第23話 クリームパンと秘密の取引―2


 どこからか取り出した水筒に口をつけ、学院長は一息入れる。

 柔らかなハーブの香りに、アレイアも肩の力を抜いた。


「これは余談だが、彼がこしらえた“闇沼”のひとつなんて、強力すぎて誰も元に戻せなかったんだよ。鎮めて無害な池にするのに、ディナス大聖堂に協力を要請しなきゃいけなかったほどだ」

「な、なにもかもめちゃくちゃだったんですね……それは、今もだけど」


 重いため息をつくアレイアに、ダリアンは同情するような眼差しを寄越す。


「ログレス君の実力は、学院の全課程のとうに先へ進んでいた」

「卒院試験もその場で行ったんですか?」

「ああ。物は試しにと提案した、卒院試験でも最高難度と言われる術式――彼はそれをいとも容易く発動させてみせたんだ。しかも無駄な記述を省き、精度を高める自己流のアレンジつきでね」

「わあ……」

「担当者は、翌年から試験内容を厳しくすると燃えていたよ。気の毒にね」


 学院長は当時の学院生たちに祈るように手を組んだあと、少し表情を曇らせて続ける。


「当然、彼の処遇についての討論は激しいものになった。今すぐ王城の大闇術師に弟子入りさせるべき、力が暴走しないよう見張りをつけるべき……あとは、やはり年齢を考えほかの子供たちと同じように扱うべきなどね――」

「ダリアン先生は、なんておっしゃったんですか?」


 アレイアが目を好奇心に輝かせて聞くと、彼は苦笑して言った。


「ぼくはね、何をおいても本人の意思が重要だと訴えたんだ。だから謎多き少年に直接、その意を尋ねることにした。すると彼は、遠い舎を眺めて答えた――剣士課程の試験を受けた、エッド・アーテルという人物の合否を教えてほしい、とね」

「!」


 目を丸くしているアレイアを置いて、ダリアンは微笑ましいといった様子でうなずく。


「そこでもぼくは驚いたが、同時に直感したんだ。友の合否を気にするような子ならば、この学びの園から追い立てる必要はないとね」

「そうだったんですね……」


 入院時の秘話に、アレイアは胸が温かくなった。


「けれども、やはり普通の院生のようには扱えないという結論になってね。異例だが、結局――彼の“好きに”させるようにしたんだ」

「ええっ!?」

「あの通りの気まぐれ者だったし、権力者でも実力が下の者にはまったく敬意を払わない。一応渡しておいた時間割も、すべて無視。彼の興味を惹いたのは結局、大書庫の古き書物だけだったよ」


 当時は相当苦労させられたのだろう。ダリアンは広い肩を思い切りすくめた。

 

「それでもほかの機関にやるには惜しい人材だというのが、学院の総意でね。ぼくとしては、彼がせっかくの学院生活を楽しんでくれているのかが気がかりだった。今よりもずっと無口で取っつきにくく、その実力からほかの院生たちには煙たがられていたし」

「……」


 宿で見た師の暗い表情を思い出し、アレイアは居心地が悪くなる。この学び舎には、楽しい思い出だけが詰まっているのではないのだろう。


「そんな彼の支えになってくれたのは、快活な赤毛の剣士――エッド・アーテルだ。彼は、学院でも人気者でね。優秀という意味ではなく、その人柄に多くの院生が信頼を置いた」

「二人は、幼馴染なんですよね」

「そう。まさに光と影だ」


 面白がるように微笑み、ダリアンは腕組みをする。華奢な椅子の背が悲鳴をあげたが、構わずに語り続けた。


「大書庫に住み着いている“黒クモ”――彼の当時のあだ名さ。黒い胴衣で、梯子の上で書物に没頭していたものでね――と、唯一彼に物申すことができる田舎剣士のエッド。誰が見ても不思議な取り合わせの二人だが、ぼくは楽しく見守ったよ。お互いに足りない部分を補えるのは、理想の友人関係だからね」


 そこまでは明るかった声に、急に影が落ちる。


「……だから、のちに“勇者”となった彼の最期を耳にした時――ぼくを含め、学院関係者は相当な衝撃に見舞われたよ。栄えある職務に抜擢された当時の喜びようを、取り消したくなるくらいにね」

「あ……」


 この男はおそらく、エッドの恩師でもあるのだ。その親愛に溢れた瞳を見て、アレイアは今更その事実に気づく。


「立派な大闇術師になったとはいえ、ぼくにとってログレス君は教え子のひとりだ。親友を失った彼はどうしているのだろうと、毎日案じたよ。しばらく音信不通だったが、ぼくはどことも知らぬ地へ手紙を送り続けた。もし安らぐ場所がないなら、この学び舎に戻ってくるといい……とね」

