と或る王の物語

雪野千夏

第一部 国売りのセド

序章

 歴史の転換点とされるその出来事を知らぬ者はいない。

 だが真実何が起きていたのかを知る者は少ない。

 なぜそうなったのかを知る者はさらに少なく、事実を語ることはないだろう。


『ギミナジウス歴四百年、新王建つ

 かの王こそは真に英雄と呼ぶべきものである

                      ギミナジウス国記』

 

 これは歴史から名を消された者たちの物語である。


 ※ 


 謁見の間、その日も王は玉座にあった。

 豪奢な椅子に身を預けた王は、石造りの窓の外、鬱蒼と広がる王家の森を眺めていた。深い緑が広がり、その向こうには城下町が小さく見える。手前の木の枝々がざわざわと揺れ、黒い鳥が一斉に羽ばたいた。

 王は目を細め、膝の上に乗せた薄い紗の衣をまとった女の太ももに手を伸ばした。白い太ももに浮かぶ黒子を撫で上げられ、女は足を震わせた。

 王は女の耳元に囁いた。女は頬を赤く染めた。

 王の手が女の奥へと滑る。

 謁見の最中だ。あるまじきことだった。

 だが宰相はじめ、将軍、大臣、この場に居並ぶ誰も王を諫めない。女などいないかのように奏上された議題を論議していく。時折、宰相が王を振り返り、裁可をあおぐ。王は好きにしろと手を振り、返すその手で女と戯れる。宰相は無表情で頭を下げ、文官に指示を出す。

 それがこの城の常だった。

 そう、王がしてきた。


「王、この度の大雨で田畑も家も流され民は疲れております。それに加え、上流のナジキグ地方からの難民の流入も絶えず、すでに一領主にできる領分は超えております。どうか、早急にマルドミに使者を送っていただくと共に、国庫の蓄えを開放していただきますようお願いいたします」


 センシウス・ナイティ・ラオスキー侯爵が王の前に進み出た。

 白髪交じりの穏やかな風貌のラオスキー侯爵は、かつては将軍職を務めていた。「最後の良心」ともいわれる穏健派の大貴族で、彼の意見なら耳を傾けるものも多い。

 数年前の王位争いに巻き込まれるのを嫌い国境の領地に引っ込んでからは、王都とは距離をおいており、都へ出てくるのは王の即位式以来一年ぶりだった。


「では――」

「私は、王に申し上げている」


 ラオスキー侯爵はいつものように口を開いた大臣を睨みつけると、謁見の間に漂ったぴりっとした空気を気にする様子もなく、再び王に深く頭を垂れた。

 だが王は窓の外を眺めたままラオスキー侯爵を一瞥すらしなかった。女の足を撫で上げる右手もそのまま、女の紗の奥へと進ませていく。女の甘い声が謁見の間に響く。

 ラオスキー侯爵は床を見つめたまま唇を引き結んだ。

 王と女の戯れは続く。ラオスキー侯爵は微動だにしなかった。ただ、待った。

 しばらくして女は高い声をあげ体を震わせ、くたりとその身を王に預けた。

 女の反応がなくなると、王は紗の奥から指を抜いた。濡れた指先をちらと見て、軽く手を振った。

 王の指先から滴がとんだ滴は、ラオスキー侯爵のきれいに蓄えられた髭をかすめ、久しぶりの城、王の御前に出るからと従者が磨き上げてくれた靴の上にぷくりと乗った。ラオスキー侯爵は滴が徐々に靴に滲んでいくのをじっと見つめた。

 ラオスキー侯爵は勢いよく顔を上げた。


「王!」

「そうだ、な」


 ラオスキー侯爵の鋭い声と、間延びした王の声が重なる。

 次の瞬間、


「汚れた、な」


 王は濡れた指先を女の口へと突っ込んだ。女が苦し気に呻いたが気にも留めない。さらに奥へとねじこんだ。

 ラオスキー侯爵は目を見張って固まった。だがすぐに我に返る。


「王! お止めください!」


 王が、手を止めた。

 ゆるり、首をめぐらせた。


 城勤めの者たちの間に緊張が走った。誰かの言葉で王の動きが止まる。それはこの城で危険の兆候だ。かつて王が即位したてのころ、心ある者が声を上げ、謂れのない処罰をされるのを彼らは幾度となく見てきたのだ。そして今、ラオスキー侯爵が立つ場所は王と謁見者が保つべきとされる距離を逸脱していた。許可なく近づけば不敬であるとさえされる距離だった。ある者は王の視界に入らぬよう身をかがめ、またある者はそっと視線を床に落とした。

