第五十八話 出立の二人

 処は少し変わり、サーウーヴァラより少し南、マラバール地方の一角。この海岸地域で一番の都市だ。

 その青年はさる高貴な血を引くが、分け合って親戚の家に居候していた。しかし若いながらに馬と弓に優れた彼を、人々は皆慕っていて、早く立派な為政者になって留まってくれないものかと思っていた。というのは、彼には放浪癖があったのだ。所謂いわゆる数寄者すけものというやつで、クシャトリヤでありながら武人としての生き方よりも、人間としての生き方を模索することに専ら時間を費やしている。

 輪にかけて悪いことに、元々放任主義だった母親が実家に帰ってからは、武芸の稽古もせず、沙門たちと何やら難しいことを話していた。

 日々を生きるのに必死な人々は、「また数寄すけ殿は何か難しい趣味を見つけられたのか」と、気づいていなかったが、この時、この青年は大変な人生の岐路に立っていた。

 と言うのも、この国には約五百年前、ある素晴らしい聖者が生まれ、彼の教えがそれより伝わっていたのだが、後継者たちの間で派閥が分かれてきていたのだ。つまり、信仰の在り方が問われている時だ。常の人々なら、よりやりやすい様に出来た方へ行くだろう。しかし如何せん数寄すけ者である彼は、大いに悩み、心を落ち着ける修行を続け、心を研ぎ澄ましていた。あまりにも夢中でやるので、召使の者が無理矢理吸い飲みで水を流し込まなければならなかった程である。

「おや、数寄すけ殿。丁度よいところにお会いしましたな。吉報ですぞ。」

 その日は修行を珍しく自分から切り上げていた朝だった。夜通し月を見上げて手を合わせ、禅を組んでいたが、数寄すけは眠ったりなどしない。その目が白蛇のように真赤なことが、すべてを物語っている。

「どうした、何かあったのか。」

「はい、何でも、遥か西、あの海向こうから、聖者を名乗る者がこの町にやってきたのです。あの、この町で一番大きな菩提樹の一番低い枝に乗って、今有難いお話をされています。数寄すけ殿、たまには沙門達以外の者の話を聞いてみては?」

「なるほど、面白い。これは楽しみだ。」

 そういうと、数寄すけは腰の剣を抜き、ずぶりと男の胸を突き刺した。周囲の人々が悲鳴を上げる。絶命した男の体から剣を引き抜くと、巨大な蛇が頭を一刺しにされていた。

「皆! 怖がることはない。これは聖なる獣に扮した邪悪だ。何故蛇の形をしているのかは分からないが、少なくとも見ただけの貴方方に災いが下ることはないだろう!」

 蛇は頭を貫かれてもうねうねと動いていたが、数寄すけが剣を振り下ろして顎まで二つに切り分けると、動かなくなり、じわじわと溶けて、地面に吸い込まれていった。

「蛇か…。確か、あの海を隔てると、意味が変わると奴隷商人から聞いたことがある。」

 正と出るか邪と出るか、数寄すけは馬を駆って、菩提樹の元へ急いだ。


 菩提樹の周囲には既に多くの人だかりが出来ていて、修行を怠けたか親の目を潜り抜けたかしてダリットに化けた者も多くいた。風に乗って、声が届くのに、菩提樹は静かで、葉一枚揺らがない。聖者の言葉に、すべての自然が従っている。

 聖者は言った。

「大いなる裁きの日が近づいています。この国に蔓延った邪淫を避け、慎み深く、貞淑になり、謙虚で柔和になるのです。そうすればメシアは救ってくださいます。メシアは遥か昔五百年前に、この国で聖なる覚者を育てました。彼がブラフマン《真理の守護神》と呼んでいたもの、またバラモンたちが仕える神々の本当の姿、その方は名前をメシアと仰るのです。メシアは愛の方です。ですので、私達が地獄で裁かれることのないように、自ら遜って人間となり、神の裁きを受けたのです。その裁きによる救いを信じるのなら、バラモンも、クシャトリヤも、ヴァイシャも、スードラも、ダリットでさえ、同じ天国に行くことが約束されています! さあ、苦しい修行や空しい居眠りをやめましょう、メシアを愛するのです! そうすれば、誰よりも優れた存在であるメシアご自身が、私達を愛してくださいます!」

