Episode3-A 結婚式には白いドレスで

 せっかくの休日。

 それなのに、いつもよりも早い時間に布団から這い出て、前日までに用意しておいたご祝儀(もちろん新札)がちゃんとバッグの中に入っているかを確認し、事前に予約を入れていた美容院までタクシーで向かって……といった具合に、今朝の望美(のぞみ)は大忙しだった。


 着慣れないパーティドレスに身を包み、ゲスト用の待機室にいる今現在だって、新郎新婦に対する純粋な祝福よりも、休日を丸一日潰されるという純粋な憂鬱の方が勝っていた。


 ちなみに、望美は新郎側のゲストとして招かれていた。

 新郎の広瀬(ひろせ)くんとは、当たり前だが同僚以下でも同僚以上の関係でもない。新婦とは面識すらなく、今日初めて彼女の顔を見ることになる。


 そう親しくないカップルの結婚式であるとはいえ、同じ部署の同僚たちは皆、出席だ。いや、同僚だけでなく、会社の重役たちの姿もすでにある。

 今後の会社生活のことを考えたら、自分一人だけ欠席するわけにはいかないのだ。


 憂鬱にも程がある”休日出勤”であるも、望美にはたった一つだけ今日の楽しみがあった。

 同じ部署の先輩にあたる、笑子(えみこ)さんのドレスアップした姿を見ることができるのだから。


 今年で三十三才になる笑子さんは、部署内だけでなく会社全体のアイドル、いやマドンナであった。

 マドンナポジションにいる女性は、ほぼ100%に近い確率で美人であるのが相場だが、笑子さんももれなく美人だった。


 笑子さんの美しさを望美が一言で表現するなら、”絵画の中にいるような美女”といったところか。

 望美が笑子さんに初めて会った時、ジョン・エヴァレット・ミレーの『オフィーリア』と彼女を重ね合わせずにはいられなかった。

 絵画『オフィーリア』自体は、ウィリアム・シェイクスピアの戯曲『ハムレット』における悲劇の場面を描いたものであるも、笑子さんはどこか儚げで切なげな……おそらく天性のものであるだろう、そんじょそこらの女には絶対に真似のできない独特の雰囲気があった。

 立ち振る舞いも上品で物腰柔らかなうえに、声まで透き通るように綺麗で、誰に対しても優しい笑子さんは、入社当時、なかなか仕事に慣れることができなかった望美に、白魚のような指先で資料を示しながら、懇切丁寧に理解できるまで仕事を教えてくれた。



 笑子さんは……”私のオフィーリア”は、どんな格好で来るんだろう? マナーだって完璧のうえ、すっごく綺麗だろうなぁ。ひょっとしたら、新婦よりも目立っちゃったりして……私は正直なところ、笑子さんの花嫁姿こそ、この目にしっかりと焼き付けたいんだけど…………笑子さん自身の結婚は”しばらくの間、無理っぽいし”……そもそも、笑子さんはどうして”あんな顔と身長だけの人”と付き合ってんだろ?



「ねえ、笑子さん、ちょっと遅くない? うちの部署でまだ来ていないのって、笑子さんだけだよね」

 隣に座っていた同僚・優姫(ゆうき)の声に、望美はハッと我に返り、そして頷いた。

 確かに遅い。

 というよりも、常に時間には余裕を持って行動している笑子さんなのに、同僚の大事な結婚式の日に遅れてくるなんてあり得ない。


 まさか、ここに来る途中の笑子さんに何かあったの? 例えば事故とか?


