第9話 記憶の箱はただ写す、21世紀の精神異常者
僕たちはどこかの草原にいた。隣にはサクラ先生とグロリオサが僕と同じように草原の地面に寝ころんでいた。僕らはとりあえず起き上がった。なんだかひどく酔ったような気分がした。
前を見ると、そこには美しくて優しそうな女性が子供を連れて歩いていた。髪は長く、一つにまとめている。子供は最近歩けるようになったばかりのようで、よちよちと歩くが、まだおぼつかない足取りだ。この時僕ははっとした。グロリオサの髪色と目の前にいる女性の髪色がぴったり一致するのだ。僕の隣に住む大家さんの髪色は、少し暗い。ブラウンだ。しかし今目の前にいる女性は、綺麗なオレンジの髪色をしている。目の前の女性がグロリオサの母親であることは明白だった。正面からの顔はここからでは見づらいが、瞳もおそらくグロリオサと同じブラウンだろう。
やがて一人の男が、その女性と小さな子供を呼んだ。アセビ、と彼は言った気がした。
「アセビ?」と僕は小声でグロリオサに言ってみたが、彼女は真剣に目の前の人間(彼女の家族たちだ)を注視していたので、僕の声は耳に届かなかったみたいだった。
気づくと僕らはどこかの部屋にいた。僕らは取りたてて移動したわけでもないが、グロリオサもサクラ先生も僕の隣にいた。その家のどこかから、赤ん坊の泣き声が聞こえて来た。見ると、床に赤ちゃんがいた。まだ頭の毛さえ生えておらず、寝返りを打つことさえできない。
「随分可愛らしい」
僕はつぶやいてみた。それが幼き日のグロリオサであることは明白だった。大きくなった彼女はやはり僕の声など聞こえていないみたいだった。一心不乱に目の前の事象に集中している。僕も諦めて目の前で起こることに集中した。
泣いている赤ん坊の前に、彼女の母親がやってくる。彼女の母親は小さな赤ん坊に乳を吸わせた。手際が良く、無駄な動きが無い。すると赤ん坊は徐々に泣き止んだ。その部屋に先ほどの男性が入って来る。小さな子供も一緒だ。しかし、その子供は先ほど見たよりも少し大きくなっている。小学校の低学年か中学年と言ったところだろう。子供を膝に抱えた男性(グロリオサの父)と赤ん坊に乳を吸わせている女性(グロリオサの母)は何がしかを言い合っている。時に真剣な表情で、時には笑い合って。二人ともすごく幸せそうな表情だった。でもその会話までは聞こえない。この記憶には音声が一切ない。
ふと隣にいる大きくなった今のグロリオサを見ると、相変わらず彼女は真剣な表情で目の前の光景に全エネルギーを傾けて見ていた。自分の父と母が談笑している様子を、ひとつ残らず覚えていようとでも言うように。
突然、場面が変わった。何処かの道だった。先ほどの子供がまた少し大きくなっている。グロリオサの姉だ。十代の前半かそこらだろう、彼女はよちよち歩くちびのグロリオサを連れている。何処かの道だ。道の脇には黄色の花が咲いている。空は淡いピンクだ。グロリオサの姉は何かしらを歌いながら、彼女と手をつなぎゆっくり歩いている。空は光り輝いている。二人は光の指す方向へ歩いて行った。
やがて二人の姿は見えなくなった。またグロリオサたちの家に戻って来た。グロリオサはまだ、歩けるようになったばかりみたいだ。おそらく二歳か三歳かそこらだろう。家の中は騒然としている。母親は家にある物を全て片づけ、不要なものは庭で燃やした。父は何かを箱に入れていた。姉は日記と写真の整理をしていた。おそらく彼女の友達と写ったものだろう、彼女はそれを茶色の古めかしい巾着に入れた。家の中は慌ただしかった。グロリオサだけが静かにしていた。
そのうちに誰かがこの家の扉を叩いた。やけに乱暴なノックだった(その音はなぜか聞こえた)。扉を開けると二人の屈強な男と一人の小柄な男が部屋に入って来た。
小男が何かを喋った。彼女の父が小男に向かって何かを喋った。聞き取れない。小男は何かを言い返した。余裕たっぷりと。彼女の父は……驚いたことに、大きな魚を取り出した。鋭い魚だ(ここからでは少し遠いので品種の特定ができない)。彼女の父もまた、魚に精通していたのだろうか? 彼女の父はその魚を、後ろのドアにブッ刺した。何の脈絡も、モーションもなかった。文字通り力を込めて刺した。気づかれない程の素早い速さで。彼の一刺しでドアは壊れた。家が崩れて行った。たったひと突きで家が崩壊してしまうのは、実にあっけなく、美しい。
