第35話 圧倒的な力の差

 姿を現したのは巨大な魔獣。その巨体が山のどこに隠れていたのかと思うほどだ。その姿はどこか虎を思わせるが、口から生える巨大な牙と、爛々と輝く真紅の双眸が目の前の存在が普通の獣でないことを伝えてくる。

 レインが以前戦ったグラトニータイガーと若干似ているが、同種ではない。魔物と魔獣の大きな違いの一つは、罪から生まれた存在か否かである。罪が体内に溜まれば、人は魔人になり獣は魔獣となるのだ。


「随分と血の臭いが濃いのです。いっぱい食べてるですねお前」

「グルルルルゥ……」


 姿勢を低くして唸り声を上げる魔獣。自分よりもはるかに小さな存在であるサレンのことを魔獣は本能で警戒していた。サレンの身から放たれる圧倒的な威圧に呑まれていた。しかし戦う気力まで失ったわけではない。ジッとサレンのことを睨みつけ、その隙を探ろうとしていた。


「逃げないですか……なるほど。お前、誰かに飼われてるですね」


 サレンと魔獣の力の差は歴然だ。逆立ちしても埋まることが無い力の差がサレンと魔獣の間にはある。だというのに魔獣は逃げようとはしない。本能に従うだけの野生の魔獣ならば、すでに身を翻し逃走を図っていただろう。それをしないのは命を賭してもサレンに挑まなければいけない理由があるからだ。 

 サレンはそれを飼い主がいるからだと考えた。


「サレン達が山に入ったタイミングでの魔獣の襲来。サレンの命を奪うようにとでも言われたですか? でも、魔獣如きでサレンに勝てると思ってるなら……それはずいぶんと甘い考えなのです」


 ゾワッと、サレンの後方にいたレインは鳥肌が立つのを感じた。レインに殺気が向けられたわけではない。レインが受けたのはただの余波だ。サレンの放つ殺気の余波。それだけでレインの体は凍り付いたように動かなくなってしまった。


「サレンがまだ聖女として未熟だから。力もまだ未熟だと……そう思ってるですか? お前のご主人は。サレンはユースティアさんほど優しくないのです。舐められてはいそうですかって済ませられるほど大人じゃないのです。サレンはまだ十三歳の子供ですから」


 サレンが一歩踏み出した。ただそれだけでビクッと魔獣はサレンから距離を取った。傍から見れば滑稽な光景だ。ただの子供にしか見えないサレンが一歩踏み出しただけで、誰もが腰を抜かして慄くであろう大きな魔獣が怯えたように後退を選ぶというのは。

 その後退は魔獣にとっても意図したものではなかった。ただ本能が意思を超えて後退を選ばせたのだ。それに気づいた魔獣は苛立ったように、自身の心を鼓舞するように一際高く咆哮する。


「ガァアアアアアアアッッ!!」


 魔獣は己の心の弱さを叱咤し、地面を踏みしめてサレンに飛び掛かる。その体躯の大きさからは想像もできないほどの速さだ。一回の跳躍でサレンとの距離を詰め、そしてサレンの頭上で大きく爪を振りかぶる。巨木すら容易く切り裂く爪でサレンのことをズタズタにしてやろうと考えたのだ。

 しかしその目論見はあっさりと打ち砕かれる。爪を振り下ろした先にサレンの姿は無かった。

 数瞬前までは確かにそこにいた。魔獣はサレンが移動したことに気づくことすらできなかった。


「どこ見てるですか」


 その声は魔獣の背後から聞こえた。弾かれるように振り返った魔獣が見たのは迫りくるサレンの拳。そこで魔獣の意識は途絶えた。





 決着は一瞬で、あまりにも呆気なかった。魔獣が飛び掛かり、サレンがそれを避け、殴り返した。言葉にするならそれだけだ。それだけで終わった。サレンの拳をまともにくらった魔獣は逆エビのような形となっていた。頭と背骨があらぬ方向に曲がってしまっている。

 あっさりと絶命した魔獣は重い音と共に地面に倒れる。それ以降ピクリとも動くことはなかった。


「もう終わりですか。つまんないのです」

「あの大きさの魔獣を一撃……」

「すごいですね。あれが聖女の力……」

「すげぇなぁ。こいつは驚いた」

 

 イミテルもダムステンも初めて目にする聖女の力に慄いていた。ユースティアや他の聖女の力を知っているレインですら驚きを隠せなかった。

 気を抜きかけたレイン達だったが、それよりも前にサレンが言う。

 