 力強い演説だった。確固たる確信を持っている証拠だ。小柄な体からは、いくつもの救いの手が伸びているようで、それはもしかすると、悪魔から見ればものすごい化け物に見えるのかもしれない。だが人々は、寧ろその人間離れした聖者の佇まいに熱狂して、メシアの名を叫んで讃えた。

 ただ、数寄すけはどうもその気になれなかった。元々が理屈くさい男であるだけに、理屈が不十分だと、納得できないのだ。あの者ともっと話がしてみたい。夜通し、いくつ夜を越えても、きっとあの聖者は答えを返してくれるのだろう。

「おや、そこの若。お久しぶりだこと。」

 喧騒の集団を見つめていると、後ろから臓腑ぞうふ打ち震えるが如き冷たい声がした。ハッとして、馬から飛び降り、手を合わせてお辞儀をする。

 大きな宝石を重たそうな純金で飾り、天蓋がなで肩になっている。美しい絹の御簾の向こうで、この国で二番目に地位の高い女性が足を組んでいる。

「御台様も息災のようで何よりです。」

「この間、主人の誕生日に、お爺様が来てくれましたよ。相変わらずご苦労の多いこと。早く跡を継いで差し上げなさい、もうあの方も若くないのですから。」

「とんでもございません。祖父のようにサータヴァーハナ一の懐刀になるには、まだまだ鍛錬が足りません。しかし、評価は有難く頂戴いたします。」

「ほっほ…。あすこの菩提樹にいるという聖者を観に来ましたの。貴方もそう? 若。」

「そのようなものです。」

「妾が来いといえば、来るでしょう。…ちょっとそっちの駕籠かご持ち、お前でいいわ、あすこにいる聖者を引き摺り下ろしなさい。妾よりも高い目線でいるなんて、異邦人の癖に生意気だわ。この国で妾よりも高い所に座っていいのは、お三方だけ。妾の主人、王后殿下、国王陛下だけです。それを分かっていただかなくてはね。」

 言われた従者が駕籠かごを下ろそうとすると、御台は憤激した。地面に駕籠かごを着けたくないらしい。仕方がないので、数寄すけは馬の鞍に持ち手を載せた。その間にも、敬意が足りない、さらし者にしてやる、だのと御台のねちっこいヒステリーはとまらなかった。あの従者を、数寄すけは始めてみる。恐らくついこの間も、つまらない理由で従者を切ってしまったのだろう。気の毒なところに買われたものだ、と、しげしげと見ているうちに、従者は菩提樹の下にたどり着く。両手をあげて、何か必死に頼む姿は、物乞いのようだ。クシャトリヤに買われても、スードラの出自は隠せないと言うことだろうか。

 しかし聖者は、彼の要求を聞いて、御台の所に来るのだろうか。まさかこの国第二位の貴婦人が、こんな地方都市にいるとは思いもしないだろうに。否、分かっていて、この菩提樹にいたのだろうか。

 葉の影から、一人の若者がするすると降りてくる。そしてひざまずいた従者の頭に手をあて、―――何やら祈りを捧げているようだった。風が再び吹く。

「何事においても堂々としているのです。是は是、否やは否やとはっきり言うことこそ、メシアは望まれます。優柔不断であることを、メシアは嫌います。そして、ご自分の愛を裏切ることを何よりも嫌います。そのような者たちは、どんな目に遭っても顧みられません。メシアを愛さないことがどれほど恐ろしいことか、分かるでしょう? 服を二枚持っているバラモンは、ダリットに一枚あげなさい。儲けたヴァイシャは、そのお金でスードラの賃金を上げなさい。クシャトリヤは、この教えを護るために邪教と戦うのです。そして皆様方、地位や身分、金や宝石に惑わされてはいけません。さあ、そこのご婦人を通してあげてください。今この国で最も悩める女性が来ているのです。私は彼女に、神の言葉を伝えなければなりません!」

 民衆は始め、どこを示されているのか分からなかったようだったが、一人が御台に気づいて声を上げると、ずざざっと砂を引きずって道を作った。御台は驚いていて、声も出さずにいる。数寄すけは叫んだ。

「聡明なる賢者殿! ここに居られます貴人は、異邦人には想像も出来ないほどに尊いお方! おいそれと人の前に出て、衆目にご尊顔を晒すわけにはいかないのです! どうぞいらして、この開けた道の真ん中で、教えをお説きください!」