 望美の不吉な予感。

 しかし、その時、当の笑子さんが姿を見せた。


 彼女の登場に、ゲスト用の待機室の空気はサアッと変わった。そして、シンと静まり返った。


 望美は我が目を疑った。

 放送事故ものの映像が、自分の目に間違って届けられているのではと思わずにはいられなかった。


 笑子さんは美しかった。いつも以上に。

 だが、この場にいる者たちは――ゲストだけでなくスタッフまでもが、笑子さんの美しさに見惚れているわけではなかった。


 真っ白のドレス。

 しかも両肩をしっかり出しているうえ、胸元までもが開いたマーメイドラインの白いロングドレスを、笑子さんは身にまとっているのだから。


 結婚式において、ゲストの白は最大のタブーだ。

 白は花嫁だけの色。

 このことは望美とて、誰かに教わったり、ネット等で調べるまでもなく、暗黙の了解のごとく知っていた有名にも程があるタブーだ。


「うっそ、笑子さん、何考えてんの?」

 隣の優姫の声。

 優姫本人は小声のつもりであったらしいが、静まり返っていた待機室内に大きく響いてしまった。


 望美は、底意地の悪さを至る所で感じてしまう優姫のことは正直好きではなく、単なる仕事の同僚以上ならびに同僚以下の関係を崩さないよう、普段も当たり障りのない会話しかしなかった。

 しかし、今はこの優姫の言葉に同調せずにはいられない。


 何考えているんですか? というよりも、笑子さん、一体どうしちゃったんですか?

 

 当人である笑子さんの”青ざめた頬は強張り引き攣ってもいた”。

 彼女のその表情を見る限り、彼女自身も結婚式のゲストの白いドレスが最大のタブーであることは、理解しているに違いなかった。

 そうだ、あの笑子さんが知らないはずなどない。

 それなのに、なぜ――??



※※※


 

 挙式は無事に終わり、披露宴へと突入した。

 望美の席は、笑子さんの隣だった。


 他のテーブルの人たちが、笑子さんをチラチラ見ていることは、望美にも分かっていた。

 新郎新婦の親族たち――特に年配の人たちはもちろんのこと、まだ二十代前半の新婦の友人だと思われる女の子たちでさえ、チラチラとこっちを見て、ヒソヒソと耳打ちし合っていた。

 女の子たちの中には、演出を撮影する振りをして、新郎側のゲスト席にいる”白いドレスの女”をスマホの中におさめていると思われる者までいた。


 あの白いドレスの女は、”新郎と”どういった関係なのだろうか?

 二十代後半の新郎よりもおそらく年上で、新婦とは十才近くも年が離れているに違いない、白いドレスの女。


 まさか、新郎はあの女と付き合っていて……でも結婚するならやっぱり若い女の方がいいと手酷い捨て方をしたのだろうか?

 それとも、結婚前のちょっとした”つまみぐい”のつもりが、女の方が本気になり、自分こそが今日の花嫁であることを誇示せんとしているのだろうか?


 望美たちの隣のテーブルには、会社の重役たちが揃っていた。

 もちろん、重役たちも顔をしかめていた。

 望美たちの部署の長である青柳(あおやぎ)部長は、その重役席の方に着いていたも、今までに見たこともないほど苦々しい顔をしていた。


 だが、本日の主役である新郎新婦こそが、笑子さんの白いドレス姿に、荒れ狂う狂暴な嵐のごとく心を搔き乱されているに違いなかった。


 晴れやかな顔で登場したタキシード姿の広瀬くんは、笑子さんを見て、ギョッとしていた。

 彼の花嫁も、新郎側のゲストである”白いドレスを着た年上の女”を二度見し、唇を震わせていたのが遠目にも分かった。

 柔らかくほぐれていた彼女の表情が、みるみるうちに硬く、そして暗くなっていた。

 一生に一度のこの特別な日のために、磨き上げてきたであろう新婦ならではの美しさに陰りが射し始めていた。



 それでも、自分たちのために集まってくれた大勢のゲストのためか、これから生涯をともにする伴侶のためか、何よりも自分自身のためか、新郎新婦は必死で笑顔を――痛々しい笑顔を保ち続けようとしているのは明らかであった。



