第29話 風呂は二人で入るもの

 俺は今脱衣所に来ていた。

 扉を一枚隔てた浴室内には、菘がいる。

 菘が風呂に行ってから、一時間ほどが過ぎた。

 長風呂、と呼べる範疇ではあるものの、普段の菘はそこまで長時間湯船に浸かっているわけでもない。

 だから、気になった。覗きではない。


「菘? 生きてるか」

「……」

 

 ……反応がない。

 耳を澄ませる。菘がいるはずの浴室からは物音ひとつ聞こえない。

 のぼせて倒れてしまっていたりするのだろうか。


「おーい。返事しないと入るぞー」

「……」


 依然として菘からのレスポンスはなし。

 いよいよ、俺の中にも焦りが生じる。

 意を決してドアノブに手をかけた。扉を開く。暖かく湿った空気が顔を襲う。

 湯けむりの中、湯船に菘はいた。

 浴室入口に背を向けて湯船に身体を沈めていた菘は、顔だけをこちらに振り向いた。

 こちらを見ている菘は、当然のごとく倒れてもないないし、顔が異常に赤いとかもない。普通に元気そう。


「……ほんとに入ってきた」


 さして驚いた様子もなく、菘は声を反響させて言った。

 俺からは顔しか伺えないし、身体は湯に沈んでいるから見えない。だけど、正真正銘全裸の菘がそこにいる。

 さっさと退散すればいい話なのだろう。だけど、足が棒になったように動かない。

 見惚れている。現状はこの一言で表現できる。

 

「そんなに一緒に入りたかったなら、さっき断らなければよかったのに」

「心配して来たんだよ! 声かけても返事しないし」

「……聞こえなかったのよ」

「絶対嘘だろ……」


 菘は俺から視線をそらし正面を向いた。


「それで、どうするの?」

「なにが」

「入ってくるの?」

「………………様子、見に来ただけだから」

「今の間はなにかしらね」


 菘のクスクスと笑う声にエコーがかかる。

 どうするべきか。いや、きっとここは悩む場面ではない。こんな安い挑発には乗らず身を引くべきだ。誘いに乗ったところで、しっぺ返しがあるのは目に見えている。

 けれど、簡単に割り切ることができない。

 俺の存在など忘れているのか、菘はゆったりと入浴を楽しんでいる。

 湯船からはみ出した白い肩が、うなじが、俺を惑わしていた。

 

