生きとし生けるすべての者へ生の祝福と喝采を
阿部 梅吉
第1話 遠く、発電所から鈴の音が聞こえたよ
記憶は固執する。それは古い記憶なのだろう、僕がまだ幼かった頃に一度だけ虹を見たことがある。色とりどりに光輝き、この世に見える全ての色を持ったそれはとても美しく、僕の心を離さなかった。
その日の空は青く、太陽がきらきらと街を照らしていた。
僕は思わず父さまに言った。
「お父さま、この世はなんて美しいのでしょう」僕は興奮して、息をするのもためらわれた。
「ああ」
父さまは優しく微笑む。低く穏やかな声と、少し細くなる目。
「とても美しいね」
僕らの眼の前には大きな七色のアーチがあった。僕はそのアーチに包まれているような気分になった。
「この美しさはね」彼は穏やかに言う。しかしその瞳はどこか寂しそうだった。
「忘れちゃいけないよ」彼は僕の目をしっかり見て言う。父さまの言葉は僕の胸にずしりと響く。彼の横顔は空の光に照らされている。
「誰かが生きた証なんだ」
雲は空の上で文を作っていた。当時の僕にはまだはっきりと読めなかったが今ならわかる。
「『なぜ生きるか』を知っている者は、ほとんどあらゆる『いかに生きるか』に耐える」
夢を見ていた気がする。いつも起き上がるとその記憶は失われてしまう。僕は起き上がり、窓を開ける。ここはどこかの町である。どこかはわからない。名前も特にない。必要ない。だってここは「ここ」だから。
店の前に一人の男が立っている。「酒」と大きく描かれたエプロンを着ている。でも不思議なことに、彼は酒を売ろうとしていない。店の前で何かしらのデモンストレーションをしている。周りの人間は見向きもしない。
「らっしゃいらっしゃい」
彼はやる気のない声で言う。あたりまえだ、だれも見向きもしないのだから。それでも彼は気にしない。なぜなら彼はそういう「ヒト」だからだ。
「らっしゃいらっしゃい」
彼は同じ言葉しか言わない。彼の前に一人の女の子が通る。高校生くらいだろうか、ゴーグルをつけており、足にはローラースケートを履いている。しかし彼女はそのローラースケートで移動しているわけではない。もしかしたらそのローラースケートを使っているのかもしれないが、足を一切動かしていないのだ。彼女はただ単に移動していた。或いは、そういう機能がそのローラースケートに着いているのかもしれない。
この町では一人に一つ「肩書」が付与されている。学校や訓練施設で肩書をもらえば、その職業にその日から就くことが出来る。勿論、所定の手続きを行えば変更もできる。仕事をしない人間には「遊び人」や「勇者」などの適当な肩書が貰えたりもする。しかし、「遊び人」はその名の通り、必ず常に遊んでいなければならない。それがこの町のルールだ。
僕はと言うと、この世界にあるありとあらゆる種類の魚を調べている。僕はしがない「魚類解剖学者」だ。なかなか見る肩書ではないが、多くの子供や大学生が目を輝かせる職業でもない。
今日の空は青かった。青すぎるくらい青かった。ペンキをこぼしてそのまま放置してしまったみたいに。雲は白すぎる。しかしこの町では、いつも空が青く、雲が白いとは限らない。太陽は赤く、時に白い。雲は時に白く、時に赤い。ここはそんな世界。
時折、町には空から何かが降って来る。それがテレビの時もあれば、レインコートの時もある。パンが降って来たと思えば、巨大なタワーがいきなり立つこともある。そんなわけで、町には色々な物があふれている。空から降って来たものは、大抵地面まで届かない。地面に届く前に、浮いてしまうのだ。僕らはその空間からパンを取り、魚を獲り、肉を獲る。
この町では魚は基本、空中に漂っている。移動している魚はほとんどいない。彼らはただそこに存在する。僕達は時々、気が向いたら空中にある食べ物を獲って食べる。魚ならば骨まで丸呑みする。後には何も残らない。明日になったら、また別の魚がそこにある。僕はそのようにして空中に漂っている魚の写真を撮り、スケッチし、時には顕微鏡で拡大して見て、解剖し、そのあとに食べる。気が向いたら、僕は近所の人にその魚を御裾分けする。