 やはり数寄すけには、この聖者はある種のカリスマ性が無いように感じられる。今までのどのサモンの教えにもあった、稲妻のような興奮が訪れないのだ。だからそのように教えを説く側の人間を呼び寄せることが出来る。しかし聖者はそれを無礼とは言わず、にこにこ歩きながら、説教を続けた。

「親愛なる私達の姉妹の皆さん、夫を持つ妻の方々。人は死にます。それは避けられない運命です。ですが、貴女方がもしメシアを信じるのなら、貴女方は永遠に未亡人にはなりません。それどころか、死が二人を分かつとも、再び結ばれることが約束されているのです。それはすべて、メシアがこの世に来ることを預言されていた、イスラエルの書物「トーラー《旧約聖書》」に書いてあることなのです。ですから、今子供がいる婦人は、これ以上無駄に子供を作る行いをして、神の御業を告げ知らせる素晴らしい奉仕から遠ざかってはいけません。今子供がいないご婦人は、これから夫と間違った性行為をしてはいけません。その男は貴女の主人ではありません。私達の本当の花婿はメシアただ一人だけ。メシアはすべての女性の花婿です。そして、すべての男性の花嫁でもあります。従って! その操を、メシアの為に大切に守りぬくことが重要です!」

 民衆たちは聞き入っている。聖者は拳を突き上げ、高らかに叫んだ。

「ハレルヤ、神の子メシアよ! 貞潔であれ、純潔を護れ! 男はメシアを娶り、女はメシアに嫁ぎなさい。セックスを止めなさい! オナニーを止めなさい! 快楽を貪る一切合財を止めなさい! 常に自分を律し、来るべき裁きの日に備え、何の負い目も無いように、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、貴方方の神メシアを愛しなさい! メシアを愛するものは、メシアの掟を護ります。メシアの掟を護らずに、メシアを愛していると嘯く輩は偽者で、羊の皮を被った狼です! 狼をゆるしてはなりません! 蛇のように狡猾に、狼を追い出しましょう!」

「追い出せ! 追い出せ! 追い出せ!」

「狼を殺せ! 偽隣人を殺せ! 隣人を護るために、不義の輩を殺せ!」

「殺せ! 殺せ! 殺せ!」

 民衆たちの熱気は、恐ろしい未来を描く蜃気楼さえ作り出しそうだった。数寄すけはそれでも、心に響かないことが逆に不思議だった。今まで、あのようなサモンは見たことが無くて、言っていることも、この国の価値観とはまるで違う。海の向こうから伝わってくるのに相応しい、よい文化だと思う。思うのに、数寄すけの頭と心に植えつけられたサモンの知恵は、この聖者を否定するように、と、警告している。

 声を一言も発しないまま、数寄すけが思索に耽っていると、駕籠かごから御台が飛び出した。美しい着物の下が、顔が、ところどころ赤く腫れている。曲がりなりにも男に生まれた数寄すけは、あの肌が苦手だ。あれをずっと観ていると、数寄すけは自分が自分でいるための、何か大切なものを自分の手で壊しそうになるのだ。

「聖者様! 聖者様、どうかお助けください! 妾はこの国の首相の妻にございます。」

 聖者の足元にひざまずき、御台は顔を覆って泣き叫んで言った。

「ああ、聖者様、本当に主人を拒んでよいのでしょうか。主人は加虐嗜好で、妾の頬を叩いたり、抓ったり、脇腹や尻を叩いたりするのです。それに目新しいものが大好きで、昔から様々な道具を使い、妾を怖がらせるのです。妾がそれに驚いて縮こまるのが好きだと言って、もう何年もそういうまぐわいをしてきました。主人は妾を叩かないと満足できないといって、妊娠しても、子供が生まれたばかりでも、妾と無理矢理繋がりこそしなくても、行為の間はずっと妾を打つのです。もう嫌です、聖者様! 痛いのはいやっ! いやっ!」

 泣き崩れた御台を抱きしめ、聖者はそれは邪淫だから避けるように、その為にはまず、駕籠かごについている全ての宝石を売って人々に還元しなさい、と、言った。数寄すけはいつ、この聖者が素晴らしい言葉を発するのか、と、ずっと観ていたが終ぞこの聖者から何も聞きだすことは出来なかった。

