時には彼は掛け布団を頭まですっぽりかぶっていて、サイドテーブルから腕時計を手繰り寄せて確認すると五時を過ぎたところだった。窓の外で空は明るくなっている。ふにゃーと鳴きながら思いっきり体を伸ばし、ベッドからするりと抜け出して窓辺へ歩いた。重くて少し固い窓を開けて空気の匂いを嗅いでみたら、すでに街が、人が目覚めている気配が漂ってきた。電灯がないから、夜が早く、そのぶん朝も早いのかもしれない。クローゼットから昨日の朝に執事が着ていたような組み合わせを一式引っ張り出して着替え、言語研究の続きに取り掛かるために表の客間に出た。

 頭を使う系の仕事は、少なくとも彼にとっては初めのうちが一番やる気に満ちている。ああしたら、こうしたらというのがポツポツ浮かんで来て、それらをいちいち試さずにはいられない。もちろんそういう場合の問題は簡単ではないから(簡単だったらあれこれ考える前に片付いてしまう)、思いついたもののほとんどは意味のあるものではないし、そのまま使えるものもあまりない。一週間から数週間そうやって熱中して取り組んで微々たる成果を出し、絞り尽くしたところでだんだん疲れて飽きてきて、停滞気味のままダラダラと続けつつ、無駄を省こうとあちこちを見直しているうちに突破口を見つけて一歩前進し、それが発破になってまたやる気が出て、そうやって少しづつ仕事をこなしていくのが常だった。

 今は、昨晩ベッドの中で思いついたことを早くしっかりと検討したい。それは、ある適当な長さの文章において二単語以下おきに現れるという条件を満たす短単語リスト(の候補)から、そこに単語を加える形でより長い文章でも同条件を満たす新しい短単語リストを作る方法についてだった。机の上に紙とペンを用意する。普段であればパソコンでノートをとるのだが、それは紙資源を無駄にしないためであって、この類の作業は手で式を書く方が捗ったりもするのだ。例えば、300単語の文章が与えられたら、その全ての単語がお互いに異なるものであったとしても、100単語の短単語リストを作ることができるし、重複して現れるものがあればもっと短いリストを作ることだってできるかもしれない。50単語からなるリストが得られたとしよう。元の文章の後ろに30単語継ぎ足した時、その330単語の文章から得られる短単語リストで最小のものは50+10単語以下ということになる。もしかしたら、継ぎ足された30単語には50単語の短単語リストに含まれるものはなく、代わりに、300単語の文章で得られるリストの候補のうちの55単語からなるものが330単語の文章でもそのまま条件を満たすかもしれない。であるから、300単語の文章で条件を満たすもののうち、60単語以下の短単語リストのみを考えれば良い、ということになる。ただし、この方法では、文章が長くなるにつれて条件を満たすリストの全体もどんどん大きくなってしまい、実質的ではなくなってしまう。

 そこで、全体の文章から適当な長さの文章をいくつか取り出して、それぞれにおいて独立に短単語リストを作り、複数のリストに共通して現れるものを選んで最終的なリストにするというのはどうだろう。全ての単語が文中で必ず短単語リスト中の単語と隣接している必要はないのだし、文章中で局所的に複数回現れる単語、例えばそこで話題になっているものを表す名詞なども弾くことができるだろう。リストを一回作るための文章の長さは、実際にやってみて、できるところまで、ということでいいだろう。初めに得られる個々のリストがあんまりにも短すぎたら最終的に得られるリストの信頼性も下がるかもしれないが、数十個の単語からなるリストを数個から数十個も作れば、それなりに妥当な短単語リストが得られると、直感的にはそう思う。五文字以下かつ出現頻度の高いものを集めて短単語リストとするよりもだいぶ苦労しそうだが、そのぶん後の単語の分類においては意義を発揮してくれるはずだ。

 書き出された短単語リストの作成の方法を改めて見直しながら、今度こそこの方法でいけるか、また途中で別のもっといい方法が浮かんで来はしないだろうかと思案した。昨日丸一日を潰してしまった五文字以下の単語の書き出しも決して無駄というわけではなかった。あれのおかげで文字をだいぶ見慣れたし、単語を見分ける速度もだいぶ早くなっているはずだ。しかしもちろん、そう何度も途中で別の方法に切り替えて初めっからやり直しをしたくはない。時間も紙も無駄になるし、何よりそれまでの作業の結果をポイしなければならないというのは精神的にものすごく疲労する。そしてそれはなかなか回復しない。昨日はまだ始めたばかりでやる気に溢れている状態だったからすぐに立ち直れたが、もしも一週間ほど作業した後でのことだったら、きっと三日間はふて寝したことだろう。

 ともあれ、この異言語研究はそれこそまだ始まったばかりで、短単語リストの作成もその中の小さな一過程でしかない。リストが完成したら今度は全単語の単語カードの作成があり、その単語カードを分類し、文法を解析し、各単語の意味を解読し。とにかくやらなければならないことはまだまだたくさんあるのだ。それらを全て自分の手でやらなければならないのだ。

「さーて、今日もお仕事頑張りますか」

幸いにして彼は仕事は嫌いではない。頭を働かせることのない単純作業の繰り返しは嫌いだが、この未知の言語の解読というのは見ようによってはクソ難しいパズルみたいなものだ。それに、クソ難しいと言っても、大学レベルの数学よりはずっと簡単だろう。剣と魔法で悪の魔王を打ち倒し世界を救うのとはどちらが難しいだろうか。そも難しさの種類が違うが、彼の目的はそう自分に言い聞かせて励ますことだった。そして、彼は紙とペンと本を机に広げて実際の作業に取り掛かった。

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