(6)
谷底まで落ち込んだ気分を引きずったまま、しかし生来の臆病者ゆえにズル休みなどできないわたしは、重い足取りで登校する。
しかし教室へ一歩足を踏み入れたわたしは、その場の空気が極限まで張りつめていることに気づき、おどろいた。
「みんな、だまされてるんだよ!」
「澤村さんがそんなことするわけないじゃん」
「言いがかりもいい加減にしろよ」
「姫花さん……そんな人だったんだ……幻滅~……」
この時間、いつもだったら半数ほどしか登校していないクラスメイトたちは、しかしほとんど勢揃いしている。もちろんその場にいなかったクラスメイトもいたけれど、大半がまだ朝の早い時間に顔を揃えていたのだった。
クラスメイトたちは教室の後部のスペースで半ば半円状となって、姫花さんを取り囲んでいた。姫花さんは至極悲しそうな顔をして、そして必死な形相でみんなに言葉を投げかける。
けれども周囲にいるクラスメイトたちの態度は冷淡に見えた。いや、単に冷静なだけなのか。しかし他人の心の内など読めないわたしには、判断がつかない。
しばらく凍りついたように教室の前部の出入り口で固まっているあいだにも、姫花さんとクラスメイトたちの言い合いは激しさを増して行った。
言い分はこうだ。姫花さんはみんな――つまりクラスメイトたち――がわたしにだまされていると言う。しかしクラスメイトたちはそんなことは信じない。当たり前だ。みんな、わたしの「催眠アプリ」によって意識や認識といったものが改変されているのだから。
だから、わたしはみんなの「友達」で――「友達」を悪く言う人に反感を覚えるのは、人間としてごく普通の反応なんだろう。
しばらくして先にわたしの存在に気づいたのは、姫花さんだった。
助けを求めるように視線を巡らせる中で、教室出入り口に立つわたしに気づいたようだった。
姫花さんは可憐な顔を般若の形相に変化させて、わたしに走り寄ろうとしたのか、円状に立つクラスメイトたちの輪に突進した。
しかし姫花さんの勢いにわたしがおののくより先に、クラスの男子が姫花さんの腕をつかんで止める。
「離してよ! あたし、澤村さんに言うことがあるの!」
「そんなの、ウソかもしれないし。信じられない」
「そうよ。澤村さんになにかするつもりなんじゃないの?」
クラスメイトはみんな、猜疑と敵意に満ちた目で姫花さんを見ていた。
わたしはそれが、なんだかひどく恐ろしいもののように思えて、なにも言えなかった。
そんなわたしの近くにクラスメイトの女子がやってくる。リア充女子グループのリーダー格で、「スミカ」という名前の女子だ。
「おはよ~澤村さん。大変なときに来ちゃったねえ」
スミカさんは背後でわたしを罵倒し、わめく姫花さんなどまるで存在しないかのような態度で、いつものように気安く声をかけてくれる。
わたしはそのギャップに当惑した。なにが起こっているかもわからなければ、なにをどうすればいいかもわからない。
急にポーンと黒い空間へ、ひとり放っぽり出されたような感覚だった。
「『催眠アプリ』とかいうの使ったんでしょ?! この卑怯者! サイテー!」
わめきたてる姫花さんを、クラスメイトたちはひたすら冷たい目で見ていた。
スミカさんも、ちらりと横目で後ろの輪の中に戻された姫花さんを見る。その目はとっても冷たくて、相手を軽蔑し切っているのがわかった。
なぜなら、昨日、わたしはそれを見たから。あのとき、わたしを見下ろす姫花さんと同じ目をしていたから。
相手を心底軽蔑し切って、まるでこんな汚物には触れたくない、という態度。
昨日の衝撃がフラッシュバックしそうになって、わたしの心臓は嫌な感じにドクドクと鼓動を刻んだ。
「あーあれね……澤村さんは気にしなくていいよ。姫花さんの頭がおかしいだけだから」
「……えっと……なにがあったの?」
「あ、そういえば昨日のグループトークは見てない?」