 それが丁度正午ごろのことだった。


 数寄すけは馬を駆り、サーウーヴァラに着いた。午後の三時頃だったろうか。ここには数寄すけの母の実家がある。いろいろあって随分と長く実家にいて、連絡も碌に出来る状況ではなかったのだが、夕べの瞑想のとき、ふと母と祖母のことを思い出し、来て見ようと思ったのだ。

 といっても、本当になんとなく来ただけだ。これで何も変わっていなかったらどうしよう、という気は不思議としないけれども、悪転していたらやだなァ、と、ため息をつく。

 屋敷の前は、何やら沢山の足跡で凸凹していた。泥濘でもないのに、だ。相当多くの者がいたのだろう。そして塀も一部が壊れている。

「突然ですまない。母上はまだ正気に戻っておられなんだか。」

 草むしりをしていた下男に声をかけると、下男はぱちぱち、ぱちくりと瞬きをし、その青年がつい夕べ正気に戻った女達の孫で息子であることを理解し、大声を上げて驚いた。

「若君! 若君ではありませんか! いや本当に、なんというタイミング! ささ、どうぞどうぞ入ってください。素晴らしい知らせでございます。なんとお早い、使いのものと入れ違いになったのですな!」

 下男は門を開け、数寄すけを屋敷の中に入れながら、尚も喋る。召使たちは、久しぶりの若旦那の帰宅に驚いていたようだったが、下男が報告したいと思うことを全て報告してしまっているので、何も言わなかった。

 気のせいだろうか。ここの召使たちは、もっと引き締まって緊張感があり、虫一匹台所に入れないかのような徹底主義だったと思ったのだが…。

「なんだ、ついに祖父上が祖母上を離縁するのか?」

「いいえいえ! 逆でございます! この家をあの山猿―――いえ、若君のご祖父だった男が出て行くのです。ですので今日から、この屋敷でも、この国でも、将軍様は若君ただお一人になるのです!」

「馬鹿を言うでない。祖父上が家を出る理由が無かろう。」

「それを、聖者様が暴いてくだすったのです。ええもう、あたくし共は皆思っていましたとも、あのような破廉恥をいつまでも許すわけにはいかない、と!」

 聖者様とは、あのマラバールにいた者のことではないのだろうか。なるほど、聖者と言うからには、なにか凡人には仕えない能力があるのかもしれない。例えば瞬間移動のような。

「よく分からないが…。とりあえず、この先に母上か祖母上がいらっしゃるのか?」

「いいえいえ、今、聖者様にお取次ぎいたします。」

 要らない、と、言おうとした時、丁度二人は廊下の角を曲がった。

 その瞬間、空気が変わった。まるで雨季の死体の匂いが、乾いた砂漠の匂いになったかのように。すぐに理解する。ここにはとんでもない方がいる。そしてこの下男は、今からその方に自分を会わせてくれるのだ。これはいけない、自分から行かなくては。

 手前から三つ目の扉に飛びつき、声をかける。

「もし! この部屋に去る高貴なお方がいらっしゃると確信しております、わたくしはこの屋敷の元主、サータヴァーハナの将軍の男孫。マラバールの姻族の家より、虫の知らせで只今参った次第! どうぞお開けください!」

 足音が近づいてくる。どきどきしながらその扉が開くのを待つ。扉が開く。隙間から、髭をたっぷりと蓄えた屈強な男が、こちらを覗いた。

「何用であるか。」

「失礼だが、貴殿はわたくしの会いたい貴人ではない。この中に、神に選ばれた聖なるお方がいらっしゃるはずだ。わたくしはそのお方に導かれてここに来たのだ。たった今確信した。昨夜の瞑想の時に、わたくしを呼んだのだ。」

 ぱちぱち、ぱちくり、と、男は瞬きをした。そして一拍おいて、ははは、と、大きな声で笑い、扉を開いた。

「師父! 師父! 怯える事は無い、貴方の価値を量る者よ。是非会ってみたまえ、貴方の為にメシアが使わされた者ぞ。」

 部屋の中に入ると、大きな、新しいシーツの掛けられた寝台に、誰かが横たわっていた。左右に男女のよく似た戦士が控えている。まだあどけない年だが、恐らく二人は刺客だ。それも双子の刺客。彼等は寝台の奥、枕のほうに語りかけた。