しかし悠長にしてはいられない。彼女の父は、グロリオサを抱き抱えた。彼女の母と姉の姿は既に無い。予めどこかから抜け出したのだろう。天井から蝋燭が落ちてきた。小男は完全に怖がっていたが(僕もびっくりした)、二人の屈強な男どもが小男の身を守るように仁王立ちしていた。彼女の父は手に持って行った魚でもう一回、壁を殴った。たちまち壁に穴が開いた。僕は感心した。彼女の父は細身で、筋肉もあまり無い。力の入れ方が絶妙に上手いのだろう。
彼女と彼女の父親は家の外に抜け出した。最後にもう一度、彼女の父は家の壁を外から殴った。忽ち家は壊れてしまった。中にいた男どもの一人が、やがて小男を抱えながら外に出て来た。彼の肩からは血が出ている。小男の額からも血が出ているが、明らかに大男の方が重傷そうだった。彼は捨て身で小男を守り抜いたのだ。
彼女の父は軽いため息をついた。子供を抱きかかえたまま、彼は膝眞づいた。次の瞬間、地面に向けて思いっきり魚を刺した。彼のどこにそんな力が潜んでいるのかは全くわからなかったが。次の瞬間、地面は割れ出した。
しかしその足止めも長くは持たなかった。大男は、なんなく二つの地面の間を飛び越えた。彼女の母と姉はどこに消えたのだろうか? きっとどこかにいるはずだ。彼女の父はグロリオサを抱きかかえたまま走った。幼きグロリオサは泣いた。母親と離れて悲しいのか、爆音に吃驚したのか、父が猛スピードで走っていることが怖いのか、それとも全部か。それでも彼女の父は歩みを止めなかった。最短距離で何処かを目指していた。彼女の父親は、もう一度地面を軽く魚で附いた。割れ目から一体の真っ平らな魚が出て来た。彼はその上に乗った。魚は猛スピードで前に進んだ。彼が乗っているのは何の魚なのか、どんな仕組みで乗っているのか、どうして魚が前に進むのか? 私にはわからないことだらけだった。
「君の父親は何者なんだ?」
僕は隣にいるグロリオサに聞いた。彼女は首を傾げた。かすかに笑っている。彼女の父親が華麗に追手から逃げる姿を見るのがさぞ痛快なのだろう。
大男は猛スピードで走っていた。人間離れした速さだ。しかし、魚に乗った彼女の父は無敵だった。人間が追い付ける速さでは無かった。どんどんと両者の距離は離されていった。僕たちは何もしなくても、彼女の父親と一緒に空間を移動した。この世界では何故か僕らは、歩かなくても移動できるみたいだった。
彼女の父親は林の中に逃げ込んだ。素早くポケットの中から何かを取り出した。暗くてよく見えなかったが、丸くて小さなものだった。それを細長い魚(剣のような魚だ)の口に詰め込み、高く放り投げた。魚はどこか林の茂みの中へ消えてしまった。彼は膝眞づいた。相当疲れていたのだろう、息が上がっている。グロリオサを抱えたまま、彼は木にもたれかかった。彼女は泣き止んでいた。父は懸命に、その手の中の子供を抱いていた。
静かな夜だった。空は黒かった。こんなにも黒い空を僕は初めて見たかもしれない。彼女の父は、幼きグロリオサを地面に寝かせた。いきなり、彼は自分が今まで乗ってきた魚で自分の左手を刺した。彼の左手からは血が出た。その血で、グロリオサの額の上に何がしかの模様を描いた。何だろう、良く見えない。円だ。左手の人差し指を丸く動かしているからわかる。それから何かの文字。暗くて見えない。これも円を描くように描いている。それから、何かの言葉をぶつぶつと唱えた。例によって声は聞こえない。次の瞬間、グロリオサの額が銀色に光った。彼はため息をついた。空も見上げた。長い溜息だった。彼は空を見上げた。
場面が変わった。何処かの山の中だった。また夜だ。同じ日の夜なのかは定かではない。空は暗い藍色だった。黒いフードとマントを被った人間が集まっている。数としては、小学校の一クラス分くらいだろうか。その真ん中には両手を縛られた人間が五人いた。彼らの前には発電所で見た大きな水槽があり(外に水槽があるのは不思議な光景だった)、水はなみなみと張られていた。その水は銀色だった。時々泡も立っている。
黒服の一人が、両手を縛られている男の首をナイフで傷つけた。男は六十歳くらいだろう、白髪で少し小柄だ。彼の首筋にナイフ跡ができた。綺麗な直線だった。そこからゆっくり血が出て来た。黒服はその血を人差し指に撮り、まるで絵の具でも扱うようにして、老人の額に血で文字を書いた。その文字列は円でできていた。なんて書いてあるのか、相変わらず僕達にはわからない。ちょうど見えない角度で書いているのだ。書き終わると、老人の額が銀色に光った。見ると頚からは血では無く銀色の液体が流れ出ていた。
