第33話 闇と思い出

 暗闇の中にいた。真っ暗闇だ。ディーンは瞬きをする。何も見えない。試しに自分の頬でもつねろうとする。が、どうやら何者かにがっちりと固定され、抱擁されているようだ。身動きが取れないかと体を捻ってみるが……だめだ。まるで拘束具をつけられたみたいだ。

 (そもそもここはどこだ?)

 ディーンはゆっくりと思考を回転させる。目まぐるしく変わる景色に、それでいてもう二度と変わりそうにない景色に彼は耐えなければならなかった。

(エネ大王が確か地面を拳で割った……、そのあと僕、を抱えた母さん、と僕らを抱えたおじいちゃん、が三人でその地面の隙間に入って……暗闇が訪れた。暗闇……、暗い……。液体の感覚は……ない。熱い感覚も、・・・……ない。落下しているような感じもするが・・・……それにしてはあまりにも重力を感じない。さっき一度高いところから飛ばされたから……わかる……。今はどこかに「落ちている」わけではない。でも確実にどこかに移動しているような感覚がある・・…・・どこだ・・・・? わからない・・……。あれ・・……音……?パチパチと・・……まるで火のような……音・・……。安らぐ・・……。・・…・・・・・・・・・・・いや、思考を放棄している場合じゃない…・・・・・・頭を働かせろディーン・オータス……。

地面の下は何があるんだ? そもそも地面の下にはエネルギーが隠されているんじゃなかったのか? この世のエネルギー元素である「ラヴ」を含んだ水があるのではなかったか? 勿論「ラブ」を合成した時に同じくらい排出される「エネ」もあるはずだが……。その「ラヴ」にも「エネ」にも溶けているのは水・・・?)


 彼の眼前に突如として光が現れ、それがやがて彼を包み込み、一瞬彼を包む母親とその母親を包む祖父の逞しい腕を垣間見ることができた。が、それは本当に、屋根から雫が落ちて地面に到達するほどのわずかな時間だけであった。一瞬にして彼は何もまた見えなくなった。自分自身でさえ認識できない。ただ目の前に光がある。

 美しい。

 ディーンは焼けるような、目が痛むような、それでいて温かい気持ちになる。

 闇の中では孤独だった。誰も見えなかった。自分自身でさえも。

 勿論今も、まぶしすぎて、何も見えない。でも、ただ「光がある」というだけで、世界はこんなにも輝いているのだ。

 ああ、僕は戻ってきたのだ。

 彼は無意識にそう、心の中で思った。彼は一度もこの場所に来たことが無かった。それでも彼は、思う。僕はここに戻ってきたのだ、と。


 光はやがて鮮明さを失い、だんだんと視界が晴れてくる。物事の輪郭が段々と見えてくる。熱を出した時に見るような、長い夢から覚めた後みたいに。

 ふわり、とどこかに着地した感触。彼を襲っていた不思議な、それでいて多少心地よい浮遊感はどこかに消えてしまった。

 不思議だ。彼はそのような気持ちにずっと昔、なったことがあった。覚えていないほどの昔だ。そうだ、まだ彼がまともに歩くことさえできなかった時分、彼はよくシリウスを、ティムを困らせていた。彼は夜になるとたびたび泣いた。記憶には失われているが、一度だけダカーサも彼を抱いたことがある。とはいえ、赤子の子守など一切したことのない彼女にとってそれは慣れない作業でしかなく、早々に匙を投げた。最も根気よく彼をあやしたのは意外にもティムだった。シリウスは既に息子を抱えていたため、ティムの良きアドバイザーとなったが、四六時中ディーンの面倒を見るわけにもいかなかった。

 大抵は城に住む女中がかわりばんこで彼をあやした。その時既に国家元首と言う過酷な職に就きながらも、ティムはディーンを度々世話した。彼はディーンが泣かないよう、様々な工夫をした。抱き、必要ならば背中をたたき、書類を流し見しながら、彼をゆすり、抱いた。