 歓談の時間となった。

 優姫がいち早く席を立ち、他の同僚も立ち上がった。

 彼女たちとともに新郎新婦の席まで行き、「おめでとうございます」と一言伝えるのが同僚として自然な流れであるだろう。

 しかし、自分までもが席を立ったなら、笑子さんも席を立たざるを得なくなる。


 望美は、笑子さんを守るためにも、このまま席に着いていることにした。

 しかし――

「ねえ、行かないの? 行こうよ。笑子さんも一緒に行きませんか?」と優姫が声をかけてきた。


 優姫の唇の端は上がっていた。

 この状況を明らかに面白がっている。

 何か厄介なことが起こるのを、性格の悪いこいつは望んでいるのだ。


 その時だった。

 青柳部長が隣のテーブルから、やって来た。

 話は面白くないし仕事も格別に出来るわけではないも、長身で顔もそこそこ整っているため外見だけはナイスミドルとも言える青柳部長。

 こんな時、青柳部長は見て見ぬふりを決め込むものだと望美は思っていた。

 だが、彼は笑子さんに言ったのだ。


「君はそろそろ失礼した方がいい」と。


 縋るような目で青柳部長を見上げた笑子さんは、コクリと頷いた。

 すでに潤んでいた彼女の瞳から涙が溢れた。

 ついに、笑子さんは顔を覆って泣き出した。


「え、笑子」と、”つい彼女の名前を呼んでしまった青柳部長”だけでなく、望美も慌てずにはいられなかった。


 笑子さんの涙を初めて見てしまったためではない。

 新郎側のゲスト席にいる”白いドレスの女”が、披露宴の最中に泣き出した。

 これはまずい。

 立ち上がった望美は、一分一秒でも早く、新郎新婦に気付かれないように、笑子さんを外へと連れ出そうとした。

 しかし、時はすでに遅かった。



「待てよ!!」

 会場に響き渡った広瀬くんの声に、望美は振り返った。

 彼は、泣きじゃくりながら自分を睨みつける新婦の手首をつかんでいた。

 新婦は”白いドレスの女の涙”を見てしまったのだ。


「誤解だ! 本当に俺だってワケが分から……」

 必死で釈明せんとする新郎の頬を、新婦の手が打った。



※※※



 離婚。

 結婚式前にすでに入籍を済ませていた広瀬くんと彼の妻の新婚生活は、一か月にも満たなかったそうだ。


 ヒステリー状態が続いた新婦は、彼女の両親ですら手がつけられないほどで荒れ狂ったらしい。

 なんとか彼女を落ち着かせんと――いや、何よりも自身の無実を証明せんとした広瀬くんであったも、滅茶苦茶となった結婚式の翌日に退職してしまった元凶(笑子さん)からは納得がいく言葉はもらえなかったとも……


 笑子さんがいなくなった会社に、今まで通り勤務し続けている望美であったが、あの日の笑子さんの行動は謎でしかなかった。

 笑子さんに会いたかったも、彼女はL〇NEのグループも退会し、電話も繋がらなくなってしまっていた。そのうえ、引っ越してしまったらしい。


 お昼の時間には、優姫が、結婚式に出席していなかった他部署の女性たちに、唇の端をあげてニタニタしながら「でも、本当にビックリ。笑子さんって、広瀬くんのこと好きだったんですかねぇ。普段はそんな素振り、全く見せていなかったのに」「まさか、某大手掲示板でしか見ないような修羅場をこの目で見ることになるとは思わなかったです。結婚式に白いドレスを着てくる非常識な人なんて、本当にいたんですねぇ。それが、あの笑子さんだったなんて(笑)」「笑子さんって会社のマドンナ扱いでしたけど、三十超えてもなかなか結婚できないことにコンプレックスを抱いてたのかもしれませんよ。それで、他人の結婚式であんな奇行に走っちゃったと。広瀬くんと彼の奥さん、いや元奥さん、ホントに可哀想(笑)」と、あの悪夢の日のことを身振り手振りを交えて詳しく話していた。

