第7話 断片的な記憶、魚のバラード

 僕は時折テレパシーテレビを付け、ぼんやりと一日を過ごした。テレビで流れるのは全て半日前の出来事か、害のないつまらないバラエティだった。新聞にもたいしたことは書いていない。発電所のことが何か載っているかと思ったが、そうでもなかった。何とかという村の何とかと言うおばさんが小学生を相手にボランティアをしたとか、何とかという公務員が何とかという町の声に答えて橋の建設に携わったとか、そんな話しか書いていなかった。


 昼になっても彼女は帰って来なかった。僕は昨日採って来たばかりの生魚に醤油とワサビをつけて食べ、また眠ってしまった。なんだかひどく眠かった。

 夕方に彼女は帰って来た。僕は彼女が帰ってきたことに初め気づかなかった。彼女が顔を洗うために洗面所で水を出した時、僕は彼女がいることに初めて気づいた。


「どこに行ってた?」僕は半分しか開いていない口で彼女に言った。

「いろんな所。私の記憶に訴えかけるような所」やけに素敵な言い回しだ。

「何か収穫はあった?」彼女は首を振った。

「今日は何も。明日は出来たら歩いて宿を変えたい」

「何かあったのか?」

「お父さんを探すためにいろいろ聞いて回ったけど、その」

彼女はそこで黙った。言葉が途切れて消えてしまった。ぽっかりと。誰かが理不尽に彼女の言葉を奪ったみたいだった。僕は彼女の頭を撫でた。

「明日歩けばいい、歩いてまた手がかりを探せばいい」僕が彼女の頭を撫でている間、自分の胸の辺りに彼女の息を感じた。きっと今泣けたら君は楽なんだろうな。

「すぐ見つかる訳じゃない。地道にやるしかない。明日は僕もいる」

「そうね」僕は彼女に紅茶を淹れた。

「僕も気が遣える人間なんだ、実は」彼女は少しだけ笑った。

 その日、僕らは同じ布団で寝た。


 目を覚ますと彼女はまだ寝ていた。昨日一日中ホテルにいたからか、僕の身体は随分軽かった。足も少しずつ赤みが戻ってきていた。僕と違って、彼女は昨日街を歩き回っていたから、だいぶお疲れのようだ。僕は彼女を寝かせておき、その間にいくつかの魚を調理した。調理と言ってもそれは一口大に切り、昨日の朝食でホテルからくすねた醤油をかけ、タッパーに詰めただけだ。「調理」が終わってテレビを見ていると彼女は起きた。


「おはよう、勇者さん」

彼女は僕の言葉に何も反応しなかった。おそらくすごく眠いのだろう。しばらく彼女はぼんやりと真正面の壁を見ていた。

「今日は隣町に行こう」僕はニュースを見ながら言った。相変わらず平和でとことん退屈なニュースしかやっていない。発電所があんなにも見事に壊れたが、それについての言及はされていないみたいだ。そんなもの元から無かった、とでも言うように。

「君のお父さんを探しに」

「うん」

「君のお父さんの手がかりは何かあるのかい?」

「確か、お父さんは『サウレ』と呼ばれていた。黒髪で長身。皆からよくみんなに話しかけられていた。知らない人も赤ちゃんも父さんにすぐ懐いていた。でもいつも何か隠していた。なんていうか、その、他の人、特に今の母には頭が上がらないみたいだった」

「例えばどんな風に?」

「……」 

 五秒の沈黙。


「いつも何かに隠れるように小さな声で話していた。今の母は父に、少し度が過ぎるくらい何かをいつも要求していた。例えば、そう、布巾を持って来てだとか、庭の草をむしって欲しいとか、野菜を収穫して欲しいとか。一つ一つは些細なことを命じたの。でもその些細なことが一日に何度も何度もあると、さすがに普通の人ってめげちゃうじゃない、しかもやってくれて当然だと思われている環境の中で。でも父はめげないの。どんなに言われても、言われたことをやるの。お陰で今の母は太っているけれど、父はずっと痩せていた。父は完全にオーバーワークだった。子供心には、もっと父に構ってほしかった。でもある日、いつものように仕事で町を離れると言って出て行って、それきりになった」

「その時に君の姉はいたのかい?」

「いないわ」と彼女は短く言った。

「私には姉の記憶が断片的にしかない。かなり古い記憶だと思う。姉は前の母と同時に……、殺されているから……」

「言いたくないならいいけれど」と僕は前置きし、

「発電所で君は何を見たんだ?」

「私が? 見た?」

「あのどでかい水槽のある部屋で君は何を見たんだ? あの時君は相当に乱れていた。演技とは思えないほどね。でも、僕にはあの時、なにも見えちゃいなかった。なんにも、ね。君はただ宙に向かって叫んでいたし、宙に向かって物を投げてたんだぜ、実際の話」

「いいえ、ちゃんと存在していたわ」と彼女はきっぱり言った。

「あなたが何も見えなかったのは何か他の理由があるんだと思う。記憶を保持している人にしか見えないとかね。あの場所には確かに私の姉も母もいた。黒いフードを被った人間どもに殺されたのよ。発電所の死体になっている五人は全て、その黒服に殺された。あの水槽の上で、五人は毎日殺されているみたい。あの五人は犠牲になった。この世のエネルギーを作るために」