「まだ終わってないですよ」

「え?」

「魔獣はこいつだけじゃないです。まだ臭いが残ってます。そこ……ですっ!」


 足元に落ちていた小石を拾い上げて投げるサレン。亜音速で飛んだその小石は木を圧し折って貫通する。


「グガァッ!?」

「当たったですね。さっきからずっと言ってるですよ。臭いも殺気も隠しきれてないって」


 そこに居たのはもう一頭の魔獣。先ほどと同じタイプの魔獣だった。


「双子だったですか。でもお前の方がちょっと大きいですね。このまま逃げれるとでも思ったですか? その考えは甘すぎるのです。魔獣も魔人と同じ……見つけた以上、逃がすという選択肢はあり得ないのです」


 サレンに睨みつけられたもう一頭の魔獣は、怯えたようにサレンに背を向け逃げようとする。先に殺された仲間の魔獣の姿が脳裏を過ったのだ。その恐怖が自らの主の命令よりも生存を優先させた。

 しかし、その決断はあまりにも遅すぎた。サレンの前に姿を現してしまった時点でこの魔獣の運命は決まっていたのだ。


「逃がさないですよ」


 逃げ出した魔獣との距離を一瞬で零にするサレン。そのまま拳を振りかぶり背中に向けて一撃。地面に叩きつけられ、魔獣の肉体はひしゃげた。


「後悔するなら、サレン達の前に現れたことと……お前達の主人が考え無しの愚か者だったことを後悔するといいです。ま、後悔したところで遅いですけど」


 サレンは拳についた土を払うと、レイン達の元へと戻って来る。


「もう大丈夫なのです」

「なんていうか……一瞬でしたね」

「変異体でもない普通の魔獣ならあんなものなのです。身体能力に頼りきっているようではまだまだ、なのです」

「それティーチャルさんの言葉ですか?」

「ど、どうしてわかったですか!?」

「どうしても何も……」


 サレンの戦い方もどちらかといえば身体能力にものを言わせているように見えた。だからこそサレンの面倒を見ているロゼが言いそうな言葉だと思ったのだ。


「サレンもいっつも注意されるのです。身体能力に頼り切るなーって。だから今は練習中なのです!」

「練習中であれですか……」

「あれでも結構抑えたですよ。じゃないと木っ端微塵にしちゃうです」

「木っ端微塵に?」

「木っ端微塵です!」

「ま、まぁそれは置いといて。あの魔獣が飼われてるって言ってましたけど。本当ですか?」

「はいです。間違いないと思うですよ」

「魔獣を飼うことができるのって……魔人くらいですよね」

「だと思うです」

「いや、だったらまずいじゃないですか! この近くに魔人がいるってことですよね!」

「……あ! そういえばそうなのです!」

「そうなのです! じゃないですよ。イミテルとダムステンさんを早く山から出さないと。それにティーチャルさんにも報告しないと」

「このまま魔人を見つけれたらそれが一番早いですけど……さすがに無理そうです。お兄ちゃんの言う通りにした方が良さそうです」

「どうしたんですか?」

「あぁいや、ちょっとという大きな問題が起きて……このまま山にいるのは危険になった。一刻も早く山を降りないと」

「なんでぇ、大猪は狩ったけどよ。まだ熊が狩れてねぇじゃねぇか」

「大丈夫だと思うですよ」

「あん? どういうことでぇ」

「猪たちが村まで降りてきてたのはきっとあの魔獣がいたからです。あの魔獣がいなくなれば山の奥へと戻るはずです」

「なるほどなぁ……いやでも、それだって絶対じゃねぇだろ」

「グチグチうるさいのです。お兄ちゃんの言う通り、今ここにいるのは危険なのです。四の五の言わずにさっさと降りるですよ。これは聖女命令なのです」

「お、おう……わかったわかった。おい兄ちゃん、聖女の嬢ちゃんなんか口が悪くなってねぇかい?」

「えーと、それは……」

「聞こえてるですよ」


 サレンにジロっと睨まれたダムステンはおっかねぇと肩を竦めつつも、それ以上反論することはなく先導するサレンの後に続いて歩きだす。


「…………」

「イミテル? どうしたんだ?」

「いえその……見られていた気がして」

「見られてる?」

「……いえ、たぶん気のせいです。行きましょう」


 見られている。そんな奇妙な違和感を抱えつつイミテルは山を降りるのだった。



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