「ちょっと……昨日は疲れてて」
苦しまぎれに言い訳をするけれども、スミカさんはわたしの心の内までは見えていないようだった。
疲れていたのは本当だった。
あまりにも醜い、醜すぎる自分の姿を見せつけられて、真実をただ突きつけられただけだというのに、わたしはひとり落ち込んでいたのだ。もちろん、グループトークを覗き見る余裕なんてものはなかった。
そこへ行けば、クラスメイトたちは優しくしてくれるだろう。なぜなら、わたしと彼ら彼女らは「友達」だから。けれどもそれはわたしが「催眠アプリ」を駆使して生み出したもの。今ばかりはその事実と、対峙できるだけの心の体力はなかった。
昔はただあこがれるだけだった、キラキラとしたものたち。それが今やわたしを刺し殺すナイフと同じものになるなんて、一瞬前まで想像すらできていなかった。
浅はかな自分に吐き気がする。
しかし今は姫花さんのことだ。この異常事態にはどうやらわたしが関わっているらしい。
それを聞きだすべく、わたしの心の内に渦巻く煩悶を押し込んで、スミカさんに問うた。
「なにかあったの?」
「それがさー。姫花さんがなんか急に『みんなだまされてる』とか言い出して」
「それは……なんでそんなことに?」
「よくわかんないんだよね。『みんな目を覚まして』とかナントカ……マジイミフ」
困ったように笑うスミカさんを見ながら、わたしは足の先から血が引いて、氷のように冷たくなって行くような感覚に陥る。
「それでさ、サイテーなんだけど『澤村さんをイジメよう』みたいなこと言い出してきて……。でも澤村さんはウチらともクラスのみんなとも友達じゃん? そんなことできないし、姫花さんサイテーだなって思って」
わたしは、いつものようにお決まりの曖昧な笑いを浮かべることすらできなかった。
スミカさんはそれをわたしがショックを受けていると取ったらしい。あのときはヤンキー口調で怖かった彼女も、根は優しい人間なのだということを知っているわたしは、そんな反応を見て、心臓が滅茶苦茶に痛くなった。
「ごめん。澤村さんが登校する前にみんなで説得しようと思ったんだけど……姫花さん、ずーっと『だまされてる』しか言わなくってさ……話が全然進まなくって……」
わたしの鼓膜へと届いたスミカさんのセリフが、頭の中でガンガンと反響しているような気になった。
呼吸は浅く速くなって、背中を冷や汗が流れる。手足の先は冷たくなって、けれどもなんだか顔が熱いような気がした。
スミカさんが続けた言葉によると、グループトークで姫花さんの行状が共有された結果、このように学級会のような様相を呈しているのだとわかった。
そして、そんな風に姫花さんをみんなが責め立てる原因は――わたし。
わたしが、「催眠アプリ」を使ったから。
そして「催眠アプリ」を使わなければ、そもそも姫花さんはわたしに対して敵愾心を抱くこともなかっただろう。
だって、わたしは本来は空気。どこにでもいる、地味でブサイクな背景を埋めるだけの、モブキャラ。
そんなモブキャラがイジメられているところを見逃せなかったのは、みんながわたしのことを「友達」だと思っているから。
そうでなければもしかしたら、みんなは無視するか、あるいは姫花さんに同調していたかもしれない。
姫花さんが言うには、わたしは乙女ゲームの中ではいじめられっ子だったらしいし。きっと、そういう結末になったに違いない。
「みんな、目を覚まして! 澤村さんのこと、よく思い出して! 絶対、昔は仲良くなかったハズだよっ」
「昔はそうかもしれないけど、今は友達なんですけど?」
「そりゃだれとの交友だって遡ったら単なる赤の他人だと思うんだけど」
「目を覚ますのは姫花さんの方でしょ?」
「そうだそうだ」と周りにいたクラスメイトたちが同意する。
姫花さんはそんなクラスメイトたちの輪を悔しそうな顔で見やったあと、憎悪に満ちた目をわたしに向ける。
