第十九節 内応の二人

 何人かの弟子たちが眠りに落ちていた頃で、イシュもうつらうつらとしながら十を十回以上数える作業をしていた時、不意に、肩を叩かれた。見上げると、会計士が何やら息を弾ませて、切羽詰った様子で覗き込んできていた。

「か、会計士! お前今までどこに―――。」

「静かに。―――今すぐ弟子たちを起こして、此処を離れて下さい。」

「何言ってるんだ? ラビの言いつけでここにいるんだからそんなことは出来ない。」

「そんなことを言っている場合ではありません。もうすぐここにローマ兵が来ます。それも大群で、沢山の剣や棒を携えてやってきます。」

「何だってー!?」

 その悲鳴にも似た声で、弟子たちの数人が覚醒する。これでもまだ眠っている何人かも、むにゃむにゃ言いながら目を覚ましていた。

「貴方方だけでも逃げ延びれば、ラビの御教えは永遠に受け継がれましょう。ですが、ここで貴方方が一網打尽になれば、誰もラビの御教えを受け継ぐことは出来ません。だから、さあ、早く! 彼らの軍靴の音が聞こえる前に!」

 それでもイシュは半信半疑だった。イシュだけではない。その場にいた弟子たちの中には、会計士の事など目もくれず、再び眠ろうとする者までいた。イシュ自身、このまま寝ていたかった。ただでさえ今日は会計士の荷物まで持って疲れているのだ。他の弟子たちも、連日連夜、ラビを護ろうとして疲れ切っている。その疲れは、一朝一夕寝通した位では取れないものだ。

 他の弟子たちが真に受けていないのを見て、会計士は心底傷ついた顔をしたが、イシュにとってはそんなことよりさっさと夢の中へ落ちていく方が大事だ。

「お願いです。ラビの教えを受け継ぐ高弟がここで絶えてしまう訳にはいかないのです。早く、私には出来ない事をやってください。」

 …と、思っていたのだが、気が変わった。何かにつけて鼻につく会計士が、これ程までに低姿勢で頼んでくるのだ。おまけに、自分には出来ないが貴方ならば出来るとまでのたまっている。こうまで来て心の揺さぶられない男はいまい。イシュはがりがり頭を書きながら、先ず目の前にあった馬面の前髪を掴み、片手でぺしぺしと往復ビンタをかまして目を覚まさせた。

「ヒン! 何するんだ、イシュ!」

「お前も手伝え。何やらヤバイ雰囲気だぞ。会計士がタレこみしてくれたんだ、ズラかるぞ。」

「なんだい、ラビに言いつけられてるのに。」

「いいからさっさと皆を起こせ! 会計士が使いに出されるようなことがあったんだよ! 多分! ほら医者、起きろ!」

 ブルンブルンと不平を呟きながら、馬面も皆を起こしにかかる。普段パリサイ人達に付け狙われている高弟八人は渋ったが、それ以外のヘレニストや医者達らは、パッと目を覚ました。

「まだオネムでさぁ…。」

「取税人さんよぉ、もう少し気張りやしょうよ。」

「やかましいわヘレニスト。元・取税人だ。…ふわぁ。」

「しっ! 今何か音が聞こえました。そこの茂みに隠れましょう。」

 危機管理がしっかりしているのは医者だけのようだ。むにゃむにゃぶつぶつ言い争っているヘレニストと取税人を引きずり、皆で茂みの中に隠れる。暗がりでなければきっと直ぐにばれてしまうだろう。全員、上着やら頭やらがあちこち茂みから突き出していた。

 それでもじっとして耳を澄ましていると、実に、実に情けない声が聞こえてきた。あれは禿岩か?