「いつも悪いわね」と近所のおばさんが言う。
「いえいえ、余ってしまって困っているものですから」と僕は言う。いつも同じセリフだ。僕は彼女にスズキとヒラメを渡す。
「ありがとう」と言って、彼女は僕を家に招き入れ、お茶を勧める。僕は有り難くそれを受け取る。紅茶の色だけがいつも違う。
僕の隣に住む大家さんの家には、十七になる綺麗な娘さんがいる。その子は僕が挨拶してもすぐに上の階に引っ込んでしまう。
おばさん曰く、
「あの子は恥ずかしがりやでね」だそうだ。
僕は彼女を見かけると
「君は綺麗だよ」と言う。いつも判を押したように同じセリフだ。
「だから出ておいで」何時も決まって何も反応が無い。僕は笑う。おばさんも笑う。
おばさんと娘さんは、何か果物を集めている。けっこう重労働で、女二人では食べていくのがやっとだろう。おばさんには婚約した男がいるが、もう何年も会っていない。おばさんによれば、木を切る職人だから、何年も帰らないことは普通にあることらしい。でも僕にはそれが標準的なことなのかわからない。
空に文字が浮かび上がる。大きくてすごくきれいな文字だ。
「素晴らしいこの世界とすべての命に喝采を」
空に文字が浮かび上がる事は珍しいことではない。しかしそれが何を意味するのかは分からない。たまに音楽もかかる。
「昨日、発電所が出来たんだよ」とおばさんが言う。
「見たかい?」僕は首を振る。この町では、始まりはいつも突然なのだ。建物がだんだんできていくことなんて無い。夜に寝て、朝起きたらそれは出来ている。いつも突然だ。
「とても面白いみたいだよ、あの子が言ってた」
「娘さんが?」
「そうだよ。私の話相手はあの子しかいないからね。あの子が言うには、発電所はとても面白い形らしいよ」
そんなわけで、僕は発電所に興味を持ち、それを見ることにした。ついでにその途中で珍しい魚にも会えることを期待して。
おばさんの家を出て、僕は彼女に教えられた場所へ向かった。なるほど、それはとても面白い形だった。
円錐型の塔で、壁面に無数の顔が書かれている。誰の顔かはわからない。何処かで見たことがあるような気もするし、特に誰でもない気もする。塔の真ん中部分にその顔はある。様々な角度から書かれていて、全部で五人。女なのか男なのか、判別はつき難い。髪の毛は無く、純粋に顔のパーツだけがそこに描かれている。目をつぶっている者もいれば、開けている者もいる。全てギリシャ彫刻のように白く、どことなく表情が読み取れない。
僕は発電所の周りをぐるっと回った。時間にしてそれは五分ほどかかった。じっくりと顔を見ていたから、少々時間がかかってしまったのだ。僕は満足して家に帰り、先日森で獲った魚の解剖をした。
僕は大抵、魚を捕まえては自宅に保存している。ほとんどの物はそのまま空中に浮かせているが、珍しい物は透明のケースに入れる。すべて写真を撮り、長さと重さを測り、記録する。珍しい魚では無い場合も、大抵は解剖する。その後は毒さえなければ美味しくいただく。大きな魚なら、それだけで僕はお腹いっぱいになる。他の人が一日どれだけの食糧を食べるのか、僕にはわからない。大抵の人は一週間に一度、食事を摂れればそれで満足する。
その日の夕方は空が歌っていた。その歌に合わせて空に歌詞が浮かんでは消えた。
〽真赤な太陽 沈む海に
大きなクジラがのんびり暮らしてた
ある朝目覚めたら
遠くに鈴の音が聞こえたよ
次の日に僕は隣のおばさんの家に行った。なんてことはない、回覧板が周って来たからだ。ついでに、先週捕まえて来たアジも持って行くことにした。呼び鈴を鳴らすと、おばさんは僕が来ることを分かっていたかのように、僕を迎え入れた。
しかし、その日はいつもと違っていた。僕が朝早くに来てしまったからだろう、一階のテーブルにはおばさんの娘さんがいた。オレンジの髪の毛の、可愛らしい子だった。