 そんな優姫に、殺意に近い憎悪すら望美は抱き始めていた。


 広瀬くんは「俺には非は全くない。だから、非のない俺が会社まで辞めるなんておかしいだろ。そもそも、俺は被害者だ」と言っていたが、やはり会社全体に噂が――”事実無根の様々な噂”が好き勝手に広まってしまい、居づらくなったらしく退職せざるを得なかった。


 退職後の広瀬くんと繋がっている他部署の男性同僚が言うには、大切な結婚式とこれから始まるはずであった幸せな結婚生活を、そして仕事も何もかもを壊され失うことになった広瀬くんならびに彼の両親が弁護士を雇い、笑子さんに多額の損害賠償を請求したらしいと。

 その額は笑子さんに払えるものではなく、笑子さんは夜の街で――ホステスなどではなく、ガチの風俗店で働き始めたらしいという噂までも、望美は耳にしてしまった。


 笑子さんが風俗嬢に? あの笑子さんが……私のオフィーリアが……!

 

 望美は焦った。

 一刻も早く、笑子さんの居場所を突き止めて会いに行かなきゃ! と――



※※※



 半月後の日曜日。

 望美は笑子さんが住むアパートのチャイムを鳴らした。


 笑子さんが前に住んでいた賃貸マンションは、とっくに引き払っていたため、彼女の今の住まいである”ここ”を探し当てるのはなかなかに骨が折れた。

 熟女風俗店『九尾の狐(きゅうびのきつね)』から”ここ”へと帰宅する、笑子さんを尾行し突き止めたのだ。

 突き止めた時点で、笑子さんとすぐにでも話をしたかったのだが、お仕事後はとても疲れているだろう、と望美は翌日である今日に出直すことにした。


 玄関から顔を出した笑子さんは、望美の顔を見て驚くとともに目を伏せた。

 そして「……ごめんなさい」とそのまま玄関の扉を閉めようとした。


「待ってください、笑子さん! お願いします。少しだけでいいんです。話をしたいんです!」


 笑子さんは望美を家の中に入れてくれた。


「……ありがとうございます。今日は”新しいお仕事”は、お休みなんですね?」


 望美は、あえて”新しいお仕事”と聞いた。

 全体的にやつれた笑子さんの肌の荒れ具合、そして、靴箱の上の花瓶に活けられた花も萎れ、部屋の中もどこか埃っぽいことから推測するに、”新しいお仕事”は笑子さんの身にも心にも合わないのだろう。


 笑子さんに促されて、テーブルに座った望美。

 彼女は紅茶を淹れてくれた。

 昼間の会社勤めをしていたころと変わらぬ、優雅な手つきで。


「……望美さん、あなたももう噂で知っているかもしれないけど……私、今、風俗店に勤めているのよ。広瀬くんに賠償金を払っていかなきゃいけないから……」


「笑子さん……」


「でも、当然よね。私は広瀬くんと彼の花嫁さんの幸せな未来を壊したんだもの。私はこうして報いを受けなきゃならないのよ」


「…………笑子さんほどの人が、他人の結婚式にあんな白いドレスで出席するなんて、どんな事態を引き起こすかは予測できたと思います。それなのになぜ、あんなことをしたんですか?」


 笑子さんは、俯いたまま答えなかった。

 いや、望美に答えるべき”偽りの回答”を自分の中で探していると最中であるのかもしれない。


「もしかして、当てつけですか? ”奥さんとなかなか別れてくれない青柳部長”に対しての……」


 笑子さんは、ビクッと両肩を震わせた。


「知っていたのね。やっぱり、あなたに話したのね。誰にも喋らないなんて、嘘だったんだ……」


「? 何を言っているんですか? 私は人から聞いたわけじゃありません」


「じゃあ、あなたが話したの?」


「私が誰に話したっていうんですか? いったい何を言って……」


 しかし、点と点がやっと一つの線で繋がりつつある。


「…………笑子さんは青柳部長との不倫を、”私以外の誰か”に知られてしまったんですね。でもなぜ、不倫には全く無関係の広瀬くんの結婚式で……」


 笑子さんの弱みを握った”何者か”は笑子さんに恨みを持つと同時に、広瀬くんにも恨みがあったのか?