 ディーンは水槽の中に入れなかった。

 もともと水槽の中でしか生きられないレメディオスとティムの血を受け継ぐ彼は、当然ながら水槽の中で生きる者だと思われた。が、彼は形質としてティムの表現に強く影響された。もともとレメディオスの血は人間に対して劣性(顕性)であった。それはまだこの国では知られていないことであり(そもそもヒトとレメディオスの一族が交配したケースは文献上一度も記されておらず、神話や童話の中のみにその一端を垣間見ることができたが、それとて空想上の産物だった)、ディーン自身も気づいていなかった。もっともシリウスだけはそれに気づいていたが、結論として『第二世代以降が生まれないと、同時にサンプル数を増やさないと確定的なことは言えない』とティムに助言した。ティムはそれに納得した。

 レメディオスはたびたび彼をあやしたがった。水槽越しにじっとティムや女中が彼をあやすのを見て、毎晩毎晩うらやましがった。レメディオスはその要望を口にすることを憚らなかった。女中たちはレメディオスの前でわざとディーンをあやし、水槽ぎりぎりまで彼を近づけた。レメディオスは喜んで、彼を抱っこする真似事をした。調子に乗って彼女はたびたび歌を歌った。彼女の歌う曲は古い曲が多かった。気分が乗ってくると、大抵最後に子守唄を歌った。それはたびたびティムが禁じていたことだったが、彼女は自分に酔ってしまうと歯止めの利かないところがあった。そんなわけでディーンはおろか、彼を抱える女中までぱったりと眠ってしまうのである。女中は彼女がそんなそぶりを見せると、軽くいなすか、耳をふさぐのだが、彼女の歌声には敵わない。ダカーサが怒り、彼女自身は必死に怒りを隠していたみたいだが、彼女は機嫌が悪いと極端に口数が少なくなるため、すぐにわかるのだった。『覚醒薬』を持ってくる。起きた女中はレメディオスを叱責する。ダカーサも冷静に、それでいて無駄のない言葉で、あくまで「医者の観点から」といった論旨で彼女を諫めた。

 (わかりますか? 乳幼児はまだ一人では歩くことができません。 誰かが抱っこしている最中に床に落ちでもしたら、まちがいなく骨折します。そのような事故をあなたの無責任な行動で犯していいと思っているのですか? 今一度自分の行動を振り返ってください……。)

 そんな日の夜は大抵、ティムが甘い言葉で彼女を包むのだった。


 今日はまた騒がしいことをしたみたいだね……わかっているよ、君がどれだけこの子に触れたいかってこともね。わかるよ……うん……。でもディーンが床に落ちて骨折したら、もう彼は歩けない。自由に移動できなくなるんだ。君は重力をあまりわかっていないみたいだな。そうだ、ほらこうやって物を離すと落ちるだろう(彼は紙を一枚床に落とした)? それに君だって何かにぶつかって痛い思いをしたことがあるだろう? 床に落ちるとディーンは痛がるぞ? それでいいか? 良くないな。そうだな、君は心優しい人だ。ここにきても退屈なのはわかるが、無茶だけはしないでくれ。僕にとっても君にとっても、ディーンは大切な子なのだ。彼は僕の息子だということもあるが、この国の希望でもある。まったく新しい道を切り開く新しい存在となり得る。ここで我々の大いなる希望を詰んではいかないのだ……。わかるね……いい子だ。いつもこうやってガラス越しにしか君に触れることはできないが……ああそうだ、呪文があるな、僕たちには。

 なに、呪文をかけた? いつ? 呪文を毎日かけている? この子に? いつだ? 僕にはわからなかったぞ……。僕にもかけた? え? こうしてガラス越しにもかけられるって? ……君は面白いな。一枚の壁が隔てていても、呪文がかけられるなんてまさに君は天才だな……。


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