 王はゆっくりと身を起こした。

 女の口から指を引き抜く。濡れた指を見せつけるように舐めた。

 そしてようやく、目の前の辺境の領主を見た。

 いや、今認識したのだ、とラオスキー侯爵は理解した。


「久しいな、ラオスキー侯」


 王は特に声を張ったわけではなかった。むしろ平板な調子だった。

 それでも、感情を一切廃したその声に、視線に、ラオスキー侯爵は言葉を失った。呆然と王を見つめた。初めて王の本質に触れた気がした。陳腐だが雷に撃たれたような気さえした。それは絶望にも似て、ラオスキー侯爵は知らず、小刻みに震えていた右腕を左手で抑え、拳を握った。

 王は淫靡に、怠惰に指を舐め続けた。

 しばらくして王は唾液で濡れた指にふっと息を吹きかけると、その指で女の背を撫でた。


「かつて我に同じようなことを言ったものがいたな。ミヨナ」


 女はくすぐったそうに背をのけ反らせ、甘えるように王に身を寄せた。


「ええ。あの方の口はあまりに姦しいのですもの。王が塞いでくださったので随分過ごしやすくなりましたわ。そう――ラオスキー侯爵の足元の辺りでしたわ。ころころと首が転がって、まあるいお目目を見開いておりましたわ」


 女はラオスキー侯爵の足元を指さし、可愛らしい声でまったく可愛らしくないことを囀った。


「黙りなさい。其方が口を開くたびに王の価値が下がる」


 ラオスキー侯爵は唸った。

 女はわざとらしく目を丸くした。王の耳に唇を寄せた。


「王、剣がご入用です?」


 王は唇を緩ませた。女の長い髪に指を絡める。ゆっくりと撫で下ろす。腰までの長い髪を撫で終えたその先には王の剣がある。王の指先が剣の柄に触れた。


「王! 即位から一年、なんと噂されているかご存じないわけではないでしょう。色に溺れた暗君、愚王。寵姫に骨抜きにされ政をおろそかにし、簡単に人を殺す暴君。あなたは――」


 ラオスキー侯爵はまっすぐに王を睨みつけた。その瞳に迷いはない。

 王は剣の柄を握った。

 その時だった。


「大変です!」


 文官が一人駆け込んできた。


「何事だ!謁見中であるぞ」


 宰相が叱責したが文官は聞いていなかった。礼儀も何もかもすっとばし、息を切らしながら玉座の前に膝をつくと、大きく息をはき、握りしめていた一枚の紙を差し出した。


「国がセドに出されました!」


 その一言に謁見の間に一瞬静寂が落ちた。誰もがその意味をすぐに理解できなかった。


「なんだと、許可印は!」


 普段は冷静沈着で知られるヤホネス宰相が声を荒げれば、年若い文官も怒鳴り返した。


「あります! 御璽も押されています!」


 もはや悲鳴だった。


 セド。

 それは国に認められた競売だ。総史庁が統括し、馬・太刀・美術品に骨董品や日用品。はては家や身分、本人の同意があれば人間さえ商品となる。盗品や密輸品でないという国の許可印さえあれば、なんでも売ることができる。だからといってセドに国が売りに出されるなど前代未聞だった。悪戯であろうと許されるものではない。

 セドを所管する総史庁のヴァレリアン総史庁長官は、慌てて文官からその紙―セドの案内兼申込書―《リドゥナ》をひったくった。一読し、目を見張ると、その顔からは一気に血の気が引き、倒れるのではないかと思うほど青白い顔で硬直した。


「どうした? ヴァレリアン。よこせ」


 ぎこちなく王を振り返ったヴァレリアン総史庁長官は、自分に向かって伸ばされた王の手を絶望とともに凝視した。


 よこせ。


 小さく指先を動かして示された王の意思に、ヴァレリアン総史庁長官はリドゥナを握りしめた。筋張った指先に骨が浮きあがった。

 王は目を眇め、もう一度指先を動かした。

 ヴァレリアン総史庁長官は、リドゥナの皺を伸ばすと、震える手で『あってはいけない』リドゥナを差し出した。


「ほう」


 王はリドゥナを一瞥すると、宰相へ放った。


「王、これは!」

 

