被害者 一

 五月十八日

 公民館を後にした私――宵村維純は、自転車で家への帰路を走っていた。

 ズキズキと、両足の膝頭が痛む。走る距離をなるべく短くしたかった私は、普段使わない近道を使う事にした。マンションと住宅があるだけの道。この道は、特段見通しが悪いわけでも、車通りが多いわけでもない。他の人からしたら、むしろすすんで使うであろう道なのだが・・・。

 ァアーーー。頭上から声が降ってくる。自転車で走ってる私の真横をベシャリ、と、スーツ姿の男が落ちてきた。勿論、人間ではない。私が小学生の頃には既に出没していて、特に何かするわけでもないが、このマンションの横を通る度に上から叫びながら降ってくる。私がこのマンション沿いの道をすすんで通らない理由は、無論こいつ――私は心の中で飛び降リーマンと呼んでいる――の所為だ。この程度の脅しには微塵も動じない自信があるのだが、問題はそこではなかった。

 マンションを通り過ぎて少し、住宅の近くの電柱に何か絡み付いてるのが視えた。電柱に抱きついている、否、巻きついているといったほうがしっくりくるであろう、手足の長い赤い服の女。私はその横を一瞥もせずに通り過ぎた。だが、女はどうやらこちらに興味を示したようだった。これは後でついてくるかもしれない。彼奴等は厄介な事に、その人間に霊力があるかどうかが分かるので、いくら知らんぷりをしてもついてくる事が多い。

 私がこの道を避ける一番の理由が、これだ。あのマンションに飛び降リーマンが長く居座っている所為か、ここらへんは霊界との境が若干脆い。この間行った笠見山やさっき行った児童センター程ではないにしても、街中でこういうスポットは少ない為、絶好の狩場として浮遊霊からの人気が高い。浮遊霊のほとんどは、悪戯感覚で脅かしてくる危険度の低い奴だが、かといって明確な殺意を抱いてる奴も少なくないので、近寄らないに越した事はないのだ。面倒だし。さっきの赤服はまあ、殺意とかは特に感じなかったので、放っておくとしよう。


 自宅の前に着いたので、自転車を止め、門を開ける。そこで、今日は母さんは飲み会だという事を思い出した。家に入らずにこのままコンビニに夕飯を買いに行こうと、再び自転車を漕ごうとした、その時。

 「あれ、維純ちゃん?」背後から私を呼ぶ声が聞こえた。

 振り向くと、見知った人物がいた。長い黒髪を背中まで伸ばした、整った顔立ちの少女。隣の家に住む幼馴染み――百目鬼どうめきりんだ。制服を着て家の門の前にいるので、今帰ってきたところだろう。