「こっこっ怖いよーーーー!! うわあーん!!」

「こらクソ禿! 一人で逃げんじゃねえ!」

「クソ兄貴が最先端走ってるじゃねえか!」

「ばっきゃろい! これをあいつ等に伝えねえと大変なことになるだろうが!!」

「怖いよーーー! ローマ人怖いよーーー!! 兵隊怖いよーーー!!」

「ぬっ!? あ、あいつらどこ行きやがった!?」

「あ、あれ? 皆どこにいるのー!?」

 祈っている筈の仲間がいないことに気づき、禿岩はパニックになっている。丈夫が茂みの中でとてつもなく残念な顔をしていた。お前は一体いくつなんだ禿岩、と、その場にいた弟子達は皆思ったことだろう。後から坊やもやって来たが、いち早く、茂みの中から突き出ていたイシュの目から上を見つけ、茂みから引きずり出した。それに気づき、兄の方は片手で一人一人掴んで、弟の倍の人数を引きずり出していく。禿岩がどさくさに紛れて茂みの中に飛び込んだときも、兄はつるりと月夜に光る頭を掴んで引き戻した。

「いいかお前ら。会計士がやりやがった!」

「ラビが、ラビがー!」

「連れて来たんだよ!」

「ラビがキスされたんだ!」

「きゃあっ! ラビの唇はいずれわたしのものになる予定だったのに!」

「お前ちょっと黙ってろ。」

 兄弟の訳の分からない呼吸のような説明の中に、禿岩が加わってくる。

「兵隊が、兵隊がわらわらと!」

「縛って、ぎゅーって!」

「ラビの御身体を縛り上げるなんて破廉恥な!」

「違うわイシャ! いいから黙れ!」

「そんでわらわらと、連れてっちまった!」

「お持ち帰り! なんてこと!」

「イシャいい加減にしろ!」

「奴ら、本気で俺達を殺しに来るぞ。なんせ『あの』会計士が裏切りやがったんだからな!」

「逃げろ! 逃げろ! ってか逃げたい!」

「会計士様が裏切った? そんなの、何かの間違いです! ラビからお財布を任される程信任の厚い方なのに!」

 唯一医者が会計士を庇った。が、その場にいた誰もが、遠くに見える松明の光の列を見て恐れ戦いていた。

「今はダメだ、クソ兄貴。せめて夜が明けるまで待って、それからラビを助けに行こう。皆、それまでじっと隠れてるんだ。ラビはきっと、大祭司と総督の所へ引き回される。そのどこかで、落ち合おう。解散!」

「逃げろ、逃げろー!」

「兄さん先走っちゃダメです!」

 皆大混乱で、ぶつかり合い転がって縦横無尽に散らばって行った。ぼんやりと取り残されているイシュの手を掴んだのは、坊やだった。坊やの傍には、ラビの母もいた。

「何やってんだよイシュ! 行くぞ! おばさん、走れなくなったらイシュに負ぶってもらえよな!」

「大丈夫よ、私、頑張って走りますから。」

 しかし、坊やとラビの母は、大祭司の家の方へ一目散に走って行った。イシュは途中で徐々に足を遅くして、わざとはぐれたふりをし、元来た道との間の方向を走った。大祭司の家の近くには、ラビを殺そうとする者達が                     している。そんなところにのこのこと駆け込むなんて、気がどうかしているという物だ。イシュはちっともそれを悪いこととは思わない。何故ならば会計士は言った。『高弟全てが根絶やしになり、教えを絶やすわけには行かない』と。ならば自分一人が生き残るように逃げて、一体何がおかしいと言うのか。

「イシュ、アンタ、ラビを見捨てる気!?」

「お前こそ、ラビの御心を考えろ! ラビは種を撒かれた。今こそぼく達は芽吹く時なんだ!」

「ラビは何も間違ったことをなされていないわ。それなのにあの可哀想なパリサイ人達は嫉妬に狂って罪をでっち上げて、あろうことか奴隷のようにラビを扱うのよ。」

「ラビはイスラエルに神として君臨され王国を築く御方だぞ。こんな所で死ぬわけがない。そんなものは杞憂だ。それよりぼく達は、より多くの剣や棒をもって反乱を起こせる力を集めるべきだ。」

「アンタ、間違ってるわ! ラビは誰も御裁きになられない。今ローマに同胞を売ってる暴君でさえも裁かれないのよ!」

「だからなんだっていうんだ。裁かずに王位につくことなんて、ラビの御力なら容易いことさ。いいから走る事に集中しろ!」 

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