「なーんて、じょうだ」

「よし、入る」

「え」

「ちょっと待ってろ。服、脱ぐから」

「り、涼!? え、嘘、本当に言ってるの?」


 ギャアギャアと菘が何か騒いでいるが、俺は知らないふりをして一度扉を閉めた。

 そして衣類全てを脱いで直接洗濯機に放り込む。準備はできた。

 そして、もう一度浴室のドアノブに手を取った時だった。


「わかった! わかったわ。入ってくるのは、認める。だから、そこで後ろを向いていて」


 中にいた菘からそんなことを言われた。

 何を意図しての発言なのかはわからない。言われるがままに扉に背を向けた。

 すると、浴室の扉を菘が開いた。今、振り向けばあられもない姿の菘がいる。

 ドクドクと心臓が痛いぐらいに拍動している。

 目がチカチカしてきたあたりで、ついに視界がブラックアウトした。

 興奮のあまり、失明したか……。と思ったが、顔に布製の何かが巻きつけられていた。それがタオルだと気づくには少し時間を要した。


「菘さん? これは」

「……それを外さないなら、入ってきてもいいわよ」

「……わかった。でも、普通に怖いから手を引いてほしい」

「うん」


 菘が俺の手を握る。いつものひんやりとした手とは違い、暖かい。

 俺は菘に導かれ浴室内へ。視界情報が皆無なためか、やけに音が頭に響く。


「そこ、椅子があるから。そうそう」


 菘に案内されるがままに俺は椅子に腰を下ろした。

 なんだか、ソープというよりは介護みたいになっている。


「えと、じゃあとりあえず頭洗うわね?」

「あ、うん。よろしく」


 ぎこちない返事になってしまう。

 ボトルを数度プッシュした菘が俺の頭に触れた。そのままわしゃわしゃと泡立てる。

 視界もない上に、こうして人に洗髪されているとまるで美容院のようだ。

 ……いや、嘘だ。美容院はもっとリラックスしていて寝そうになる。

 対して今はどうだ? 完全に興奮している。とてもじゃないが、心を落ち着かせることなんてできない。


「あっ……」


 菘が声を漏らした。

 瞬間、背中を柔らかいものが掠めた。

 菘の胸は大きい。だから、意図せず当たってしまったのだろう。

 恥ずかしさを紛らわすためか、菘は俺の頭を激しくこすった。

 そして、勢いよくシャワーが頭皮にかけられた。


「……次は身体だけど」

「そもそも、目隠ししてても自分で洗えるぞ」

「……盲点だったわ」


 気づこうよ。そのくらい。


「でも、いいわ。私がやる」

「じゃあ、よろしく」


 菘がそう言うのだから、断る理由もない。

 そう思って答えたのだけれど、菘の洗い方に俺は驚かされることとなる。

 菘は手に泡を取って、そのまま手のひらで俺の背中を撫でた。


「なんでタオル使わないんだ?」


 てっきり、タオルでゴシゴシとこすられると思っていたので、その優しい感触に思わず疑問を口に出していた。


「あ、涼はタオル使う派? 私、タオル使うと肌が荒れるからいつも手で洗ってて」

「そういや、そうだったな……」

「え?」

「言われてみれば、中学の時そうしてたなって」

「……なんで思い出すのよ」


 俺と菘は、あろうことか中学まで一緒に風呂に入っていた。その時は、親公認――というのもおかしいけれど、成り行きから目隠しもしていなかった。

 その際に、俺は菘の身体の洗い方を目撃していたのだ。


「逆に菘は俺がタオル使うって覚えてなかったんだな」

「当たり前じゃない! だって、恥ずかしくてちゃんと見てなかったし……」


 あれ、これじゃあ俺だけ一方的に菘を視姦していた変態みたいだな。

 ん? でも前は俺の裸なんて見慣れている的なこと言ってたよな。あれは嘘か。

 わざとらしく菘は咳払いをして、話を仕切り直した。


「まあ、それはいいわ。それでどうする? やっぱり、タオル使う?」

「いや、じゃあ手でいいよ」

「わかった」


 俺の許可を得たことで、菘は洗体を再開した。まずは背中から。

 これは泡を介しているとはいえ、菘に身体を撫でまわされているのと何ら変わりない。

 しなやかな指が肌をなぞっていく感覚に、こそばゆさを覚える。

 それから、柔らかな球体が俺の背中に沿うように張り付いた。


「……あの、菘さん」

「なによ」

「当たってますよ」


 背中に感じる柔軟性に富んだモノの正体。それは菘の胸だ。それが今、俺の背中に押し付けられていた。肌と肌が直接混じり合い、フィットしている。

 俺の背中は泡まみれだ。だから、その柔らかさは滑らかに背中を行き来する。

 これではまるで、胸で背中を洗っているようだ。


「……っ」


 耳元で菘がうめく。苦しそう、なのではない。嬌声と言っていい声だ。


「こうしないと、前に届かないのよ」

「後ろから洗おうとするからだろ。前に回り込めば」


 と、ここまで言ってから気づいた。俺は当然だけれど、全裸だ。下半身までスッポンポン、生まれたままの姿をしている。

 こんなことなら、目だけではなく、腰にもタオルを巻いておくべきったかもしれない。

 

「……理解してもらえた?」


 俺の沈黙の意味をくみ取った菘が聞いてくる。


「だから、後ろから洗おうとしたら、近づかないといけないの。当てたくて当ててるんじゃないから……」


 言い訳がましく菘は言った。なら、そもそもこんなこと辞めればいいのに。

 けれど、俺はそれを口にしない。ずるいかもしれないが、沈黙してこの快楽を享受する。

 

「んっ……、ふぅ……」


 甲斐甲斐しくも菘は手を動かして、俺の腹面を洗う。

 菘が体勢を変える度、胸もそれにつられて俺の背中を擦る。

 はっきり言って、どうにかなりそうだ。

 物理的な感覚と耳から流入する菘の甘い声。それらが頭の中で渦巻き入り乱れて離れない。

 菘は突如、手を止めた。

 どうしたのかと、疑問に思っていると、菘は俺の身体に腕を回してきた。

 そして首筋に、ザラりとしたものが這った。


「ちょっ……」


 ただでさえ余裕がないのに、予想外の刺激に思わず声が出る。

 菘は俺の反応など歯牙にもかけず、それを続ける。

 初め、少しのざらつきと、ぬめりを持ったそれが何のか想像が及ばなかった。

 けれど、一瞬チクりと甘い痛みが首筋に走った時に、その正体をつかんだ。

 菘の舌だ。軽い痛みは、唇を押しつけて、そのまま甘嚙みしたのだろう。

 

「ふーっ……。んん、ちゅぱっ……」

「……っ、菘ストップ」

「……やだ」


 首筋から口を離すことなく、くぐもった声で菘は拒否。

 菘の口元から漏れる水音はどんどん激しさを増していく。

 それに合わせて、菘が俺を抱く力も強まり、痛いぐらいだ。

 少し暴れてしまったからだろうか。

 俺の視界を覆っていたタオルが外れてしまった。

 急に目の前が明るくなったので、目を瞬いた。直に慣れる。

 菘は俺の目隠しが外れてしまったことに気づいていないのか、いまだ俺の首筋に吸い付ている。


「はむっ……。ん、じゅる……、ぷはぁ……」


 目の前の鏡を見る。

 そこに写っているのは、椅子に座った俺。それから俺の背後で膝立ちになって、俺の身体にしがみつくようになっている菘。

 そして、必死になって俺の首筋に顔を埋めているその光景。

 鏡を通して、ある意味客観的に見たそれは、とても扇情的で。

 とどのつまり、エロかった。


「ふぇ……」


 唾液を伸ばしながら、俺の首筋からやっと口を離した菘は、俺と同じように鏡を見て絶句していた。

 鏡越しに目が合う。俺も菘も真っ赤な顔をしている。風呂だから、では説明のしようがないほどに鮮明な赤色をしていた。

 

「あー……」


 何を言えばいいのかわからない。

 ありがとう、でいいか? 多分、よくない。

 菘もしばし逡巡する様子を見せた。けれど、またすぐに俺の首元に唇を当てた。


「……まだ、続けるつもりか?」

「……」


 返事はない。これはつまり、無言の肯定というやつだろうか。

 そう思ったのだが、菘がそれから嚙みついてきたり、舌を這わせてくる気配はない。

 ただ、俺の首に顔を預けているだけ。

 

 それが、気絶している合図だと気付くには、若干の時間を要した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る