52 信頼

「フフ……」


 ヘルサードは笑っていた。

 何もかもが彼の思い描く通りに上手く行っている。

 そして程よく『予想外』も起こり、それが何よりも彼を楽しませている。


 友人の浩満は死んでしまったが、まあそれくらいの予想外も仕方ないだろう。

 彼には敬意を表して新世界の神として名前でも残してやろう。

 そうだな、主神ワイドフルというのはどうだろう?

 ひろくて満ちているって意味さ。


 ヘルサードが手にした『外側の力』は無限のエネルギーを引き出すことができる。

 それを正しく行使できれば文字通りになんでもできる。


 ただし、特定の世界ではそこの『理』を決して超えられないという制限がある。

 矛盾に聞こえるかもしれないが何でもできるとは言え何でもできるわけではないのだ。

 この世界におけるヘルサードはただ無限の力を所有している一個の人間に過ぎないのである。


 ただし、別の世界なら……例えば浩満が作ろうとしていた人造世界等、制作段階から理を変えてしまった世界ならばある程度の融通が利くだろう。


 ただし、それにもやはり制限はある。

 そういった世界の制限を超えるためのシステムがあの『天使』だ。


 ヘルサードが外側の力を与えた五人の天使。

 彼女たちは世界の理を無視し、きわめて無限に近い力を行使することができる。

 つまり、この世界の制限に縛られた強者たちがいくら必死に抵抗したところで絶対に敵うはずがないのである。


「ふふ。ずいぶん嬉しそうですね」


 腕の中の小石川香織が艶を帯びた表情で囁きかけてくる。

 ほんのりと頬を染めたその表情はまるで恋に溺れる少女の様だ。


「もちろんだよ。これから世界はもっと楽しく変わるんだからね」


 今頃、地球では他の天使たちによって反転ガスが世界中にばら撒かれているだろう。

 既存の文明は一夜のうちに二世紀分以上も退化する。

 その後は代替エネルギーを持つラバースが好き勝手に作り替えることができる。

 ミドワルトプロジェクトとは別の『もう一つの理想の世界』を現実世界に生み出すための下準備なのだ。


 この世界をもっと楽しくする、それが彼の最大の目的だ。

 そのための犠牲や変化を強いられる人々の事は……まあ、仕方ないで済ませよう。


「ねえ、ねえ」


 小石川香織が体を押し付けるように腕を絡ませてくる。


「さっきも言いましたけど、今まであなたたちに逆らってごめんなさい。お詫びに……ね?」

「ははは。仕方のない奴だな」


 彼女はもうそこそこいい歳のはずだが、苦難に耐えてきただけあっていい感じの魅力がある。

 そんな女がこれまでの価値を自ら捨て去るように媚びてくる姿は滑稽だがそそるものがあった。


 戦闘力という点では天使と違ってたいした力は持っていないヘルサード。

 だが『テンプテーション』という能力さえあれば、大抵のことはなんとでもなる。

 異性は決して彼に決して逆らえず、彼のために何でもする操り人形になってしまうのだから。


「空中でというのもなんだし、向こうの岩陰にでも行こうか」

「……はい♪」


 嬉しそうな顔で弾んだ声を出す元ALCOのリーダー。

 ヘルサードはそんな彼女の頭を撫でてやりながら地上へと降りた。




   ※


「う、あ……」


 全身が痛い。

 指先を動かすだけで苦痛だ。

 レンは激しい痛みと地面に共に蹲っている。


 かつてない敗北だった。

 ショウやシンクと戦った時とは違う。

 戦闘にすらならない圧倒的な差を見せつけられた。


 天使を名乗るあの女。

 よりにもよってあのマナに。


 負けた悔しさや、強者に対する敬意は微塵も沸いてこない。

 別次元の存在への敗北はまるで悪い事故に巻き込まれたかのようだ。


 気力を振り絞って顔を上げる。

 岩に寄りかかるシンクとそれを見下ろすマナが見えた。

 大切な人が危機的状況にあるというのに、レンは立ち上がることもできない。


「シン……くん……」


 絶対に届かない声を絞り出すので精いっぱい。

 そのうち苦痛に抗いたい気持ちすら失い始める。


 諦めたくはないが、もうだめだ。

 自然とレンは目を閉じて……


「おい」


 頭上から声が降ってくる。

 聞き慣れた、どこか懐かしい声。

 それでも顔を上げることができずにいると、


「おいコラ、起きろクソガキ」


 髪の毛を掴まれて強引に起こされた。

 レンは自分の頭を掴む人物を見て呟く。


「……ばばあ?」

「おうよ。お前のばばあだよ」


 レンの育ての親、リーメイ老師。

 なんで彼女がこんなところに……


「せいっ!」

「あぼば!?」


 疑問を口にする前に思いっきり殴り飛ばされた。

 吹き飛んだレンは十秒ほど転がった後で勢いをつけて起き上がる。


「いきなり何するこのばばあ!」

「ほら、動けるじゃないか」

「……え?」


 レンは両足で立っている。

 彼の目の前にはリーメイがいる。

 痛みもいつの間にかすっかり消えている。


「はぁ……ったく、一体いつの間にそんななまっちょろいガキになっちまったんだい」

「なにが」

「龍神の呪いだって? 甘ったれんな。お前が最強を目指したのは、そんなくだらないモノに命令されてたからだってのかい」


 レンの心は龍神詛に支配されていた。

 命の危険も顧みず強者を求めて戦う狂人になっていた。

 シンクが半分呪いを受け入れてくれるまでは、レンは本当のレンではなく……


 本当にそうだったのか?


「ちがう」


 そんなことはない。

 断じて強要されただけじゃない。


 もちろん龍神と共にいたことによって限度を超えて暴走した面はあるだろう。

 だが最強を目指していたのは間違いなくレン自身の意思だったはずだ。


 虐げられて苦しんでいる人たちを守るため。

 企業に支配された地獄の上海で生き抜くため。

 そして何より、理想に描いた自分になるために。


 この手に力を欲しかった。

 決して何者にも負けない力が。


「ぼくは強くなりたかった。誰よりも」

「だったらなっちまえよ。あの天使より、そしてお前の中の龍神よりもな。大切な人を守りたいってんなら一回やられたくらいで折れてんじゃないよ」


 まだ限界を超えられる。

 まだまだレンは強くなれる。

 自分よりも強い相手がいる限り。


「ばばあ……」

「悪いな、あんまり時間がないんだ。ま、お前ならもう大丈夫だろう」


 彼女は弱気になっていた自分に活を入れてくれた。

 育ての親であり、師匠でもある強い女性。

 その姿がゆっくり薄らいでいく。

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