「師父、どうぞわたしに掴まってください。」

「ゆっくり、師父。大丈夫です、不届き者ならぼくが切って捨てますから。」

 ふふ、と、寝台の人物が笑う気配がした。

「お客人、どうぞこちらへ…。」

「有難く。」

 深くお辞儀をして、寝台に近づく。

 少しやつれているようだ。背中の真ん中までありそうな髪が、顔の前で幾筋が垂れ下がっているた。それに何より、疲れた眼をしている。

疲労ひろう困憊こんぱいのところ、拝謁の誉れを授かり誠に恐悦至極にございます。わたくしはこの屋敷の主人であった将軍の男孫、ただ一人の嗣子にございます。数年前、わたくしの母が気がおかしくなり、この実家に帰っていたのですが、昨夜虫の知らせでこちらに帰るように心が強く動き、こちらに参上したところ、何か太陽の薫に導かれ、この部屋におります。」

 数寄すけは目の前の、このみすぼらしく見える男が、この家の中で最も尊い存在であると確信していた。昼間見た若者ではない。この男こそが、真の聖者だ。

「事情はよく分かりました。でも私は、貴方が思っているような人間ではありません。」

 そういって、ぽろぽろと男は涙を流した。少女の方が、その涙を絹で拭う。この貴人は、何かとてつもない苦しみを抱えておられるのだ、と、数寄すけは理解し、胸が詰まった。

「聖者様、私は昼間、マラバールで異邦の聖者を名乗る輩に会いました。しかし何のときめきもこれといった煌きもありませんでした。わたくしは数寄すけ者です。次代の将軍としてではなく、人としての生き方を模索してまいりました。今わたくしの魂は感動に打ち震えています。貴方様こそが誠の聖者、貴方の教えこそが完璧な悟りだと確信しているからです。」

 しかし男の―――聖者の涙は止まらなかった。ほろりほろほろと流れ、唇は震えている。数寄すけはその男に何があったのかは分からなかったが、これほどに高潔な方を蝕むような恐ろしい出来事が、世の中にある事だけは分かった。

「師父、自分の側面に驚いたことは仕方あるまい。それは否定せぬ。しかし師父の気配をかぎつけ、名前も知らぬ神の呼び声に答える程信心深いこの青年の、言葉と信仰を否定するのか?」

「それは…。」

「師父、祈りが必要ならば祈ろう。貴方は西の果てでメシアの教えの後継者の一人として選ばれ、特に大きな恵みを受けたのであろう? そこな若者が、真っ先に師父に近づいていったことが、全てを物語っていよう。」

「………。」

 それでも男の顔は晴れない。数寄すけはもう一度深く頭を下げて希った。

「聖者様、どうぞわたくしをお導きください。我が祖父が何か大きな過ちをこの家で起こしたのでしょう。それを聖者様が正して下さったのは、先ほど下男に聞きました。身内の恥を雪ぎたいのです。何卒、わたくしをお導きください。よりよい施政者になるために!」

「………。ええ、侍従長の言うとおりですね。青年よ、顔を上げなさい。貴方はなんと呼べばよいでしょう。」

 ぱっと数寄すけの顔が明るくなった。

「はっ! 名乗るほどのものではございませんが人は皆わたくしのことを数寄すけと呼びます。」

「そうですか。では数寄すけ、話をしましょう。罪とゆるしの話です。侍従長、奥方と大奥方を呼んできなさい。新しい恵みを、この青年を通して、メシアに授かりましたから。」

 そう言う師父ディディモの顔は、涙に濡れてはいるものの、美しく微笑んでいた。侍従長は安心して、部屋を出た。


 その数日後の事。ようやくディディモも薬湯が効いてきたのか、顔色もよくなり、外に説教へ出た。数寄すけがあったという、カリスマ性の無い聖者―――シタ・ナーギニーのことも気になっていた。

 彼女の言葉はあまりに合理的で美しい言葉だ。それ故に、ディディモですら惑わされたのだ。実を言うと、今でもディディモはそれについては不安だ。確証がない。賛同者もいない。何故ってそれは無論、ディディモよりもメシアに近い場所にいる者がいないからだ。それは信仰がどうのという話ではなく、偏にそこに、メシアのことだけを考えて洗礼を受けたものがいない。確かに愛するものと同じ信仰や志に従いたいというのは理解できるし、洗礼を授けた事を後悔はしていない。ただ、メシアへの根本的な関わり方も態度も違うのだ。洗礼はメシアの子として、その庇護下にあると言うことを示すもの。であれば、同父母兄弟であったとしても、その在り方に口を挟むべきではない。