僕が「やあ」と言うと、彼女は目をいっぱいに開きながら僕を凝視し、そのまま頭を下げ、息をする間もなく二階に引っ込んでしまった。
「あの子は本当に恥ずかしがり屋なのよ」とおばさんは言った。
「可愛らしいじゃないですか」
「あの子、いつも一人でいるのよ? 友達の一人でも……、」
「悪い連中といるよりはずっとマシですよ」僕が笑うとおばさんも恭しく笑った。その日彼女は僕にミルクティーとクッキーを出してくれた。味も食感もすごく良かった。クッキーをこんなにもおいしく感じたのは初めてのことだった。思えば、僕が前にクッキーを食べたのはいつだっただろうか。三年前か?五年前か? ……それすらも思い出せなかった。
「美味しいです、今までの人生で一番」
「そうかい」彼女はその日僕が見た中で一番の笑顔を見せた。
その日は夕方まで魚を解剖していた。いくつかの研究が終われば、それを論文にする予定だった。急いで行った成果か、日が暮れる前に全ての個体の解剖が終わった。データの整理がまだ山ほど残っていたが、それを行えるほどのエネルギーは残っていなかった。
僕は気晴らしに外に出てみた。空は赤かった。夕方の空が赤いと、僕は何故だか泣きたい気持ちになる。僕は不思議な気分のまま発電所に向かった。特に用事があるわけでもなかったが、昨日見た発電所は僕の心を少しだけ揺り動かしてくれた。
発電所が見えてきたところでふと前を見ると、朝会った隣の家の女の子を見かけた。珍しい長いオレンジの髪。多分間違いない。僕はそのまま彼女の後ろを歩いた。周りには誰も人がいなかった。発電所の周りには建物が無い。ただの原っぱ。こんなところにいる人はよほどの物好きだろう。
僕はじっと発電所を眺めることにした。それは大きく、何かしら僕に訴えかけてくるようなオーラがあった。厳かな雰囲気。僕はまだ電気というものを見たことは無いけれど、きっとすごい物なんだと思う。聞くところによれば、それは様々なものを移動させることが出来るそうだ。人には全く見えないものだとも聞くきっと電気があれば、もっとこの町は便利になるだろう。やはりこれも時代の流れなのだ。
発電所の後ろから彼女が現れた。彼女は一心不乱に発電所を見ていた。昨日僕が発電所のとりこになったのと同じように、彼女は壁に描かれている顔をじっくり見ていた。この顔には何か不思議な魅力があるのだろう、それはどこにでもあるような顔にも見えたし、或いはどこにもないような顔にも見えた。一つ一つの顔のインパクトはとても薄く、目を閉じると忘れてしまうほどだ。にもかかわらず、その顔立ちの集合とも平均とも言うべき「顔の印象」は、そっと心にのしかかる。
「発電所が好きなの?」
僕は意を決して彼女に声をかけた。少女は二秒遅れて、こちらを見た。目を丸くし、すぐに首を縦に振った。
「僕も好きだ」
彼女も頷いた。そしてまたすぐに、彼女は発電所に目を向けた。その瞬間、彼女の頭の中から僕の存在が消えた。
夕方の空を背に発電所をじっと見るのは全く飽きず、むしろこんなにも穏やかな気分に浸れることに、自分自身でも驚いていた。
十分ほど沈黙が続いた。空はだんだん紫色に変わりつつあった。僕が満足して帰ろうとしたところで、彼女はやっと動き出した。彼女の方も満足したみたいだ。
「君はよく一人で歩くの?」
頷く。はい。
「発電所以外の所にも行く?」
彼女は首を横に振る。いいえ。
「今日は珍しく外に出てみたの?」
彼女が頷く。はい。
「前に外に出たのはいつ?」
彼女は上を向いて考え始めた。指を追って何かを数えていたが、やがて、首を左右に振った。
「覚えていないほど前なんだね?」
彼女は頷いた。僕もつられて頷いた。
僕らはそこで別れた。
家々からはたまに魚の焼く匂いが立ち込めていた。もう夕飯の時間なのだ。
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