「これって」と僕は思わず口にした。
「これは君が発電所で見た光景じゃないか?」
僕は隣の今のグロリオサに尋ねた。彼女は目を見開いて目の前の事象を見ていた。見たくないものを、しかし見なければならないものを見る目。彼女の目には意志が宿っていた。しかし相変わらず彼女には僕の声など届いていないようだった。ふとサクラ先生の方を見ると、先生は冷静に目の前で起こることを注視していた。先生は顔色一つ変えない。
老人の首から、銀色の液体はいくらでも流れて来た。やがて老人はぐったりとしてきた。彼の手足の筋肉は明らかに緩んでいる。だらんとして力が入っていない。やがて黒服の何人かで老人をどこかに運んだ。よく見ると、老人を十字架に貼り付けにしている。驚いたことに、彼ら黒服たちは、その十字架をまるきり逆さにして水槽の中に老人ごと刺した。むごい。むごいとしか言いようが無かった。老人は逆さのままはりつけにされていた。勿論、銀色の液体が流れたまま。その液体は老人の身体を伝い、水槽の中へと入っていく。
「記憶だ」と僕は口にした。考えるよりも前に言葉が出ていた。
「これがエネルギーなんだ」その後の展開はちゃんと読めていた。僕らはここから動くことが出来なかった。目をそらすこともできなかった。僕もグロリオサもサクラ先生も、目の前で起こることをしっかりと見届けていた。
水槽には五本の十字架が逆さまに掲げられた。五人とも同じ手順を踏んだ。彼女の母が同じように張りつけになった時、僕は思わず横目で隣にいる彼女を見た。彼女は泣いていた。何も言わずに目に涙だけ浮かべていた。彼女は目に溜まる涙を拭こうともせず、ただただ目の前のことに集中していた。僕も目の前を見た。彼女の母親は、先ほどの老人と同じように手足をだらりと伸ばした。
五人が死んだ。五人からは銀色の液体が絶えず流れている。それは未だとどまる事を知らない。黒服は水槽を囲み、その光景をただただ眺めている。黒服の一人が前に躍り出た。膝眞づき、お祈りをするように両手を組んだ。その者が何事かを唱えようとしたその時だった。
突然のことだった。ブーメランのようなものが飛んできて、後方にいた黒服の一人の首にそれが刺さった。忽ちその黒服は地面に倒れた。見ると、彼の首には細長い魚が刺さっている。彼の首からは本物の赤い血が流れた。他の黒服たちが一斉にその場から離れ、辺りを見回した。悠長にしている暇は無かった。すぐに二度目の奇襲が行われた。大地が揺れ、見る見るうちに地面が割れた。ごごごごごと言う地響きがあたりを襲った。
水しぶきが水槽から上がった。ぱしゃん、という小気味良い音がこの世界に広がる。とても静かな世界の中で、この音だけが心地よく響く。人々は立尽くすしかなかった。そこにいる、ただ一人を除いては。
巨大水槽の中からサメが出て来た。確かにそれは現実だった。そのサメは迷うことなく陸に上がって来た。人々はようやく声を荒げ逃げ出した。目の前に広がる光景をようやく頭で理解したのだ。
人々の逃げ惑う声がこの世界に広がる。この世界はやっと音を取り戻した。水槽の前でお祈りをするために膝眞づいていた黒服の男が飛んだ。並のジャンプ力じゃない。なんとその黒服は彼に近づいてきたサメを軽々と飛び越えてしまった。そのまま地面に着地し、彼はその辺にあった木の棒を拾ってサメの瞳めがけて投げた。的中した。おかげでサメは余計に暴れた。黒服たちは一斉に散った。中には鈍くさい者もいる。一人がサメの餌食に遭った。見るも無残に、そいつは足から順番にサメの口へと吸い込まれていった。ごきごきとそいつの骨が砕かれた。はっきりと耳に残るほど聞こえる。やがてその音は大きくなった。一番聞きたくない音が一番うるさくこの世を鳴らす。
あああああああああ。誰かの叫び声がこだまする。四方八方から聞こえる。
地面はもう一度揺れる。その揺れも、しっかりとした大きな音として聞くことが出来る。ごごごごごごごごと。この世の「耳」が回復したみたいだ。
空は黒い。久々に空が歌う。
『21世紀の精神異常者』。
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