 そういう風に考えていくと、やはりディディモは、一人でそれを決め、歩かなくてはならない。

 パルティアの時の様に、自分を雁字搦めにしておくことがどれほど楽なことだったであろう、と、しみじみ思う。寂しさが付きまとっても、あれを護らなければ、これを破っていないか、という些末事に気をとられていられる。

「聖者様。」

 午前の説教を追え、数寄すけ妹子いもこを使いに行かせて休んでいるときだった。見知らぬ女が、親しげに話しかけてきた。その女の歩いた場所を、目に見えない蛇が這って憑いて来ている。間違いなく、彼女は白蛇女と出会い、そして彼女の祝福を受けたのだ。とはいえ、彼女がディディモを聖者と呼ぶその信仰は本物だろう。ディディモは女を座らせ、話を促した。

「あの後、それとなく夫を拒否しましたの。夫は何も気にしないで、眠りましたわ。こんなに簡単なことだったのですね。」

「拒否と言うと…。」

「邪淫ですわ。妾達の子供は、幼いうちに死にましたけれども、乳母子めのとごがこの家を継いでくれることが決まっていますから、子作りはしないに越したことはありません。」

「………。」

 ああ、またこの結論なのか、と、ディディモは頭を抱える。こればかりは、いい例え話も浮かばない。

 そもそもディディモは、体の上では「産ませる」側であり、イスラエルの掟に即して言えば、いつでも妻を「合法的に捨てられる」という社会的地位にあったのだ。

 メシアは、ご母堂が処女のうちに宿ったと言う。だが母親となる女の揺り篭を、ディディモは有さない。愛するものがいるかいないかには関らず、ただそれだけは、男に生まれついたディディモには想像も出来ないし、してはいけない領域なのだ。もし想像すれば、何故こんなに単純に、明確に分けてしまったのかと、恨み言を一晩中語る羽目になるからだ。

「ええと…。」

「下々のものは妾を御台様と呼びますが、お好きにお呼び下さい。」

「では御台殿。貴方は断られた夫の気持ちを考えたことがありますか?」

 すると御台は、ぷいっとそっぽを向いて答えた。

「あんな、妻を女奴隷と扱っているかのような粗野で野卑な者が、何を考えようと、知ったことじゃありません。」

「御台殿、一度はメシアのお導きにより結ばれた聖なる婚姻を、侮辱するべきではありません。」

「婚姻なんて、メシアの福音を告げ知らせる事に比べたら、ずっとずっと世俗的です。」

 背子せこがその時、いつに無く薄く鋭い口調で、聞こえるような独り言を言った。

「そりゃ、箱入り娘にゃ結婚の価値なんざわからねえさ。」

「何ですって、この無礼者! ああ聖者様、なんて酷いことを言うのでしょう! 妾はメシアの思し召しのとおりにその戒めを護ろうと言うだけなのに、即刻処罰して下さいませ!」

 おおお、と、御台はしなを作ってディディモの膝に顔を埋めて泣く。御台を宥め、ディディモは極めて極めて冷静に言った。

「御台殿、貴方は夫を愛しているのですか?」

「いいえ、愛しておりません。もう冷めたのです。」

「ならば、どうして離縁しないのですか?」

「そんなことはしません。だってあの男の夜の相手さえなれば、万事上手くいくのです。あの男の妻でいる事の方が、都合がいいのです。勿論、メシアの教えを告げ知らせることだって―――。」

「はっきり申し上げます、御台殿。その考え方の方が邪淫です。」

 すると、御台は、あからさまに嫌そうな顔をした。

「でも聖者様、人は繁殖ふえるのではなく、宣べ伝える事が大切だと…。」

「いいえ、違います。神は人間が栄え、幸福になり、その上で初めて神を讃える事を望まれています。人々が幸せになるために、神はメシアを世に遣わし、真の愛の模範を見せて下さったのです。そしてメシアも又、神としての権能を一切捨て、私達の罪の身代わりをする程、愛しておられるのです。」

 御台はそれでも食い下がり、ああだこうだと離縁しないことが合理的であることを説明しているが、ディディモはそっぽを向いて聞き入れなかった。

 結局その日、ディディモは何も話さず、新たなる主人を得た屋敷に帰った。

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