4-8

 ハルは必死の形相でワリュランスの裾を引っ張った。

「ワ、ワラビ言う。一、十、次、一万。う、うそ言った?初めての日」

「そ、それはですね。別に騙そうとしたわけではなく、ですね。値段を教えるとハルが家を買うのに反対すると思って。あのころは私たちもお金がなかったでしょう?そんな目で見ないでください。……わ、私だって頼りがいのある伴侶でいたかったのです。もし教えたらハルはいつまでも馬小屋でいいとか言ったでしょう。それに、すぐに数字を覚えるだろうと思ったのです。だけど私のハルはかわいらしい理解力で――」


 かわいい、と目をそらしながら必死に弁解するワリュランスの声はどんどん小さくなる。ジャルジュは首を振った。


「なるほどあなたがしっかり教えておかないから、セドにおいて不利な条件を鵜呑みにしてきた、と。よくそれで日常生活が送れていますね。伴侶バカも結構ですが、伴侶の首を絞めていることを自覚してください」

「な、なにを言うのですか。愛する伴侶に尽くすのは当たり前のことではありませんか。大体、一万なんて私のかわいいハルにかかれば容易いものです。皆、絶対に協力してくれます!」


 それで初日に集まったそうめんういろうの数が五十なのだが。ジャルジュとタラシネ皇子は静かに視線を合わせる。


「サイタリ族は伴侶とするためには手段を選ばないときくが、なるほどすごいね」


 タラシネ皇子は頷いた。しみじみとしたその口調はどこか楽し気だ。長椅子にゆったりと腰かけた優雅にお茶に手を伸ばす。二人を制御しなければならないジャルジュはため息をついた。

「それで、タラシネ様。あなたはどうされるつもりですか」

「特になにも」

「なにも?ヘンダーレに行かれないのですか?王の出した条件を満たすには、ヘンダーレへ行かないといけないのでは?」

 タラシネ皇子は一瞬目を見張ると、ああ、そういうことと頷いた。


「僕はセドには王に協力するために参加したのだよ。このセドの目的はこの国の膿をだすこと。王はその過程で本当にセドをとったものに王の座を渡すと仰ったけれど、僕だって馬鹿じゃない。それがマルドミの皇子であった僕に許されるとは思っていないよ。そもそも国を出奔してきたことは君たちと王以外には言っていない。だから対外的には皇子のままだ。そんな状態で、僕が都を出ればこれ幸いとあの将軍辺りが捕まえにくるだろう。宰相と将軍は繋がっていそうだったからね。それにブロード殿との約束だから、ここでハル・ヨッカーを見ているよ」

「動く気はない、と?」


 ジャルジュはタラシネ皇子をうかがった。


「ないよ。大体、僕一人でマルドミ軍を撤退させるなんてどうやってやるのだい?今の僕にあるのは元皇子の過去と、護衛と従者が一人ずつ。それでどうやって彼らを撤退させろと?そんなことが今の僕にそれができるとでも?そんなことは彼らと繋がっていなければできない、だろう?だから僕は動かない。僕は生きるために国を出たのだからね」

「失礼いたしました」


 カップを静かに置き、微笑んだタラシネ皇子の瞳に宿る切実さにジャルジュは息をのんだ。

 確かに先刻、ジャルジュの元に「ブラッデンサ商会の周りに見慣れない男たちの姿が増えた」と報告があったばかりだった。その男たちがサルナルド将軍の配下だというのも確認済みだ。意気揚々とタラシネ皇子がヘンダーレ領に向かえば、サルナルド将軍は即座に捕らえるだろう。


 タラシネ皇子は首を振った。

「いいよ。疑われるのには慣れているし。君の立場なら仕方ない。それより、問題はそうめんういろうだ。一万人分は集められそうかい?」

「がんばる、マス!」


 ハルが元気よく手を挙げた。タラシネ皇子とジャルジュはハルを一瞥し、会話を続けた。


「タラシネ様。このセドの目的はこの国の膿をだすことと仰いましたよね。ならばそうめんういろうを集める必要はあるのでしょうか。このセドの目的はニリュシードかラオスキー侯爵に取らせないこと。王が彼らの尻尾を掴むまでセドに目を向けさせておくことであるならば、そうめんういろうを集める必要もないはずです」