「この世の、エネルギー?」

 彼女は頷いた。


「あの発電所のエネルギー源は、あの五人の中にある何か。それが何かはわからない。あの五人は多くの記憶と秘密を飲み込んだまま、この世界を作っている人物たちに殺されてしまった。それがあの黒服たちの狙いだったのかもしれない。でも姉は、おそらく父も、抵抗した。少ない希望を私に託して。彼らが出来る唯一の方法は、記憶を別の箱に保管し、ついでに一部を私にも託すことだった」

「黒服の人間たちのことは覚えているかい?」彼女は首を振った。

「残念ながら、彼らは頭まですっぽり入る目だし帽とマントを着ていた。誰かまでは正確に分からない。でも目星はついている」


 彼女は発電所からくすねて来た本を出し、かなり手際よくあるページを開いた。そこには発電所建設に関わった人物として、この土地の首相と教皇が載っていた。


「この人物に関係があると思う、おそらく」

「参ったね」どうやら僕は、知らず知らずにこの土地で一番の権力者に歯向かっていたらしい。

「政府は五人の犠牲のもとに、この世の平和を守ろうとした。そういう解釈でいいかな?」

「大筋には」

「今のところ」と僕が付け加えた。


 僕らはその日の午前中にその村を後にした。ホテルの朝食はおいしかったし、ふかふかのベッドはかなり名残惜しかったが、仕方ない。ホテルのフロントはすぐに隣町に行けると言ったが、僕たちの歩みが遅いのか、そのフロントの歩みが早いのか、その日のうちにはたどり着けなかった。

宿は見つからなかったので、適当な公園に寝袋を敷いて寝た。空は紫だった。音楽は鳴らない。そういえば随分ともう音楽を聞いていない気がする。何でもいいから曲が聞きたかった。

 

「君、何か知っている曲でもある?」僕は寝ながら彼女に尋ねた。目の前には紫の空しか広がっていない。

「そうねえ、『クジラのバラード』なんてどうかしら、良い曲よ、すごく」

「知らないな」

「真っ赤な、太陽が、沈む、海に、大きなクジラが、のんびり、暮らしてた」

「良い曲だ」彼女の歌からは正確な音程はわかりかねたが、歌詞はなかなか良かった。

「あなたは何か歌えないの?」

「歌えないね、何か歌を覚えたいな」

「作ればいいじゃない」と彼女はこともなげに言った。

「何を?」

「歌をよ、歌える歌が無いなら作ればいいじゃない。その方が簡単よ」

「君って本当にすごいよね」

「何でもいいのよ、だってヒットする曲を作るわけじゃないんだから。気楽に考えればいいのよ」

「やってみるよ」僕は最初に浮かんだ言葉をとにかく口にしてみた。


「アイナメ、イサキ、カツオはいいね。温かくなってきたよ、ほらとても美味しそう。スルメもタコもツブもある、近頃の子はツブ焼きを知らない、あれはとっても美味しいな」


「いいわね」

「もっとこれから暑くなる、アジもアナゴも良い魚、アワビはあなたに似合わない、マグロ位なら手が届く、僕は毎日もずくだよ」

「よくそんなにすらすら出てくるわね」と彼女が突っ込んだが、僕は無視した。

「少し肌寒い秋刀魚かな。熱々牡蛎鍋美味しいな、お腹が痛くなっちゃうよ。カレイもタイも踊ってる、これからどんどん寒くなる」

僕は最後まで歌い切った。

「サケは寒くなってから、アジ、サバ、ワカサギ、豪華な正月迎えましょう、金目鯛はとてもかわいい。フグも怒ると可愛いね」

「最高」と彼女は言って笑った。

「帰ったらレコード会社に連絡してみたら?」

「そうしてみるよ」と僕は言った。幾分気が紛れた気がした。


 次の村に着いたのは翌日の昼頃だった。そこでいったん宿を見つけ、それから彼女のお父さんを探しに行くことにした。


「部屋は二つお取りしますか?」フロントの、四十代くらいの細身の女性が聞いてきた。

「一つでいい」と彼女は僕に小声で言った。

「あまり男と一緒にいるべきじゃない」

「あなたはいいのよ。あなたが何をしてようと、私は何も感じないし。なんなら、私だけ部屋を出ていくから、その間にあなたの用事を済ませればいいのよ」

「随分義務的だな」

「だってお金が勿体ないでしょう? あなたは最近お仕事していないし」

「こう見えて、歩きながら珍しい魚を探しているんだ。常にアンテナを張っている。この地方の珍しい魚があればそれを論文にする」

「なるほどね。それで、収穫はあったの?」痛いところをつく。僕は両手を広げて見せた。

「きっと見つかるわよ」彼女にしては珍しく優しい言い方だった。


 午後からは聞き込み調査を行うことにした。

「この本に私の父の写真が載っているから、それを見せる。それで、この人を見かけませんでしたか、って言うだけ。正直にね。私は父を探しているんだもの、皆何も不思議には思わない」

「なるほど。じゃあ僕は怪しまれるかもしれないな」

「私と一緒にいれば大丈夫よ」なんだか僕が彼女の側にいる意義がわからなくなってきたが、彼女は僕が手伝ってくれることに対してかなり喜んでいるみたいだった。

「まずは、そうね、役所に行くわよ」

「取り合ってくれるかな」

「さあ? でも、昼間にしか行けない場所だから」確かにその通りだった。


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