 笑子さんが、涙が滲み始めた目頭を押さえた。


「……私と青柳部長とのことを、優姫さんに知られてしまったのよ。それだけじゃなくて、私と青柳部長がホテルから出る所も写真に撮られて……その写真を元に脅されたの」


 あの女!

 望美はギュッと拳を握りしめた。

 怒りで顔が燃えるように熱くなってきた。


 笑子さんは言葉を涙で詰まらせながらも、全てを話してくれた。


 最初、笑子さんはお金で解決しようとした。

 しかし、優姫は首を縦に振らなかった。


「お金なんて、要りませんよぉ。私、こう見えて、結構な”お嬢”なんで、お金には困っていないんです」


 それなら私は何をすればいいの、と笑子さんは聞いた。


「うーんと、何してもらいましょうか? この写真を会社の上層部や青柳部長のご自宅、さらには青柳部長のお嬢様たちが通っている中高一貫校に送り付けても面白そうですよねえ」


 お願いだからやめて、と笑子さんは泣きながら懇願した。


「自分が不倫しておきながら、それはないでしょう、笑子さん。一昔前と違って、今の時代は不倫に対する社会の風は厳しいってこと、賢い笑子さんが知らないはずはないですよね? ”不倫はいけないことであっても、気持ちを押さえきれないのが真実の愛”とかキモいこと言わないで下さいよ」

 

 ゲラゲラ笑った優姫はしばらく考えていた。

 そして――


「あ! そうだ……来月、広瀬くんの結婚式がありますよね。広瀬くんの結婚式に白いドレスを着てきてくださいよ。単に真っ白なだけじゃなくて、胸元までしっかり開いた露出度高めのものなら、なお良しです(笑)」


 笑子さんは、首を横に振った。 

 そんなこと、できるわけないわ! 広瀬くんや彼の花嫁さんに迷惑をかけるわよ。そもそも、広瀬くんはこの件には全く関係ないのに! と。


「まあ、確かにそうですね……それに私自身も、広瀬くんにも彼のお嫁さんにも何の恨みもないわけですけど、”私の結婚式じゃないから別にどうなろうといいかな”って、思っちゃうんですよね」


 優姫はなおも続けた。


「私、笑子さんのこと、入社した時から嫌いだったんです。おばさんのくせに、皆にちやほやされて、まるでこの会社には笑子さん以上の女は誰一人としていないって感じで……そんな綺麗で優しくてマナーも何もかも完璧な笑子さんが、他人の結婚式に白ドレスを着てくるなんて…………一度、非常識のレッテルを貼られてしまうと、これから先もずっと貼られ続けるに違いありませんねえ(笑) 私は”非常識のレッテルを貼られて晒し者になった笑子さん”を見てみたいんです(笑)」



 そういうことだったのか。

 優姫の狙いは、他人の結婚式という神聖な晴れの場で、笑子さんを晒し者にすることだったんだ。

 あの時の笑子さんの涙は、愛する男も含める大勢の前で晒し者となった屈辱と、何の罪もない気の毒な新郎新婦の門出の日にケチをつけた(結果的にケチをつけたどころの話では済まなくなったが)罪の苦しみによるものであったのだ。



「笑子さん……今からでも遅くはないと思います。理由があった……優姫に脅されて白いドレスで出席せざるを得なかったんだってことを、広瀬くん側にちゃんと説明しましょう。私も証言しますから! 私は笑子さんの味方ですから! だから、風俗は辞め……」