「学院長……!」


 アレイアは蜂蜜色の瞳を潤ませ、こくこくとうなずいた。なんと親切な男なのだろう。そんな心のこもった書簡が毎度煖炉に放り込まれていたなどと、口が裂けても教えられない。


 湿っぽい空気を払拭すべく、アレイアは話題を変える。


「あの……そういえば、ウォレン先生は」

「おお! そうなんだよ。二人は紛れもなく同輩だ。師から聞いたのかい?」

「い、いえ。歳も同じくらいだし、もしかしたらと思っただけで」


 編入生のわずかな焦りように首を傾げつつも、ダリアンは天井を仰ぐ。


「しかし、気の合う間柄ではなかったからねえ。ウォレン君は当時の“高等闇術”で最高の成績を保持する院生だった。けれど、皆の賞賛の目はどこに向けられたか――聡い弟子の君なら、分かるだろう?」

「……はい」


 努力を重ねようと、上には上がいる。

 その果てしない階段を登り続けるのがどれほど大変なことか、理解できないアレイアではなかった。


「彼は何度も大書庫に赴き、正規の講義を受けて成績を示すようにと“黒クモ”に迫った。けれど、真面目な訴えは跳ね除けられ……彼が栄光をつかむ機会は、とうとう訪れなかったんだ」

「うわあ……」


 ウォレンの恨みに満ちた声を思い出し、アレイアは身震いした。たしかにそんな不真面目だった生徒が“教術師”として戻ってきたなら、怒りもするだろう。


「卒院直後、ウォレン君の熱意に根負けしたログレス君が、一度だけ手合わせに応じたことがあったよ」

「えっ」

「まあ、結果は……惜敗、とも言えないところだ。この件について、彼に直接訊かないようにとだけ忠告しておこう。残りわずかな学院生活を快適にしたいなら、ね」

「は、はい」


 強張った顔でうなずいたアレイアの耳に、すっかり聞き慣れた軽やかな鐘の音が届く。


「おや、もうこんな時間か。学院長が会議に遅れていくのは頂けないな。名残惜しいが、特別講義はここまでだ」

「あ――ありがとうございましたっ!」

「よかったらまた、学院長室にもお茶しにきてくれ。君の師は、なかなか捕まらないものでね」


 若々しいウインクを飛ばし、ダリアンは席を立つ。彼なりの速度で駆け出しはじめたが、数歩で足を止めてアレイアにふり向いた。


「そうそう、年末の試験だけど。“高等闇術”の実習は、レザーフォルト先生にお任せしようと思うんだ。今からの会議で提案してみるんだけどね」

「ええっ!? で、でも……」

「うん。一筋縄ではいかないだろうとは覚悟している。しかしね――」


 思惑に満ちた瞳を光らせ、学院の長は確信めいた口調で言った。


「大人には、大人の“交渉”というものがあるのさ」



 同日の夜。


 アレイアが宿に戻るや否や、待ち構えていたらしい師が言った。


「疲れていませんか、弟子よ。せっかく王都にいるのです、今夜は外で夕飯をと思うのですが、いかがでしょう?」

「……ど、どしたのあんた」


 やけに上機嫌なログレスに思わず一歩退がり、アレイアは目を丸くした。


「おや。僕が“ごきげん”だと、貴女にとって不都合がありますか?」

「ないけど……なんか不吉なことが起こりそうっていうか、とんでもない事態に巻き込まれそうな気がするっていうか……」

「でしたら、留守は任せます。僕はぶらぶらと大通りを散策してから、“厚焼きワイルドステーキタワー”で有名な店で食べてき」

「行きますっ!」


 “犬鬼”の俊敏さを遺憾なく発揮し、アレイアは師の黒い胴衣をつかむ。

 どこにあるのか未だに不明な物入れから、ぽろりとひとつの小箱がすべり落ちた。


「ん? なにこれ。“夢幻菓子店シュガードリーム、年末特別企画”――」



“限定水晶飴――脳までシビれる! 泡蟹の味噌味”



 上等なその小箱に刻印された文字から目を上げ、アレイアは師を見つめた。


「……ところでログレス。年末の試験、なにか担当するの?」

「貴女たちの課程の、実習部門を監督しますが」

「……」


 これが“大人の交渉”とは。



 甘くも汚れた世界を垣間見た気がし、若き闇術師はため息をついた。


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