《クニウリマス ヨウソウダン オウメンダン》


 誰の筆跡か分からぬほどいびつな文字ではあったが、リドゥナにはそうはっきりと書かれていた。右下には総史庁の許可印。出品者の欄には王の御璽。これは出品者である王も国を売ることに同意し、なおかつ総史庁の許可も得ていると示していた。形式はこれ以上ないほど整っていた。

 ヤホネス宰相は愕然とした顔で、王を仰ぎ見た。


「確かに御璽は本物。許可印もある。完璧だな」


 王は女の首筋に唇を寄せ、くつりと笑った。


「王! 笑いごとではございません。ヴァレリアン殿!」

「不可能です! 総史庁ではセドの出品物についての審査は厳正に行っています。許可印とて厳重に管理してあります。賄賂も不正もなど以ての外なのは皆さまご存じのはず。このようなリドゥナを見つければ、まず間違いなくはじきます。どうしてこのような」


 ヤホネス宰相の悲鳴にも近い叱責に、ヴァレリアン総史庁長官は普段の温厚で理路整然とした姿をかなぐり捨て、戸惑いも露わに叫んだ。


 ならば、一体誰が――。

 皆の脳裏に同じ疑問が浮かぶ。

 誰ともなく王を見た。奇妙な沈黙がその場を支配した。

 女が艶めかしく身を起こし、王の首元に顔をうずめ、何か囁いた。

 王はわずかに口角を上げた。宥めるように女の曲線をゆるり、撫でた。

 事の重大さを感じている様子はない。ヤホネス宰相は恐々と口を開いた。


「まさかとは思いますがこの国売りのリドゥナ、出されてはおりませんよね?」

「残念だな、我ではない」


 王は女の首筋に舌を這わせたまま言った。


「すぐに調査いたします。セドの掲示板へも人をやりリドゥナを取り下げるようにと――」

「かまわぬ、放っておけ」


 駆けだそうとしていたヴァレリアン総史庁長官が引きつった顔で王を振り返った。

「――なんと、申されました」


 ヴァレリアン総史庁長官の唇がわななき、声が震えた。

 王は喉の奥、笑った。


「面白いではないか。国を売るなど。洒落たことをする。いいだろう。望みどおり売ってやろうではないか、この国を」


 女の首筋越し、王はラオスキー侯爵を見た。うっすらと口の端を上げた。


  王、なのだ。

 ラオスキー侯爵は唐突に理解した。これは、王なのだ。

 視線一つで自分の意を伝え、手振りひとつで人を動かす。王なのだ。

 誰もが王の威に飲まれていた。


「王! 分かっておられるのですか。国をセドにかける、その意味を!」


 ヤホネス宰相は苛立ちも露わに声を張り上げた。

 王は笑みを浮かべたまま、女の指先に口づけた。何も答えない。

 ヤホネス宰相は足音も荒く王に背を向けた。


「セドは中止だ! すぐにリドゥナを取り下げさせよ。あと四枚あるだろう。国の許可印さえ押してあれば、なんでも取り扱うのがセドとはいえ……。大体総史庁も何をしておったのだ! こんなものが紛れ込んでいても気づかぬなど職務怠慢にも程があるぞ! 許可印がある以上、貼り出されてしまえば……」


 そこまで言って宰相は言葉を止めた。首筋に感じた冷たさに下を見た。顎先にある剣の切っ先に、視線だけを後ろにやった。


「王」


 宰相の声が震えた。


「いつから、お前は王になった?」


 それは柔らかく纏わりつくような抑揚だった。

 背後から宰相の首筋にぴたりと剣を当てたまま、王は面白そうに目を眇めた。鼻歌でも歌いだしそうに軽い口調だった。だが頸動脈にぴたりと当てた剣は、その口調とは反対にどこまでも禍々しかった。相反する空気を矛盾なく内包した王は、時折ちらとどことも知れぬ場所に視線を送る。