 むしろ、相手が分かっているのならそのために時間も人的資源も投入すべきだ。

「うーん、そうなのだけどねえ。ただ王は本当に売るつもりのようだからねえ」

 タラシネ皇子は困ったように眉を下げた。

「つまり、もしも彼らのうちどちらかが本当に兵を渡すか、権利を返上したら王は王位を渡すと?」

「するだろうね。困ったことに」

 タラシネ皇子は窓から王城を見やり、首を振った。

「……こう言ってはなんですが、王は馬鹿なのでしょうか」

「それは……」

 タラシネ皇子は言葉を濁し、馴染み始めた剣帯に手を乗せた。それを見たハルが深く頷く。


「はい。オーさん、ばか」

「なに?」

 タラシネ皇子とジャルジュは同時にハルを見た。

 そんな二人にハルは不思議そうに首を傾げ、ワリュランスがとりなすように手を叩いた。

「まあ、一万ならなんとかできそうではないですか。この時期でしたら二万人ほどは王都にいます。二人に一人、書いてもらえばいい計算です。大丈夫ですよ」

「はい、がんばるマス!」


 やけに明るいワリュランスに、ハルは拳を突き上げた。早速そうめんういろうに行くべく籠に紙とペンを籠につめる。

「そうめんういろうが血判状だと認識された今、名前を書く考えなしがどれだけいるか疑問ですがね」

「それは……。ですがではどうするというのです」

 ワリュランスの言葉に、ジャルジュは先ほどとは比べ物にならないくらい深い息をついた。


「ハル・ヨッカー。あなたは何がなんでもそうめんういろうを一万人分集めるつもりですか?」

「……はい。私守る、ります」

 ハルは手を止め、胸を張った。

「どのような手を使ってもですか?」

「手?」

 ハルは自分の手とジャルジュの手を見比べた。

「手というのは方法ということです」

「知っています」

 ワリュランスの耳打ちに、ハルは顔を赤くして頷いた。

「では、噂を流します」

「噂?」

 警戒したようなワリュランスに、ジャルジュは頷く。

「ラオスキー侯爵の心配はしなくてよいと考えるのなら、相手はニリュシードです。彼が商業権を一時的にも返上してもよいと決断する前に一万人分のそうめんういろうを集めなければなりません。今人々の間にあるのはそうめんういろうが血判状であるという事実です。そんなものに好き好んで自分の名前を書く人間などいません」

「ではどうするのだい?」

 違うと声を上げかけたハルを制し、タラシネ皇子は訊いた。

「ニリュシードは莫大な富をもつからこそ敵も多い。彼がもしも王になったならば、商人の中には面白くないものも多いでしょう。今でさえ物によってはトルレタリアン商会の寡占状態になっている市場もあるのですから」

「なるほど、敵の敵は味方というわけか」

 タラシネ皇子は感心したように頷いた。

「任せてもらえますか?」

「はい、よろしくおねげーしま! ジジイ!」

 ハルは元気よく頭を下げた。

「……ジャルジュです」


「では方針が決まったところで、僕らは地道にそうめんういろうを集めようか。そういえば、ブロード殿から連絡はあったかい?」

 すでに執務室を出て行ったハルとワリュランスを追いかけようとしたタラシネ皇子が思い出したように振り返った。

「ありません。日に一度は連絡をするように言っているのですが」

「そうか。心配だね」

「あのバカの心配などしていません」

「そうかい?」

「ただ、振り回されるヘンダーレ領の人間に多少の同情はしますが」

 ジャルジュは短く答えると、日差しを浴びて白亜に輝く城に目をやった。

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