 「遅いね。また告白でもされてたの?」と聞くと、

 「告白だけでこんな時間にならないでしょ。部活だよ部活」と返された。冗談のつもりで言ったのだが、告白に特に言及しないあたり、日常茶飯事なのだろう。

 「あいかわらずモテるんだね」

 「何?羨ましいの?」きょとんとした顔で鈴が聞いてくる。ちなみに、彼女に悪気は一切ない。

 「いや別に・・・」

 興味ないけど、と続けようとしたが、私が羨んでいると勘違いしたのか、鈴が慰めるように言葉を遮ってきた。

 「維純ちゃんだってモテてるじゃん!幽霊に!」

 「・・・世界一虚しい倒置法やめてくれる?」

 あと、彼奴等が狙っているのは私のハートではない。ライフだ。

 「それはそうと、維純ちゃんどうしたのその膝の怪我!」

 「えっと、バイト中に転んでしまって・・・」

 「バイトやってんの!?何処で?」

 「・・・お寺・・・の、掃除」

 除霊をしてる事は言わない方がいいだろう。

 鈴は素直に信じてくれたようで、「何それ。小学生のお小遣い程度しか貰えなさそう」と呟いた。

 「あ、維純ちゃん靴紐縦結びになってるよ!両方とも!」

 「ああこれね。霊感体質の所為で・・・」

 「霊感体質の所為にしないの!結び方が悪いんでしょ?正しい結び方覚えようよ」

 「面倒」

 「もっと身だしなみに興味持とうよ・・・。まあ、維純ちゃん縦結び似合うからいいけどさ」

 「どういう事よ」

 鈴は私より二歳下だが、面倒見が良い。彼女がモテる理由は、容姿だけではないだろう。

 「維純ちゃんこれからまたどっか行くの?」

 私が再び自転車を漕ぐ体勢になってる事に気づいたのだろう、鈴が聞いてきた。

 「母さん今日飲み会だから。コンビニに行こうかと」

 「よかったらうちで食べない?今日お父さんもお母さんも遅いから、あたしが作るんだ」

 鈴の両親は共働きの上、帰りが遅い日が多いので、彼女が家事を代わりにする事が多い。料理にも慣れていて、私もご馳走になった事が何回かある。

 じゃあお言葉に甘えてと、今回も彼女の家でご馳走になる事にした。膝も痛いし。


 「そういえば、科峰ってバイトして大丈夫なの?」

 リビングの椅子に座っていると、一旦手が空いたのか、料理をしていた鈴がキッチンから出てきた。黄色いエプロンを付けていて、長い髪は後ろでひとつ結びにされていた。

 「特に禁止されてない。まあ、公立だしね」

 「へえー。進学校って禁止のイメージ。でも、何でバイトしてんの?維純ちゃん遊びまくるタイプでもないじゃん?」

 「えーと。・・・実は、来月から一人暮らしする事になって」

 「ええ、そうなの!?」

 「母さんが都内に転勤するから、引っ越すんだ。私はここに居残り。一応生活費は振り込んでくれるんだけど、何か頼りっぱなしも悪いじゃん?」

 本当はバイト自体は転勤の話が出る前からしていたが、その事は言わなかった。本当の理由を話したら、優しい彼女は心配してしまうだろう。

 「そこまでしなくていいんじゃないの?科峰ってほぼ毎日小テストとかあるんでしょ?勉強に集中したら?」

 「別に成績上位狙ってるわけじゃないし」

 そんな話をしていると、玄関から物音が聞こえてきた。

 「あ、はやにぃ帰ってきた」鈴はそう言って玄関の方を見る。

 しまった。この家には、彼もいるんだった。

 「ただいま」リビングのドアを開けて、彼女の兄――百目鬼どうめき疾風はやてが入ってきた。私と同じく、科峰高校に通う一年生だ。妹同様、整った顔立ち。加えて成績優秀、スポーツ万能というハイスペック人間なので、これまた妹と同様、異性からの人気が高い。彼と不意に目が合う。が、すぐに視線を逸らされた。

 「はや兄遅い!今日は塾無い日じゃん」

 「自習室で勉強してた。中間テスト近いし」

 「相変わらずガリ勉だなぁ・・・。てか、テスト近いって、維純ちゃんバイトしてて大丈夫なの?」

 「バイト?」そう言って疾風は、私に訝しげな視線を向けてきた。

 「お前に務まるバイトがあるのか?」

 「・・・まあ、接客とかじゃないし」

 彼と面と向かって話すのはいつぶりだろう。

 「ねーはや兄。科峰って進学校のくせにバイトOKなの?」

 「禁止はされていない・・・が、実際にバイトしてるのなんてこいつ位だろ。普通は勉強して成績上位を狙うか、部活で内申を狙うか、だ。バイトしたいんだったらうちみたいな進学校選ばないだろ普通」

 正論だ。

 その後鈴は料理に戻り、私と疾風はお互い無言で食卓についていた。何となく気まずい空気が流れる。結局鈴が料理を運んでくるまで、食卓はずっと無言だった。

 「二人とも静かだなー。もっと会話しようよ!はや兄、ちゃんと学校で維純ちゃんと話してあげてる?」

 夕飯を食べ始めてからずっと私や疾風に話を振っていた鈴が、呆れたように言う。

 「別に必要ないだろ」野菜炒めを口に運びながら、疾風が答えた。

 「もう、可哀想じゃん!どうせ一人でぽつんとしてるんだろうしさぁ」

 「いや、別に私は話し相手とかは・・・」私の言葉は鈴に完全に無視されていた。

 「もっと昔みたいにさぁ・・・」

 「そういうならお前が科峰来いよ。来年受験だろ」

 「無理だよ!あたしが偏差値七十越えの学校なんて!!雲の上どころか大気圏突入だよ!!てか、あたしが入学する時維純ちゃんもう高三じゃん!」

 「そうだな、お前、この間英語のテストマイナス二点とってたもんな」

 「え、マイナス・・・?」私はこのまま空気になり会話からフェードアウトしようと考えていたが、流石にこの発言は聞き流せなかった。鈴は恥ずかしそうに照れ笑いしながら答えた。

 「いやぁ・・・零点とった上に名前欄のローマ字のスペルを間違えてしまって・・・。あ、でもデータ上では零点になってたから!答案用紙にマイナス二点って書いたのは、先生の遊び心だと思う!」

 「遊び心じゃなくて注意喚起だろ・・・」疾風が洒落にならない、と言わんばかりの顔をして言う。

 「そうだ!維純ちゃん、家庭教師やってくれない!?」

 急に鈴がこちらに振り向き、聞いてきた。

 「へ!?」

 「あたし本当にやばいんよ。ちゃんと授業聞いてるのに、全然理解できなくて・・・」

 「えーと・・・学年首席の兄様あにさまには・・・」

 「俺はバイトなんかして余裕ぶっこいてる誰かと違って忙しいからな」そう言いながら、疾風はてきぱきと自分の食器を片付け、キッチンに持っていく。

 そして、「ごちそうさま」と言い残し、そのままリビングを出て行った。

 「ねえ、維純ちゃん、お願い!!中間テスト終わってからでいいから!」

 鈴の縋るような声が、リビングに響いた。

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