「なあ」


 誰にともなく王は言った。どこまでも軽い呼びかけに、誰も答えられない。

 それでも、ヴァレリアン総史庁長官が、文官が止まった。謁見の間を警備する騎士ですら動けなかった。

 動けば宰相の喉は掻き切られる。誰もがそう確信していた。誰もが王の中に狂気を見つけていた。

 宰相は静かに目の前の家臣たちに目をやり、口を開いた。


「王、確かに、私は総史庁長官でもなければ、まして王でもありません。ですが、国を売るなど、そのようなセドをこの国の政を預かる人間として認めるわけにはまいりません」


 最初こそ掠れていた声も、徐々に力強さを帯び、最後には堂々と言い切った。そこかしこで小さく安堵の吐息がした。


「預かる、預かる、な」


 王は宰相の少し曲がった背を見ながら言った。剣を持つ手を返し、軽く持った剣を上下に動かした。ヤホネス宰相の顎先を剣が行き来し、ぱらりぱらり、宰相ご自慢の髭が散った。


「面白い、ではないか。国を売る、など……なあ」


 王は剣の腹で、くいっとヤホネス宰相の顎を持ち上げた。苦し気な顔の宰相に、王はくつりと笑うと、剣の力を緩めた。ほっとした宰相が下を向きかける。王はまたくいっと剣先を上げた。宰相もまた苦し気に顎を持ち上げた。

 上へ、下へ。王は何度も不規則に、甚振るように剣を動かした。

 ヤホネス宰相の頬を冷や汗が流れた。剣を伝い、柄にたまり、床に落ちた。このままでは首の血管が切れるのも時間の問題だった。

 ええいままよ。


「セドは娯楽ではないのですぞ!」


 ヤホネス宰相は首から血が噴き出すのを覚悟し、勢いよく王を振り返った。

 だがそうはならなかった。

 ヤホネス宰相が動いたその瞬間、王はすっと剣を下段に外した。そのまま下から上へと半円を描くように剣を走らせ、振り返ったヤホネス宰相の喉に真正面から突き付けた。切っ先がヤホネス宰相の喉に食い込む一歩手前、絶妙の間合いだった。

 見蕩れるほど美しい剣筋だった。

 王は緩やかに笑った。


「そう、娯楽ではない。命をかけよ」


 怠惰な王の眼差しではなかった。喋れば殺す。王の目は告げていた。

 ヤホネス宰相は唾を飲んだ。盛り上がった喉仏が剣先に触れる。首筋にうっすらと血が滲んだ。

 王は微笑んだ。

 ヤホネス宰相は呆然と王を見つめた。

 傲慢で残酷な王がそこにいた。

 誰も動けなかった。

 時間だけが過ぎていく。


 ゴーン。

 昼を報せる鐘の音が謁見の間に響いた。


「始まったな」


 王はヤホネス宰相から剣を引いた。


「本当によろしいのですか。国をセドにかけた犯人を見つけるための茶番とはいえ、もし王ご自身が競り落とすことができなければ、この国は誰とも知れぬ者のものとなるのですぞ」


 時間稼ぎだったのだ。気づいたヤホネス宰相が苦々し気に口にすると、王の乾いた目がきらめいた。


「くっはははははははは」


 王の笑い声が鐘の音に交じり異様に響く。王の笑い声を聞いたのはいつぶりだろうか。そんなことに思考を飛ばさないとこの場にいるのが恐ろしくなるような笑い声に、誰もが言葉もなく笑う王を見つめた。身を二つに折り、腹をよじり、体全てで王は笑い続ける。


「王?」


 ヤホネス宰相が声をかけた。


「茶番、だと?」


 王は、ゆっくりと身を起こした。一歩、ヤホネス宰相に向かって踏み出した。慈愛に満ちた笑顔。反する低く凄味のある声。その場にいる人間の臓物を素手で握りつぶそうとでもいうかのような、言いしれぬ何かが謁見の間に満ちた。


「狂っている」


 誰かが口にした。王は、唇だけで哂った。


「勘違いするな。我が、王だ」


 たった一声。だが、その声は今までに聞いたことのない何かを孕んでいた。

 王の声が、空気が、視線が、確かに皆の臓腑に得体のしれない何かを流し込んだ。

 ゆっくりとヤホネス宰相は頭を下げた。一人、二人、そのあとに続いた。誰もが、王を真正面から見返すことができず頭を垂れた。


 確かにそれは、王だった。


 誰もが床を見ながら理解した。

 これは王である。そして、この王は国を売るのだ。

 どれだけ馬鹿馬鹿しかろうが、それがこの国の現実だった。

 鐘が鳴る。

 セドが始まる。

 混沌とした謁見の間、そこにラオスキー侯爵の姿はなかった。

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