 笑子さんはゆっくりと首を横に振った。


「もう、いいのよ。私は報いを受けるべきだもの。理由が何であれ、私の選択で広瀬くんたちの幸せを壊してしまったことは事実よ。それに……あの人を――青柳部長を最後まで守ることができたことだけは良かったと思うの。私が青柳部長とも別れたうえ、こうなってしまった今、優姫さんだってこれ以上は脅してこようとはしないはずよ」


 その言葉を聞いた望美は、血が滲まんほどに拳を握りしめた。

 全身を熱く駆け巡る”凄まじい怒り”によって、今にも叫び出しそうだった。

 


※※※

 


 数刻後。

 望美の前には、頭から血を流した”笑子さん”が倒れていた。


 近くにあった置物で、”望美が殴りつけた”のだ。

 白いラグマットは、笑子さんの赤い血にみるみるうちに染まっていく。


 笑子さんは、即死ではなかった。

 そう、初めてのことなので加減は難しかったが、”まだ”この場では死なないように笑子さんを堅い置物で殴りつけたのだから。


 望美は笑子さんの両脇の下に手を入れて、彼女を浴室まで引きずっていこうとした。

 笑子さんの口元は苦痛と恐怖に歪み、望美の服には彼女の血がベッタリと付着した。


 ゼイゼイと息を切らせながらも、望美は瀕死の笑子さんの身体をなんとか浴槽の中に入れることができた。


 でも、これで終わりじゃない。

 望美は蛇口をひねった。

 冷たい水が血と混じり合いながら、浴槽を満たしていく。

 笑子さんの白魚のような指先がピクピクと動く。


 玄関の靴箱の上に、枯れたままの花が活けてあったことを思い出した望美は、花瓶を持ってきたうえに枯れた花を一本一本、笑子さんの身体にまぶすような感じで入れていった。


 けれども”あの絵”には程遠い、と望美は思う。

 本来なら、”笑子さんがいる場所は美しき自然の中にある川であるべきだし、笑子さんの周りの花たちだって、こんな枯れきって茶色に変色した花ではなく、色鮮やかなスミレ、パンジー、ヒナギク等々であるべき”だ。

 何より、ミレーが描いた絵画『オフィーリア』は、頭から血など流してはいないのだから。



「……ど……う……して……?」


 息も絶え絶えになりながら、死にゆくオフィーリアならぬ、”死にゆく笑子さん”は、望美へと問う。

 命乞いでもなければ、恨み言でもなく、自分の味方だと言っていた者が自分を殺そうとする理由を末期の彼女は知ろうとした。



「……私は笑子さんが不倫していたことを責めるつもりは一切ありません。不倫の恋なんて、古今東西の文学作品の題材にもなっているし、笑子さんと青柳部長は外見的にはお似合いで……つまりは”絵になる恋人たち”でしたから、実は密かに応援もしていたんですよ…………すべての話を聞かされた今、あなたを脅した優姫も、自分は全くの無傷のままの青柳部長も、正直、殺してやりたいほどです。でも、私が一番許せなくなったのは、笑子さん、あなたなんです」


 望美の目には涙が浮かんでいた。


「……笑子さんは風俗を続けていくつもりなんですよね? 私は風俗なんて行ったことないので、想像でしかないんですけど……風俗にはきっと、誰からも相手にされないような”気持ちの悪い男の人”だってやって来るんですよね? 笑子さんは、そんな男の人の前でも裸になって、体に触って、あるいは触らせてって感じなんですよね? ……私は笑子さんには”私のオフィーリア”のままでいて欲しいんです。いいえ、笑子さんは”私のオフィーリア”のままでいるべき女性なんです。だから……」


 望美の涙が静かに頬を伝う。

 浴槽の中の笑子さんの涙は、冷たくて赤い水と混じり合う。


「愛してます、笑子さん。私のオフィーリア」



――完――



【後書き】

 本作ですが、風俗関係のお仕事に従事している方々や利用者の皆様を、貶めるつもりは断じてございません。

 不快に思われる箇所も多々あるかと思いますが、表現の一環として、何卒ご了承くださいますようお願い申し上げます。

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