わたしはその視線にゾッとした。
わたしは空気だった。だから正にしろ負にしろ、強い感情を向けられることなんて今までなかった。
けれども、今、姫花さんは強い強い負の感情をわたしに向かって投げかけている。
それは、「殺意」と言ってしまっても良かった。
相手が憎くて仕方がない。
できることなら、殺してやりたい。
そんな感情がにじみ出るさまを見て、わたしはその場で窒息してしまいそうだった。
姫花さんは、別に間違ったことは言っていない。
どういう言葉を使ったかは未確認だが、たしかに「イジメをせよ」と言うのは、どうかと思う。
しかし、はじめにズルをしたのはわたしの方なのだ。
わたしは、震える手でポケットからスマートフォンを取り出した。手のひらは冷たい感覚なのに、なぜかじっとりと汗をかいていた。
「あっ」
姫花さんが小さく声を上げる。そしてもう一度わたしに向かって突進しようとして、失敗していた。
姫花さんにもわかったのだろう。
――わたしが「催眠アプリ」を使おうとしていることが。
「サイテー! 昨日あんだけ言ったのにまだそれ使う気なの?! 頭腐ってるんじゃないの?!」
わたしは姫花さんの言葉を無視して、「Sアプリ」のアイコンをタップし、「催眠アプリ」を立ち上げる。
横線が三本並んだメニューボタンをタップして、メニューを開く。
わたしの目的は、スマートフォンを中心点として指定した範囲へ一斉に催眠をかける機能。
姫花さんの声が大きくなる。クラスメイトたちもほとんど罵声に近い言葉を姫花さんに投げかける。
一触即発の空気が膨らんで――
わたしは、範囲を教室全体に届くようにしつつ、円の外に姫花さんがいるような状態になるよう調整する。そうやって指定を終えたあと、「一斉催眠」のボタンをタップした。
「みんな、姫花さんのしたことは忘れて。……それからチャイムが鳴るまでわたしと姫花さんのことは認識しないで。……席に戻って」
クラスメイトたちは急に動きを止めたかと思うと、次の瞬間には無言で歩き出していた。
生気のない目を前方へと向けて、それぞれの席へと向かって行く。
ガタガタとイスを引く音が響き渡る。
やがて、教室内で立っているのはわたしと姫花さんだけになった。
「はあ? なによそれ……恩でも売ったつもり?! この偽善者! やっぱり脳みそ腐ってるんじゃねーの?!」
姫花さんの言葉が、わたしに突き刺さる。
けれどもそれに傷つく権利など、きっとわたしには、ない。
「恩を売ったつもりはないよ」
「はあ? 意味わかんな……」
「それに――もう、これは使わない」
わたしはスマートフォンを持っていた腕を振り上げた。
姫花さんはそれにおどろいたのか、一歩うしろへと下がる。
わたしはそれに気を払うことなく――スマートフォンを床に叩きつけた。
ガラスの割れる音が響き渡る。
けれどもまだ、ホーム画面は正常に映っている。これではダメだ。
わたしはスマートフォンを拾い上げて、また床に叩きつけた。
それを何度も繰り返す。
拾う。叩きつける。ガラスの割れる音がする。拾う。叩きつける。やがて割れるガラス部もなくなる……。
そしてわたしのスマートフォンは動かなくなった。
姫花さんはそんなわたしをじっと見ていた。見ていたが、二の句が告げられないようだった。
わたしはクラスメイトたちの催眠が効いているあいだに、教室の縦長のロッカーから掃除道具を取り出し、床に砕け散ったガラス片を片づける。
気がつけば姫花さんは自分の席に戻って、窓の向こうをじっと見ていた。
わたしも、ホームルームが始まる前にと自分の席に腰を下ろす。
姫花さんはわたしの方をついぞ見なかったし、話しかけてもこなかった。
やがてチャイムが鳴り響いて、いつもの日常が始まった。
そしてわたしは――「空気」に戻った。
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